3話 承前・稀代の怪事
読み方を変える
「いつ、やったのか。昨夜は大分飲んだらしいが、……はて、気がつかなかったぞ」
ドレゴは寝台を下りた。寝台を下りるとき枕許をふりかえると、枕も夥しい血で赤黒く汚れていた。
そのときも彼はその負傷が、昨夜の梯子酒の行脚のときにどこかで受けたものであろうとばかり考えていた。
彼は、北側の壁にかけてある鏡の前に進み寄った。
「あ! ……」
彼は自分の顔を、幽鬼と見まちがえた。そうであろう、顔色は青く、目は光を失い、頭髪は萱原のように乱れ、そして艶のない頬の上にどろりと、赤黒い血痕が附着しているのであったから。
彼は、非常な後悔の念に駆られた。そして一刻も早くこのような幽鬼の形相から脱れたいと思った。そのために彼は、隣の化粧室の扉を蹴るようにして中へ飛び込んだ。
水をじゃあじゃあと出して、顔をごしごし洗った。首筋から胸へかけても、ひりひりするほどタオルでこすった。うがいも丁寧に二度もやった。そして頭髪に爽快なローションをふりかけ、ブラッシュでぎゅうぎゅうとかきあげた。そして最後の仕上げをチックと櫛に托して、漸く鏡の中にこれなら見られる自分の顔を取戻したのであった。
彼は長大息した。こびりついて放れそうもなかった悪夢が、あらかた彼の身体から出ていったように思った。いやまだ悪夢の断片がまだどこか、この化粧室に残っているような気がする。
彼は周章てて化粧室をとび出した。そして元の寝室へ戻った。そして南向きの窓のあるところへいっていっぱいにレースのカーテンをひろげた。
午前四時のすがすがしい空気が、ヘルナー山の方から彼の胸に向ってぶつかった。彼は目を細くして大きく呼吸をした。真夏といえども山頂に白く雪の帽子を被つているヘルナーの霊峰、そしてその山腹に残っている廃墟オルタの城塞の壁。毎朝目をさますと、きまってドレゴはこのヘルナーの霊峰とオルタの古城を仰いで宇宙万象古今へ挨拶を贈るのであった。この朝彼は不慮の負傷のため、聊か順序をくるわしはしたが、今や新しい精進の気持ちをもって、気高い霊峰の上へ目をやったのであった。
「おお、わが霊の峰ヘルナー。永遠に汚れなくあれ、われは今……」
といいかけて、ドレゴは突然声を停めた。彼の厳かな態度は俄に崩れた。彼の目には怪しい光があった。そして狼狽の色が顔一杯に拡がり、そして全身へ流れていった。
「変だよ、変なものが見える、ヘルナーの峰に……」
ドレゴは、窓から半身を乗りだして、白い雪の帽子を被ったヘルナーの峰を見つめていたが、いくど目をしばたたいてみても、霊峰の上に船の形をしたようなものが見えるのだった。
「莫迦な……」
それでも彼はまだ自分の頭を信じなかった。目を信ずるわけにいかなかった。その揚句彼は一旦窓から半身を引っ込めた。そして再び彼の姿が窓に現れたときには、彼の手には長く伸ばした望遠鏡が握られていた。接眼鏡は左手によって彼の目に当てられた。右手は望遠鏡の先の方を窓枠にしっかりと固定した。焦点が合わせられた。彼の視野に、浅みどりの空と、白い峰の雪とが躍った。やがて彼の探らんとする物体が、レンズの中央にしっかりと像を結んだ一瞬、彼は心臓をぎゅっと握られたように愕いた。
「おお……こんな奇妙な風景があるだろうか……」
彼は見たのだ。信じられないものを霊峰の上に見たのだ。それは彼の目によって見、彼の頭脳によって判断すると、ヘルナー山の峰の雪の上を、一隻の汽船が航行しているのである、船体をやや斜めに傾けて……。
そんなことが有り得べき道理はない。海抜五千十七米のヘルナーの峰に、大海を渡るために作られた汽船が航行中というのはおかしい。が、いくら目をこすってみても、望遠鏡の焦点を再調整してみても、ヘルナーの山頂には少しも変わりなき異風景が見られたのである。ドレゴは遂に暈を催した。彼は望遠鏡を窓枠の上に置くと、そのまま窓の下にへたへたと崩れ座った。そして彼は目を両手で蔽うと、大きな声で泣き出した。それは彼自身が急に身体の調子を失して発狂したのだと思ったからであった。