2話 神鷺之巻(2)
読み方を変える
銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖で、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。
石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽いた、と思うほど、聳えていた。
ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡かして滑かに通った事であった。
やがて近づく、御手洗の水は乾いたが、雪の白山の、故郷の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。
すぐその御手洗の傍に、三抱ほどなる大榎の枝が茂って、檜皮葺の屋根を、森々と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木を見れば、紛うべくもない女神である。根上りの根の、譬えば黒い珊瑚碓のごとく、堆く築いて、青く白く、立浪を砕くように床の縁下へ蟠ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞に、清水があって、翠珠を湛えて湧くのが見える。
銑吉はそこで手を浄めた。
階段を静に――むしろ密と上りつつ、ハタと胸を衝いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈だった。鍵を、もし、錠がささっていれば、扉は開かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰ながら差覗くと、廻縁の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖してない。
手を扉にかけた。
裡の、その真上に、薙刀がかかっている筈である。
そこで、銑吉がどんな可笑な態をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。
「お通しを願います、失礼。」
と云った。
片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗か。
絵馬を見て、彳んで、いま、その心易さに莞爾としたのである。
思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗、萩、女郎花、一幅の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎ね落ちた。再び裾へ飜えるのは、柄長き薙刀の刃尖である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透して、再び光った。
次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎の幹を小盾に取っていた。
どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁げたその形が。――そうして、少時して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。
柳の影を素膚に絡うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩裳へ、腰には、淡紅の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄に、端が靡いて、婦人は、頬のかかり頸脚の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄を薄く引き、ほとんど白脛に消ゆるに近い薄紅の蹴出しを、ただなよなよと捌きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行き、よろよろと還って、往きつ戻りつしている。その取乱した態の、あわただしい中にも、媚しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦ぎ縺れるように思わせつつ、堂の縁を往来した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢な肩で激しく息をした。髪が髢のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋って、柄を高くついた、その薙刀が倒で……刃尖が爪先を切ろうとしている。
戦は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血が踵を染めて伝わりそうで、見る目も危い。
青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
「貴女、貴女、誰方にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」
髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
「あああ」
とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
「小県さん――」
冴えて、澄み、すこし掠れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢から化鳥が呼んだように聞えたのである。
「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」
この場合、声はまた心持涸れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
夏は簾、冬は襖、間を隔てた、もの越は、人を思うには一段、床しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――
まだ人間に返り切れぬ。薙刀怯えの蝉は、少々震声して、
「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」
「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果なんですの。」
「あ、危い。」
長刀は朽縁に倒れた。その刃の平に、雪の掌を置くばかり、たよたよと崩折れて、顔に片袖を蔽うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人となって、辻堂に《さまよ》った伝説を目のあたり、見るものの目に、幽窈、玄麗の趣があって、娑婆近い事のようには思われぬ。
話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路、野道を分入った僻村であるものを。――
――実は、銑吉は、これより先き、麓の西明寺の庫裡の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入を見たし、続いて、准胝観音の御廚子の前に、菩薩が求児擁護の結縁に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇子の銀砂子の端に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
かえって、木魚に圧された提紙入には、美女の古寺の凌辱を危み、三方の女扇子には、姙娠の婦人の生死を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品のいわれに触れるのさえ厭うらしいので、そのまま黙した事実があった。
ただ、あだには見過し難い、その二品に対する心ゆかしと、帰路には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。
三
「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃めかして薙ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘すらしい、というだけでも、この話の運びを辿って、読者も、あらかじめ頷かるるであろう、この婦は姙娠している。
「私が、そこへ行きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
婦は、格子に縋って、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
落ついて静にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細りした姿で、薄い色の褄を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合わせ掻合わせするのが、茂りの彼方に枝透いて、簾越に薬玉が消えんとする。
やがて、向直って階を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明を洩れるまで、ふっくりと、やや円い。
牡丹を抱いた白鷺の風情である。
見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
と、すぐその榎の根の湧水に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉へ通りそうに見えたが、掬もうとすると、掌が薄く、玉の数珠のように、雫が切れて皆溢れる。
「両掌でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何にもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧え、やっぱり腹部を蔽うた、その片手を離さない。
「だって、両掌を突込まないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの柄杓があるんですけど。」
「柄杓、」
手水鉢に。
「ああ、手近です。あげましょう。青い苔だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
それだと毎日この祠へ。
「あ、あ。」
と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
とて、柄を手巾で拭いたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
「満々と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
とぐっと飲み、
「甘露が五臓へ沁みます。」
と清しく云った。
小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜に視ながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰めた。乳の下を且つ蔽う袖。
「一度、二十許りの親類の娘を連れて、鬼子母神へ参詣をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂の燈明で視た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜として……白さは白粉以上なんです。――前刻も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
誓はうつむく。
その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」
つと寄ると、手巾を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」
「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
墓は、草に埋まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間に――しかし、そればかりではありません。
――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷の道端に、お中食処の看板が、屋根、廂ぐるみ、朽倒れに潰れていて、清い小流の前に、思いがけない緋牡丹が、」
お誓は、おくれ毛を靡かし、顔を上げる。
「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣えて、この森の空へ飛んだんです。
まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪へ入って見えなくなったのが――この山続のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」
銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤を含んで、屹として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔……」
「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」
「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」
「忘れました、そういう串戯をきいていたくはないのです。」
「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹を引破って、肝も臓腑も……」
その水色に花野の帯が、蔀下の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯と通った。
「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」
「何、私なら落ちたんでしょう。」
「そして、石段の上口に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟と覗いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」
その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度も独りうなずいた。
「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」
「御同様です。」
「その拝殿を、一旦むこうの隅へ急いで遁げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」
「…………」
「その怪ものに、口惜い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
――畜生――
と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち一打……薙刀ですな。」
「明神様のお持料です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒してやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、不具です。薙倒されては真二つです、危い、危い。」
と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間しい獣です、畜生です、犬です、犬に噛まれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵も負わないから、太腹らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
そこで、背に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
その黒髪は、漆の刃のようにヒヤリとする。
水へ辷った柄杓が、カンと響いた。
四