11話 福翁自伝 02 福翁自伝(11)
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大阪を去て江戸に行く
私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時である。同年、江戸の奥平の邸から、御用があるから来いと云て、私を呼に来た。それは江戸の邸に岡見彦曹と云う蘭学好の人があって、この人は立派な身分のある上士族で、如何かして江戸藩邸に蘭学の塾を開きたいと云うので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をして居た。所で奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木弘庵、杉亨二と云うような学者を雇うて居たような訳けで、私が大阪に居ると云うことが分たものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べと云うことになって、ソレで私を呼びに来たので、その時江戸詰の家老には奥平壹岐が来て居る。壹岐と私との関係に就ては、私は自から自慢をしても宜いことがある。是れは如何しても悪感情がなければならぬ筈、衝突がなければならぬ筈、けれども私はその人と一寸とも戦たことがない。彼は私を敵視し愚弄して居ると云うことは長崎を出た時の様でチャント分って居る。長崎を立つ時に、「貴様は中津に帰れ。帰たら誰にこの手紙を渡せ。誰に斯う伝言せよと命ずるからヘイ/\と畏りながら、心の中では舌を出して、「馬鹿言え、乃公は国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞと云わぬばかりに、席を蹴立てゝ出たことも、後になれば先方でも知て居る。けれどもその後私は毎度本人に逢うて仮初にも怨言を云た事のない所ではない、態と旧恩を謝すると云う趣ばかり装うて居る中に、又もやその大切な原書を盗写したこともある。先方も悪ければ此方も十分悪い。けれども唯私がその事を人に語らず顔色にも見せずに、御家老様と尊敬して居たから、所謂国家老のお坊さんで、今度私を江戸に呼寄せる事に就ても、家老に異議なく直に決して幸であったが、実を申せば壹岐よりも私の方が却て罪が深いようだ。
三人同行大阪から江戸に来るに就ては、何は扨置き中津に帰て一度母に逢うて別を告げて来ましょうと云うので、中津に帰たその時は虎列拉の真盛りで、私の家の近処まで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病最中、船に乗て大阪に着て暫時逗留、ソレカラ江戸に向て出立と云うことにした所が、凡そ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中並に在勤中家来を一人呉れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人振の金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何も要らぬ。けれども茲に旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何だ、実は斯う云う訳けで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れて行て呉れと云たが岡本周吉、即ち古川節蔵である(広島の人)。よし連れて行て遣ろう。連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宜しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜も貸して呉れるが、本当の家来を止めにすれば飯炊がない。その代に連れて行くのだが如何だ。「飯を炊く位の事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、夫れから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連は私と岡本、もう一人備中の者で原田磊蔵と云う矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論歩く。その時は丁度十月下旬で少々寒かったが小春の時節、一日も川止など云う災難に遇わず滞おりなく江戸に着て、先ず木挽町汐留の奥平屋敷に行た所が、鉄砲洲に中屋敷がある、其処の長屋を貸すと云うので、早速岡本と私とその長屋に住込で、両人自炊の世帯持になった、夫れから同行の原田は下谷練塀小路の大医大槻俊斎先生の処へ入込だ。江戸へ参れば知己朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。
江戸に学ぶに非ず教るなり扨私が江戸に参て鉄砲洲の奥平中屋敷に住て居ると云う中に、藩中の子弟が三人、五人ずつ学びに来るようになり、又他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授して居たが、前にも云う通り大阪の書生は修業する為に江戸に行くのではない、行けば教えに行くのだと云う自から自負心があった。私も江戸に来て見た処で、全体江戸の蘭学社会は如何云うものであるか知りたいものだと思て居る中に、或る日島村鼎甫の家に尋ねて行たことがある。勿論緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の飜訳などして居た。私も甚だ能く知て居るので、尋ねて参れば何時も学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の飜訳最中、その原書を持出して云うには、この文の一節が如何しても分らないと云う。夫れから私が之を見た所が、成程解し悪い所だ。依て主人に向て、是れは外の朋友にも相談して見たかと云えば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たが如何しても分らぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕が之を解して見せようと云て、本当に見た所が中々六かしい。凡そ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体是れは斯う云う意味であるが如何だ、物事は分て見ると造作のないものだと云て、主客共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、蝋燭を二本点けてその灯光をどうかすると影法師が如何とかなると云う随分六かしい処で、島村の飜訳した生理発蒙と云う訳書中にある筈です。この一事で私も窃に安心して、先ず是れならば江戸の学者も左まで恐れることはないと思うたことがある。
それから又原書の不審な処を諸先輩に質問して窃にその力量を試したこともある。大阪に居る中に毎度人の読損うた処か人の読損いそうな処を選出して、そうして其れを私は分らない顔して不審を聞きに行くと、毎度の事で、学者先生と称して居る人が読損うて居るから、此方は却て満足だ。実は欺て人を試験するようなもので、徳義上に於て相済まぬ罪なれども、壮年血気の熱心、自から禁ずることが出来ない。畢竟私が大阪に居る間は同窓生と共に江戸の学者を見下だして取るに足らないものだと斯う思うて居ながらも、只ソレを空に信じて宜い気になって居ては大間違が起るから、大抵江戸の学者の力量を試さなければならぬと思て、悪いこととは知りながら試験を遣て見たのです。
英学発心ソコデ以て蘭学社会の相場は大抵分て先ず安心ではあったが、扨又此処に大不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即ち安政六年、五国条約と云うものが発布になったので、横浜は正しく開けた計りの処、ソコデ私は横浜に見物に行た。その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居る丈けで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住で店を出して居る。其処へ行て見た所が一寸とも言葉が通じない。此方の云うことも分らなければ、彼方の云うことも勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知て居る文字と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。居留地をブラ/\歩く中に独逸人でキニツフルと云う商人の店に打当た。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰て来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度一昼夜歩いて居た訳けだ。
小石川に通う横浜から帰て、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞た。是れは/\どうも仕方がない、今まで数年の間、死物狂いになって和蘭の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処に行れて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云うことは予て知て居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、左すればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、一度は落胆したが同時に又新に志を発して、夫れから以来は一切万事英語と覚悟を極めて、扨その英語を学ぶと云うことに就て如何して宜か取付端がない。江戸中に何処で英語を教えて居ると云う所のあろう訳けもない。けれども段々聞て見ると、その時に条約を結ぶと云うが為めに、長崎の通詞の森山多吉郎と云う人が、江戸に来て幕府の御用を勤めて居る。その人が英語を知て居ると云う噂を聞出したから、ソコで森山の家に行て習いましょうと斯う思うて、その森山と云う人は小石川の水道町に住居して居たから、早速その家に行て英語教授の事を頼入ると、森山の云うに、昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうと云うならば教えて進ぜよう、就ては毎日出勤前、朝早く来いと云うことになって、その時私は鉄砲洲に住て居て、鉄砲洲から小石川まで頓て二里余もありましょう、毎朝早く起きて行く。所が今日はもう出勤前だから又明朝来て呉れ、明くる朝早く行くと、人が来て居て行かないと云う。如何しても教えて呉れる暇がない。ソレは森山の不親切と云う訳けではない、条約を結ぼうと云う時だから中々忙くて実際に教える暇がありはしない。そうすると、こんなに毎朝来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来て呉れぬかと云う。ソレじゃ晩に参りましょうと云て、今度は日暮から出掛けて行く。あの往来は丁度今の神田橋一橋外の高等商業学校のある辺で、素と護持院ヶ原と云う大きな松の樹などが生繁って居る恐ろしい淋しい処で、追剥でも出そうな処だ。其処を小石川から帰途に夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さと云うものは今でも能く覚えて居る。所がこの夜稽古も矢張り同じ事で、今晩は客がある、イヤ急に外国方(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬと云うような訳けで、頓と仕方がない。凡そ其処に二月か三月通うたけれども、どうにも暇がない。迚もこんな事では何も覚えることも出来ない。加うるに森山と云う先生も何も英語を大層知て居る人ではない、漸く少し発音を心得て居ると云う位。迚も是れは仕方ないと、余儀なく断念。
蕃書調所に入門その前に私が横浜に行た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買て来た。ソレを独で読とした所で字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解することが出来るから、どうか字書を欲いものだと云た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所と云う幕府の洋学校がある。其処には色々な字書があると云うことを聞出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居と云うものが願書に奥印をして然る後に入門を許すと云う。夫れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私は《かみしも》を着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥のお祖父さんの箕作阮甫と云う人が調所の頭取で、早速入門を許して呉れて、入門すれば字書を借ることが出来る。直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取て、通学生の居る部屋があるから其処で暫く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を包で帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処で見るならば許して苦しくないが、家に持帰ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲から九段阪下まで毎日字引を引きに行くと云うことは迚も間に合ぬ話だ。ソレも漸く入門してたった一日行た切で断念。
扨如何したら宜かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと云う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価五両と云う。夫れから私は奥平の藩に歎願して買取て貰て、サアもう是れで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、唯その字引と首引で、毎日毎夜独り勉強、又或は英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。
英学の友を求むそこで自分の一身は爾う定めた所で、是れは如何しても朋友がなくてはならぬ。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者は悉く不便を感じて居るに違いない。迚も今まで学だのは役に立たない。何でも朋友に相談をして見ようと斯う思うたが、この事も中々易くないと云うのは、その時の蘭学者全体の考は、私を始として皆、数年の間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸で之を棄てゝ仕舞て英学に移ろうとすれば、新に元の通りの苦みをもう一度しなければならぬ、誠に情ない、つらい話である、譬えば五年も三年も水練を勉強して漸く泳ぐことが出来るようになった所で、その水練を罷めて今度は木登りを始めようと云うのと同じ事で、以前の勉強が丸で空になると、斯う考えたものだから如何にも決断が六かしい。ソコデ学友の神田孝平に面会して、如何しても英語を遣ろうじゃないかと相談を掛けると、神田の云うに、イヤもう僕も疾うから考えて居て実は少し試みた。試みたが如何にも取付端がない。何処から取付て宜いか実に訳けが分らない。併し年月を経れば何か英書を読むと云う小口が立つに違いないが、今の処では何とも仕方がない。マア君達は元気が宜いから遣て呉れ、大抵方角が付くと僕も屹と遣るから、ダガ今の処では何分自分で遣ろうと思わないと云う。夫れから番町の村田造六(後に大村益次郎)の処へ行て、その通りに勧めた所が、是れは如何しても遣らぬと云う考で、神田とは丸で説が違う。「無益な事をするな。僕はそんな物は読まぬ。要らざる事だ。何もそんな困難な英書を辛苦して読むがものはないじゃないか。必要な書は皆和蘭人が飜訳するから、その飜訳書を読めばソレで沢山じゃないかと云う。「成程それも一説だが、けれども和蘭人が何も角も一々飜訳するものじゃない。僕は先頃横浜に行て呆れて仕舞た。この塩梅では迚も蘭学は役に立たぬ。是非英書を読まなくてはならぬではないかと勧むれども、村田は中々同意せず、「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。遣るなら君達は遣り給え。僕は必要があれば蘭人の飜訳したのを読むから構わぬと威張て居る。是れは迚も仕方がないと云うので今度は小石川に居る原田敬策にその話をすると、原田は極熱心で、何でも遣ろう。誰がどう云うても構わぬ。是非遣ろうと云うから、「爾うか、ソレは面白い。そんなら二人で遣ろう。どんな事があっても遣遂げようではないかと云うので、原田とは極説が合うて、愈よ英書を読むと云う時に、長崎から来て居た小供があって、その小供が英語を知て居ると云うので、そんな小供を呼で来て発音を習うたり、又或は漂流人で折節帰るものがある、長く彼方へ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行て聞たこともある。その時に英学で一番六かしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、只スペルリングを学ぶのであるから、小供でも宜ければ漂流人でも構わぬ、爾う云う者を捜し廻ては学んで居ました。始めは先ず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を引てソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。唯その英文の語音を正しくするのに苦んだが、是れも次第に緒が開けて来れば夫れはどの難渋でもなし、詰る処は最初私共が蘭学を棄てゝ英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を棄てゝ仕舞い、数年勉強の結果を空うして生涯二度の艱難辛苦と思いしは大間違の話で、実際を見れば蘭と云い英と云うも等しく横文にして、その文法も略相同じければ、蘭書読む力は自から英書にも適用して決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは一時の迷であったと云うことを発明しました。
始めて亜米利加に渡る