故郷七十年

28話 辻川の話 生家にあった子供の本

1,407字 約3分 2018年7月31日 公開

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 祖母小鶴は私の生れる二年前、すなわち明治六年に世を去った。昔あった道端に近い、多分二階家であったらしい家で、寺子屋を開いて大勢の子供を教えていた。もうこの旧い家のことは誰一人知った者もない。明治八年に私が生れた時分の家は他所から移して来た前記の小さな家に変っていた。

 両親としてはこの家を建てるのに入り用が多かったに違いないから、いろいろのものを処分したことが想像せられる。代々学問をした家で、父も大変本好きだったのに、私の物心がついたころには、あまり蔵書がなかった理由も、そんなところにあったのかも知れない。

 幼いころ、私の家には三つか四つだけ、子供がいつでも手をつける本があった。

 一つは『三世相(さんぜそう)』といういわば昔の百科全書で、どこの家にも一冊はあった。六十の凶とか、これこれの日に生まれると運が悪いとか欲が浅いとかいうことまで書いてあった。

 次は武家百人一首で、普通の百人一首をまねて、幕末に姫路藩の人が作ったという大変興味のある本で、美濃判半截の各頁に武者絵を描き、その上に和歌が書き入れてあった。曾我兄弟のように子供のよく知っている絵もあったので、とり合いで見たもので、今でも顔などよく憶えている。梶原景時の顔はつぶしてあったが、どこでもそうだったらしい。曾我十郎の歌は、「今日出でて巡りあわずば小(を)車のこの輪のうちになしと知れ君」とあった。

 ずいぶん無茶な歌でよく解らないが、曾我物語からあの兄弟の歌をとろうと思うとそれしかなかった。五郎の歌はもう少し仇っぽいもので、後に私も五郎にこんな歌はおかしいと感じたほどであった。多分井上の兄がまだ養子に行く前に、父母から買って貰って、生家に残しておいたのを、私ら三人の小さい兄弟が奪い合って見たものだったと思う。

 その他に妙な本があった。八犬伝の版本でその第六輯ではなかったかと思う。舟蟲という女の出て来る所からはじまって、十冊か八冊あった。それを何遍読んだかわからない。

 もう一つ『蒙求』の和解というのがあった。シナの本を日本文に直し、仮名をふった、子供のためのもので、これを読むと蒙求の大意がよく解った。

 この四つは確かに子供用としておいてあったが、これ以外はどうも記憶にない。父がどうして買って来たのか『康煕字典』をはじめて買ったので、私もああこんな本があるのかと感心した。母の話に、「お父さんはお前のようじゃなくて、もっと勉強家だった」と、物差しで本の厚さを計って、五分読んだとか七分読んだとかいったものだということを、聞かされたのを憶えている。

 それほどなのに、本格的な本はほとんど残っていなかった。理由を母にきいてみたところ、義理の悪いことをした本屋があって、父に迷惑をかけたためだという説明であった。

 はっきり判らないが、私の家で『播陽風雅』という青年雑誌のようなものを二、三冊見たことがある。青年達が詩だの文だのを漢文で書いたものを、父が世話をして一冊に纏めて、どこかの本屋とくんで出版してやったものらしい。留板(とめばん)と称して、昔の版権登録の方式だが、版木のうち一枚だけ版権者の所にもって来ておいて、無断で再版できないことになっていた。その留板の版木が一つか二つ私の家にあったが、父は世才にうとい、ごく単純な人間だったので、その出版事業のため本屋から大変迷惑をかけられたり、何かしたことがいくつか重なったために、神経衰弱になったのだろうと思っている。

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