神鷺之巻

2話 神鷺之巻(2)

7,118字 約14分 2006年5月4日 公開

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 銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖(こうごうづえ)で、お山に昇る力もなく、登山靴で、(たけ)を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の(とりで)へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。

 石段もところどころ崩れ損じた、控綱の(ほし)いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に()いた、と思うほど、(そび)えていた。

 ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人(むにん)の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を(おお)うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹(ときわぎ)の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を(なび)かして滑かに通った事であった。

 やがて近づく、御手洗(みたらし)の水は乾いたが、雪の白山(はくさん)の、故郷(ふるさと)の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。

 すぐその御手洗の(そば)に、三抱(みかかえ)ほどなる大榎(おおえのき)の枝が茂って、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を、森々(しんしん)と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木(かつおぎ)を見れば、(まが)うべくもない女神(じょしん)である。根上りの根の、(たと)えば黒い珊瑚碓(さんごしょう)のごとく、(うずたか)く築いて、青く白く、立浪(たつなみ)を砕くように床の縁下へ(わだかま)ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞(うつろ)に、清水があって、翠珠(すいしゅ)(たた)えて()くのが見える。

 銑吉はそこで手を(きよ)めた。

 階段を(しずか)に――むしろ(そっ)と上りつつ、ハタと胸を()いたのは、途中までは爺さんが一所に来る(はず)だった。鍵を、もし、(じょう)がささっていれば、扉は()かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。(なか)の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰(およびごし)ながら差覗(さしのぞ)くと、廻縁(まわりえん)の板戸は、三方とも一二枚ずつ(とざ)してない。

 手を扉にかけた。

 (うち)の、その真上に、薙刀(なぎなた)がかかっている筈である。

 そこで、銑吉がどんな可笑(おかし)(ふう)をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。

「お通しを願います、失礼。」

 と云った。

 片扉、とって引くと、床も青く澄んで(ほがら)か。

 絵馬を見て、(たたず)んで、いま、その心易さに莞爾(にっこり)としたのである。

 思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗(ききょう)、萩、女郎花(おみなえし)一幅(いっぷく)の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、(いろ)ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ()ね落ちた。再び(すそ)(ひるが)えるのは、柄長き薙刀の刃尖(はさき)である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を(とお)して、再び光った。

 次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎(おおえのき)の幹を小盾(こだて)に取っていた。

 どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ()げたその形が。――そうして、少時(しばらく)して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。

 柳の影を素膚(すはだ)(まと)うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩(もすそ)へ、腰には、淡紅(とき)の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を(ほのか)に、端が(なび)いて、婦人(おんな)は、頬のかかり頸脚(えりあし)の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた(つま)を薄く引き、ほとんど白脛(しらはぎ)に消ゆるに近い薄紅の蹴出(けだ)しを、ただなよなよと(さば)きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると()き、よろよろと(かえ)って、()きつ戻りつしている。その取乱した(ふり)の、あわただしい(うち)にも、(なまめか)しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく(そよ)(もつ)れるように思わせつつ、堂の縁を往来(ゆきき)した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢(きゃしゃ)な肩で激しく息をした。髪が(かもじ)のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた(すそ)に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖(つまさき)が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋(とりすが)って、柄を高くついた、その薙刀が(さかさま)で……刃尖(はさき)が爪先を切ろうとしている。

 (いくさ)は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を(さかさま)についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血(なまち)(かかと)を染めて伝わりそうで、見る目も危い。

 青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、

貴女(あなた)、貴女、誰方(どなた)にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」

 髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、

「あああ」

 とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、

「小県さん――」

 ()えて、澄み、すこし(かす)れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の(こずえ)から化鳥(けちょう)が呼んだように聞えたのである。

「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」

 この場合、声はまた心持()れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。

 夏は(すだれ)、冬は(ふすま)()を隔てた、もの(ごし)は、人を思うには一段、(ゆか)しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――

 まだ人間に返り切れぬ。薙刀(おび)えの蝉は、少々震声(ふるえごえ)して、

「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」

「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の(はて)なんですの。」

「あ、危い。」

 長刀(なぎなた)朽縁(くちえん)に倒れた。その刃の(ひら)に、雪の(たなそこ)を置くばかり、たよたよと崩折(くずお)れて、顔に片袖を(おお)うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人(おちゅうど)となって、辻堂に《さまよ》った伝説を()のあたり、見るものの目に、幽窈(ゆうよう)玄麗(げんれい)の趣があって、娑婆(しゃば)近い事のようには思われぬ。

 話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために(にぎわ)った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……

 その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路(やまみち)、野道を分入った僻村(へきそん)であるものを。――

 ――実は、銑吉は、これより先き、(ふもと)の西明寺の庫裡(くり)の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入(ハンドバック)を見たし、続いて、准胝観音(じゅんでいかんのん)御廚子(みずし)の前に、菩薩が求児擁護(ぐうじようご)結縁(けちえん)に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇子(おうぎ)銀砂子(ぎんすなご)(はし)に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ(はるか)にその人の面影をしのんだばかりであったのに。

 かえって、木魚に()された提紙入には、美女の古寺の凌辱(りょうじょく)(あやぶ)み、三方の女扇子には、姙娠の婦人(おんな)生死(しょうし)を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品(ふたしな)のいわれに触れるのさえ(いと)うらしいので、そのまま黙した事実があった。

 ただ、あだには見過し(がた)い、その二品に対する心ゆかしと、帰路(かえり)には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。

 いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……(たとえ)にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。

       三

「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」

 ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。

 きれぎれに、

「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」

 泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を(ひら)めかして()ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後(うしろ)むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で(かく)すらしい、というだけでも、この話の運びを辿(たど)って、読者も、あらかじめ(うなず)かるるであろう、この(おんな)は姙娠している。

「私が、そこへ()きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」

 (おんな)は、格子に(すが)って、また立った。なおその背後向きのままで居る。

「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」

「いま、そちらへ参りますよ。」

 落ついて(しずか)にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。

 枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。(ほっそ)りした姿で、薄い色の(つま)を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合(かきあ)わせ掻合わせするのが、茂りの彼方(かなた)に枝透いて、(すだれ)越に薬玉(くすだま)が消えんとする。

 やがて、向直って(きざはし)を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明(わきあけ)()れるまで、ふっくりと、やや円い。

 牡丹(ぼたん)(いだ)いた白鷺の風情である。

 見まい。

「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」

 と、すぐその榎の根の湧水(わきみず)に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入(さしい)れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉(のど)へ通りそうに見えたが、()もうとすると、(たなそこ)が薄く、玉の数珠(じゅず)のように、(しずく)が切れて皆(こぼ)れる。

両掌(りょうて)でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も()にもいりゃしません。」

「はい、いいえ。」

 膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を(おさ)え、やっぱり腹部を(おお)うた、その片手を離さない。

「だって、両掌を突込(つっこ)まないじゃ、いけないじゃありませんか。」

「ええ、あの柄杓(ひしゃく)があるんですけど。」

「柄杓、」

 手水鉢(ちょうずばち)に。

「ああ、手近です。あげましょう。青い(こけ)だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」

「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」

「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」

「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」

 それだと毎日この(ほこら)へ。

「あ、あ。」

 と、消えるように、息を引いて、

「おいしいこと、ああ、おいしい。」

 唇も青澄んだように見える。

「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」

「私が。」

 とて、柄を手巾(ハンケチ)()いたあとを、見入っていた。

「どうしました。」

「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」

満々(なみなみ)と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」

 とぐっと飲み、

「甘露が五臓へ()みます。」

 と(すず)しく云った。

 小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で(ななめ)()ながら、

「まあ、おきれいですこと。」

「水?……勿論!」

「いいえ、あなたが。」

「あなたが。」

「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」

「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を()んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」

 と、はじめて声を出して軽く笑った。

「透通るほどなのは、あなたさ。」

「ええ。」

 と無邪気にうけながら、ちょっと眉を(ひそ)めた。()の下を且つ(おお)う袖。

「一度、二十許(はたちばか)りの親類の娘を連れて、鬼子母神(きしもじん)参詣(さんけい)をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂(おどう)の燈明で()た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も(りん)として……白さは白粉(おしろい)以上なんです。――前刻(さっき)も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」

 誓はうつむく。

 その襟脚はいうまでもなかろう。

「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に(こも)ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」

「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」

 つと寄ると、手巾(ハンケチ)を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処(いどころ)をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。

「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」

「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡(ふりょうけん)を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母(ばあ)さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。

 墓は、草に(うず)まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ()に――しかし、そればかりではありません。

 ――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷(たんぼなわて)の道端に、お中食処(ちゅうじきどころ)の看板が、屋根、(ひさし)ぐるみ、朽倒れに(つぶ)れていて、清い小流(こながれ)の前に、思いがけない緋牡丹(ひぼたん)が、」

 お誓は、おくれ毛を(なび)かし、顔を上げる。

「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、(はんみょう)――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣(ひきくわ)えて、この森の空へ飛んだんです。

 まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣(ころも)の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、(やぶ)へ入って見えなくなったのが――この山(つづき)のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、(やしろ)のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」

 銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、(いきどおり)を含んで、(きっ)として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。

「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜(くやし)いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体(からだ)に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い(こけ)……」

「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」

「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方(あなた)を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」

「忘れました、そういう串戯(じょうだん)をきいていたくはないのです。」

「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお(なか)を引破って、(きも)も臓腑も……」

 その水色に花野の帯が、蔀下(しとみした)の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が(さっ)と通った。

「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」

「何、私なら落ちたんでしょう。」

「そして、石段の上口(あがりくち)に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から(じっ)(のぞ)いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」

 その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度(いくたび)も独りうなずいた。

「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」

「御同様です。」

「その拝殿を、一旦(いったん)むこうの隅へ急いで()げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々(ぼうぼう)と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐(こわ)いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」

「…………」

「その(ばけ)ものに、口惜(くやし)い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……

 ――畜生――

 と声も出ないで。」

「ははあ、たちまち一打(ひとうち)……薙刀ですな。」

「明神様のお持料(もちりょう)です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒(たたきたお)してやろうと思って、」

「切られる分には、まだ、不具(かたわ)です。薙倒されては真二(まっぷた)つです、危い、危い。」

 と、いまは笑った。

「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間(あさま)しい(けだもの)です、畜生です、犬です、犬に()まれたとお思いになって。」

「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に()まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり(きず)も負わないから、太腹(ふとっぱら)らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」

 そこで、(せな)に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。

「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」

 その黒髪は、漆の(やいば)のようにヒヤリとする。

 水へ(すべ)った柄杓が、カンと響いた。

       四

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