故郷七十年

49話 辻川の話 義太夫道徳の責任

1,360字 約3分 2018年7月31日 公開

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 婚姻の歴史のことになるが、平安朝のころ、綺麗な娘の所へ夜通う、妻問(つまどい)の話がよくある。露見、古い日本語では「所あらわし」ともいうが、「じつは貴方のお嬢さんを私の家内にしておりますから、ご承認を乞います」という挨拶があるまで、親は知っていながら知らん顔をしている。けれど待ちきれないで、娘の所から他へ心を移したり、逃げてゆかぬよう、婿の穿いて来た草履を抱いて寝たりするまじないさえも出来ていた。娘の所に通う婚姻は、両方とも自由に決められて良い婚姻にはちがいないが、ただ困ることは、棄てっからし、男が浮気者で「とがれ」すなわち離れて来なくなることである。来なくなられては、娘が一人すたれものになるので、それを大変両親が苦労して、草履を抱いたりするまじないが生れたのだった。こういう感覚は、江戸のころの芭蕉の七部集などにもたくさん例がある。婿の方が威張っていて、そんな嫌なことをするなら今度こそ……といわれると、女がしいんとなってしまう。その気持は現在まで続いており、親の圧制で結婚したとか、泣き泣き嫁入りしたということは、じつはありはしないのである。

 田舎ではいったん約束をしてしまった以上、棄てたりすると男はその村におることができないということが多かった。村の人たちが良縁だと思えば思うほど、つまり全体の者が承認してしまうと、それに叛いて他の女に手を出したりすると、村人の制裁を受けるのだった。とくに女の努力が一人一人ではたいしたことはないが、集まった時は非常に大きな力になっていた。貴族のような狭い社会は動きがとれなくて別だが、普通の日本人というものはやっぱり世論というものが背後にあって、これとこれなら良縁だというようなことを考えるわけである。こういう事実を考えないで、昔は親だけが勝手に決めて、泣きながら嫁(ゆ)くなんていわれてきたのは、こうしないとロマンスが面白くないから、王昭君の系統の話を結びつけたのである。それが常識となってしまって、今日のように以前の結婚を馬鹿にし、自由な婚姻制度を初めての獲物みたいに担ぎ出すようになってしまった。「親の許さぬ」などというのは、みんな義太夫道徳がこしらえてしまったもので、まったく文学の罪というの外はない。

 簡単に昔の日本人の生活は粗野であったと片づけてしまう人もあるが、婚姻のモラルにしても固い束縛があったのである。私はかつて赤面したことがあった。信州の諏訪からちょっと西へ入った村のお爺さんに、若い時の夜遊びの話を人を通じて聞いて貰ったことがあるが、その答はじつに素朴で判り易かった。一ぺん約束すればそれが女房と決っていたんだというのである。今の私どもが考えてちっとも差支えないモラル、つまり愛して、嫁に貰うんだとか、貰った以上は棄てないんだという考え方が、古くから日本には続いていたのである。このことを何かの方法で証明したいと思っている。

 今まで学問は、多く士族がしており、士族社会はその生活維持の必要から、いつも厳格な法則に支配せられていた。だから道徳が守られているのは当り前だということになってしまう。こういう社会ではなく、農村の自由な若者が、春先なんか勝手に野原へ出てお互いにつき合えるにもかかわらず、自身の判断で乱れたことをしなかったという点を考えてみる必要がある。

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