12話 福翁自伝 02 福翁自伝(12)
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咸臨丸ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加に軍艦を遣ると云う日本開闢以来、未曾有の事を決断しました。扨その軍艦と申しても至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入に蒸気を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭から買入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸く進歩したから、この度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯う云う訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海の事に就ては色々お話がある。
今度咸臨丸の航海は日本開闢以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時亜米利加の甲比丹ブルツクと云う人が、太平洋の海底測量の為めに小帆前船ヘネモコパラ号に乗て航海中、薩摩の大島沖で難船して幸に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だから之に乗て帰国したいと云うので、その事が定まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと云う。何故かと云うに、若しその人達を連れて帰れば、却て銘々共が亜米利加人に連れて行て貰たように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。夫れ是れで政府も余程困た様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと云う老婆心であったと思われる。
木村摂津守艦長木村摂津守と云う人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに違いない。夫れから私はどうもその船に乗て亜米利加に行て見たい志はあるけれども、木村と云う人は一向知らない。去年大阪から出て来た計りで、そんな幕府の役人などに縁のある訳けはない。所が幸に江戸に桂川と云う幕府の蘭家の侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名を命けて宜しい名家であるから、江戸は扨置き日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレ故私なども江戸に来れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々その家に出入して居る。その桂川の家と木村の家とは親類――極近い親類である。夫れから私は桂川に頼で、如何かして木村さんの御供をして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙を貰て木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許して呉れて、連れて行て遣ろうと斯う云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の世態人情に於て、外国航海など云えば、開闢以来の珍事と云おうか、寧ろ恐ろしい命掛けの事で、木村は勿論軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初にも自分から進で行きたいと云うのであるから、実は彼方でも妙な奴だ、幸と云う位なことであったろうと思う。直に許されて私は御供をすることになった。
浦賀に上陸して酒を飲む咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行た。同時に日本から亜米利加に使節が立て行くので、亜米利加からその使節の迎船が来た。ポーハタンと云うその軍艦に乗て行くのであるが、そのポーハタンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸に上て茶屋見たような処に行て、散々酒を飲でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀が一つあった、是れは船の中で役に立ちそうな物だと思て、一寸と私が夫を盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯を盛て本式に喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立て喰う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持て帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けばその浦賀で上陸して飲食いした処は遊女屋だと云う。夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。
銀貨狼藉扨それから船が出てずっと北の方に乗出した。その咸臨丸と云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭を焚くと云うことは出来ない。只港を出るとき這入るときに焚く丈けで、沖に出れば丸で帆前船、と云うのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗て太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船が四艘あったが激浪の為めに二艘取られて仕舞うた。その時は私は艦長の家来であるから、艦長の為めに始終左右の用を弁じて居た。艦長は船の艫の方の部屋に居るので、或る日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思て艫の部屋に行た、所がその部屋に弗が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押入の中に積上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、劇しい船の動揺で、弗の袋が戸を押破て外に散乱したものと見える。是れは大変な事と思て、直に引返して舳の方に居る公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大に驚き、場所に駈付け、私も加勢してその弗を拾集めて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替と云う事に就て一寸とも考えがないので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持て行くと云う極簡単な話で、何万弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵めて置たその金が、嵐の為めに溢れ出たと云うような奇談を生じたのである。夫れでも大抵四十年前の事情が分りましょう。今ならば一向訳けはない。為替で一寸と送て遣れば、何も正金を船に積で行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋の立浪が能く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くと云うことは毎度の事であった。四十五度傾くと沈むと云うけれども、幸に大きな災もなく只その航路を進で行く。進で行く中に、何も見えるものはないその中で以て、一度帆前船に遇うたことがあった。ソレは亜米利加の船で、支那人を乗せて行くのだと云うその船を一艘見た切り、外には何も見ない。
牢屋に大地震の如し所で三十七日掛て桑港に着た。航海中私は身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思えば宜いじゃないかと笑て居る位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなったので布哇に寄るか寄らぬかと云う説が起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫等が、動もすると水を使うので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云たら甲比丹の云うには、水を使うたら直に鉄砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾う思えと云うような訳けで水を倹約したから、如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亜米利加に着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物は草鞋だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった)。
日本国人の大胆併しこの航海に就ては大に日本の為めに誇ることがある、と云うのは抑も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於て和蘭人から伝習したのが抑も事の始まりで、その業成て外国に船を乗出そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即ち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆と云い、是れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人の甲比丹ブルックの助力は仮らないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。亜米利加の人も亦自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合せる丈けの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは一寸でもなかった。ソレ丈けは大に誇ても宜い事だと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡した所で、航海術を五年学で太平海を乗越そうと云うその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレ所ではない。昔々露西亜のペートル帝が和蘭に行て航海術を学んだと云うが、ペートル大帝でもこの事は出来なかろう。仮令い大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、当時の露西亜に於て日本人の如く大胆にして且つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。
米国人の歓迎祝砲海上恙なく桑港に着た。着くやいなや土地の重立たる人々は船まで来て祝意を表し、之を歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。次で陸から祝砲を打つと云うことになって、彼方から打てば咸臨丸から応砲せねばならぬと、この事に就て一奇談がある。勝麟太郎と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端差図する中に、彼の祝砲の事が起た。所で勝の説に、ソレは迚も出来る事でない、ナマジ応砲などして遣り傷うよりも此方は打たぬ方が宜いと云う。爾うすると運用方の佐々倉桐太郎は、イヤ打てないことはない、乃公が打て見せる。「馬鹿云え、貴様達に出来たら乃公の首を遣ると冷かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲して見せると云うので、夫れから水夫共を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計を以て時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張り出した。首尾克く出来たから勝の首は乃公の物だ。併し航海中、用も多いから暫く彼の首を当人に預けて置くと云て、大に船中を笑わした事がある。兎も角もマア祝砲だけは立派に出来た。
ソコで無事に港に着たらば、サアどうも彼方の人の歓迎と云うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様がないと云う程の歓迎。亜米利加人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業に着て自分と同じ事をすると同様、乃公がその端緒を開いたと云わぬ計の心持であったに違いない。ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港に上陸するや否や馬車を以て迎いに来て、取敢えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立た人が雲霞の如く出掛けて来た。様々の接待饗応。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸して呉れ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、船渠に入れて修覆をして呉れる。逗留中は勿論彼方で賄も何もそっくり為て呉れる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ喰えないと云うので、自分賄と云う訳けにした所が、亜米利加の人は兼て日本人の魚類を好むと云うことを能く知て居るので、毎日々々魚を持て来て呉れたり、或は日本人は風呂に這入ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような訳け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節今日は桑港に来いと云て誘う。夫れから船に乗て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。
敷物に驚く所が此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出す。成程是れは馬の挽く車だと始めて発明するような訳け。何れも日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿て居る。ソレでホテルに案内されて行て見ると、絨氈が敷詰めてあるその絨氈はどんな物かと云うと、先ず日本で云えば余程の贅沢者が一寸四方幾干と云て金を出して買うて、紙入にするとか莨入にするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加人が往来を歩いた靴の儘で颯々と上るから此方も麻裏草履でその上に上た。上ると突然酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、先ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何か浮て居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様を申せば、列座の日本人中で、先ずコップに浮いて居るものを口の中に入れて胆を潰して吹出す者もあれば、口から出さずにガリ/″\噛む者もあると云うような訳けで、漸く氷が這入て居ると云うことが分った。ソコで又煙草を一服と思た所で、煙草盆がない、灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火で一寸と点けた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けた所が、どうも灰吹がないので吸殻を棄る所がない。夫れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉で/\火の気のないように捩付けて袂に入れて、暫くして又後の一服を遣ろうとするその時に、袂から煙が出て居る。何ぞ図らん、能く消したと思たその吸殻の火が紙に移て煙が出て来たとは大に胆を潰した。
磊落書生も花嫁の如し都てこんな事ばかりで、私は生れてから嫁入をしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云われて、笑う者もあれば雑談を云う者もあるその中で、お嫁さんばかり独り静にしてお行儀を繕い、人に笑われぬようにしようとして却てマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、凡そ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張て居た磊落書生も、始めて亜米利加に来て花嫁のように小さくなって仕舞たのは、自分でも可笑しかった。夫れから彼方の貴女紳士が打寄りダンシングとか云て踊りをして見せると云うのは毎度の事で、扨行て見た処が少しも分らず、妙な風をして男女が座敷中を飛廻るその様子は、どうにも斯うにも唯可笑くて堪らない、けれども笑ては悪いと思うから成るたけ我慢して笑わないようにして見て居たが、是れも初めの中は随分苦労であった。
女尊男卑の風俗に驚一寸した事でも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗は少も分らない。或る時にメールアイランドの近処にバレーフォーと云う処があって、其処に和蘭の医者が居る。和蘭人は如何しても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを招待したいから来て呉れないかと云うので、その医者の家に行た所が、田舎相応の流行家と見えて、中々の御馳走が出る中に、如何にも不審な事には、お内儀さんが出て来て座敷に坐り込んで頻りに客の取持をすると、御亭主が周旋奔走して居る。是れは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが当然であるに、左りとはどうも可笑しい。ソコで御馳走は何かと云うと、豚の子の丸煮が出た。是れにも胆を潰した。如何だ、マア呆返たな、丸で安達ヶ原に行たような訳けだと、斯う思うた。散々馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかと云う。ソレは面白い、久振りだから乗ろうと云て、その馬を借りて乗て来た。艦長木村は江戸の旗本だから、馬に乗ることは上手だ。江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。夫れからその馬に乗てどん/\駆けて来ると、亜米利加人が驚いて、日本人が馬に乗ることを知て居ると云うて不思議の顔をして居る。爾う云う訳けで双方共に事情が少しも分らない。
事物の説明に隔靴の歎あり夫れから又、亜米利加人が案内して諸方の製作所などを見せて呉れた。その時は桑港地方にマダ鉄道が出来ない時代である。工業は様々の製作所があって、ソレを見せて呉れた。其処がどうも不思議な訳けで、電気利用の電灯はないけれども、電信はある。夫れからガルヴァニの鍍金法と云うものも実際に行れて居た。亜米利加人の考に、そう云うものは日本人の夢にも知らない事だろうと思て見せて呉た所が、此方はチャント知て居る。是れはテレグラフだ。是れはガルヴァニの力で斯う云うことをして居るのだ。又砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くすると云うことを遣て居る。ソレを懇々と説くけれども、此方は知て居る、真空にすれば沸騰が早くなると云うことは。且つその砂糖を清浄にするには骨炭で漉せば清浄になると云うこともチャント知て居る。先方では爾う云う事は思いも寄らぬ事だと斯う察して、懇ろに数えて呉れるのであろうが、此方は日本に居る中に数年の間そんな事ばかり穿鑿して居たのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。只驚いたのは、掃溜に行て見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の空などが沢山棄てゝある。是れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾いがウヤ/\出て居る。所で亜米利加に行て見ると、鉄は丸で塵埃同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。
夫れから物価の高いにも驚いた。牡蠣を一罎買うと、半弗、幾つあるかと思うと二十粒か三十粒位しかない。日本では二十四文か三十文と云うその牡蠣が、亜米利加では一分二朱もする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、呆れた話だと思たような次第で、社会上、政治上、経済上の事は一向分らなかった。
ワシントンの子孫如何と問う所で私が不図胸に浮かんで或人に聞て見たのは外でない、今華盛頓の子孫は如何なって居るかと尋ねた所が、その人の云うに、華盛頓の子孫には女がある筈だ、今如何して居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る容子だと如何にも冷淡な答で、何とも思て居らぬ。是れは不思議だ。勿論私も亜米利加は共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云えば大変な者に違いないと思うたのは、此方の脳中には源頼朝、徳川家康と云うような考があって、ソレから割出して聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思うたことは今でも能く覚えて居る。理学上の事に就ては少しも胆を潰すと云うことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全く方角が付かなかった。或時にメールアイランドの海軍港に居る甲比丹のマツキヅガルと云う人が、日本の貨幣を見たいと云うので、艦長は予てそんな事の為めに用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判を始めとして万延年中迄の貨幣を揃えて甲比丹の処へ送て遣た。所が珍らしい/\と計りで、宝を貰たと云う考は一寸とも顔色に見えない。昨日は誠に有難うと云てその翌朝お内儀さんが花を持て来て呉れた。私はその取次をして独り窃に感服した。人間と云うものはアヽありたい、如何にも心の置き所が高尚だ、金や銀を貰たからと云てキョト/\悦ぶと云うのは卑劣な話だ、アヽありたいものだ、大きに感心したことがある。
軍艦の修繕に価を求めず前に云うた通り亜米利加人は誠に能く世話をして呉れた。軍艦を船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと云うと、彼方の人は笑て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。
始めて日本に英辞書を入るその時に私と通弁の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買て来た。是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ外には何も残ることなく、首尾克く出帆して来た。
義勇兵所で私が二度目に亜米利加に行たとき、甲比丹ブルックに再会して八年目に聞た話がある。それは最初日本の咸臨丸が亜米利加に着たとき、桑港で中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛にしなければならぬと云うので、彼処に陸軍の出張所を見たようなものがある。其処へ甲比丹ブルックが行て、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、華盛頓に伺うた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断で遣れと談じても、兎角埓が明かないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ此方に仕様があると云て、夫れから方向を転じて桑港の義勇兵に持込んで、どうだ斯う云う訳けであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は大悦びで直に用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断軍役のあるではなし、大将は御医者様で、少将は染物屋の主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も持て居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何か暇な時か又は月夜などに操練をして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時は先ず若い者の道楽仕事であるから、折角拵えた軍服も滅多に着ることがない所に、今度甲比丹ブルックの話を聞て千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。
布哇寄港祝砲と共に目出度桑港を出帆して、今度は布哇寄港と定まり、水夫は二、三人亜米利加から連れて来たけれども、甲比丹ブルックは居らず、本当の日本人ばかりで、何やら斯うやら布哇を捜出して、其処へ寄港して三、四日逗留した。逗留中、布哇の風俗に就ては物珍しく云う程の要用はないだろう、と思うのは、三十年前の布哇も今も変たことはなかろう、その土人の風俗は汚ない有様で、一見蛮民と云うより外仕方がない。王様にも遇うたが、是れも国王陛下と云えば大層なようだけれども、其処へ行て見れば驚く程の事はない。夫婦連で出て来て、国王は只羅紗の服を着て居ると云う位な事、家も日本で云えば中位の西洋造り、宝物を見せると云うから何かと思たら、鳥の羽で拵えた敷物を持て来て、是れが一番のお宝物だと云う。あれが皇弟か、その皇弟が笊を提げて買物に行くような訳けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。
少女の写真それから布哇で石炭を積込んで出帆した。その時に一寸した事だが奇談がある。私は予て申す通り一体の性質が花柳に戯れるなどゝ云うことは仮初にも身に犯した事のないのみならず、口でもそんな如何わしい話をした事もない。ソレゆえ同行の人は妙な男だと云う位には思うて居たろう。夫れから布哇を出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。是れはどうだ(その写真は此処に在りと、福澤先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年前の福澤先生の傍に立ち居るは十五、六の少女なり)。その写真と云うのはこの通りの写真だろう。ソコでこの少女が芸者か女郎か娘かは勿論その時に見さかいのある訳けはない――お前達は桑港に長く逗留して居たが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、朝夕口でばかり下らない事を云て居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、大に冷かして遣た。是れは写真屋の娘で、歳は十五とか云た。その写真屋には前にも行たことがあるが、丁度雨の降る日だ、その時私独りで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、亜米利加の娘だから何とも思いはしない、取りましょうと云うて一緒に取たのである。この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、口惜しくも出来なかろう、と云うのは桑港でこの事を云出すと直に真似をする者があるから黙て隠して置て、いよ/\布哇を雛れてもう亜米利加にも何処にも縁のないと云う時に見せて遣て、一時の戯に人を冷かしたことがある。
不在中桜田の事変帰る時は南の方を通たと思う。行くときとは違て至極海上は穏かで、何でもその歳には閏があって、閏を罩めて五月五日の午前に浦賀に着した。浦賀には是非錨を卸すと云うのがお極りで、浦賀に着するや否や、船中数十日のその間は勿論湯に這入ると云うことの出来る訳けもない、口嗽をする水がヤット出来ると云う位な事で、身体は汚れて居るし、髪はクシャ/\になって居る、何は扨置き一番先に月代をして夫れから風呂に這入ろうと思うて、小舟に乗て陸に着くと、木村のお迎が数十日前から浦賀に詰掛けて居て、木村の家来に島安太郎と云う用人がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上てその島に遇うた。正月の初に亜米利加に出帆して浦賀に着くまでと云うものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云うものもない。その間は僅に六箇月の間であるが、故郷の様子は何も聞かないから、殆んど六ヶ年も遇わぬような心地。ヒョイと浦賀の海岸で島に遇て、イヤ誠にお久振り、時に何か日本に変た事はないかと尋ねた所が、島安太郎が顔色を変えて、イヤあったとも/\大変な事が日本にあったと云うその時、私が、一寸と島さん待て呉れ、云うて呉れるな、私が中てゝ見せよう、大変と云えば何でも是れは水戸の浪人が掃部様の邸に暴込んだと云うような事ではないかと云うと、島は更らに驚き、どうしてお前さんはそんな事を知て居る、何処で誰れに聞た、聞たって聞ないたって分るじゃないか、私はマア雲気を考えて見るに、そんな事ではないかと思う、イヤ是れはどうも驚いた、邸に暴込んだ所ではない、斯う/\云う訳けだと云て、桜田騒動の話をした。その歳の三月三日に桜田に大騒動のあった時であるから、その事を話したので、天下の治安と云うものは大凡そ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えて見るとゞうせ騒動がありそうな事だと思て居たから、偶然にも中たので誠に面白かった。
その前年から徐々攘夷説が行れると云う世の中になって来て、亜米利加に逗留中、艦長が玩具半分に蝙蝠傘を一本買た。珍しいものだと云て皆寄て拈くって見ながら、如何だろう之を日本に持て帰てさして廻たら、イヤそれは分切て居る、新銭座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に浪人者に斬られて仕舞うに違いない、先ず屋敷の中で折節ひろげて見るより外に用のない品物だと云たことがある。凡そこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が盛になって来た。
幕府に雇わる亜米利加から帰てから塾生も次第に増して相替らず教授して居る中に、私は亜米利加渡航を幸に彼の国人に直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉く英書を教える。所がマダなか/\英書が六かしくて自由自在に読めない。読めないから便る所は英蘭対訳の字書のみ。教授とは云いながら、実は教うるが如く学ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方(今で云えば外務省)に雇われた。その次第は外国の公使領事から政府の閣老又は外国奉行へ差出す書翰を飜訳する為めである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ず和蘭の飜訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字読む者とては一人もなく、止むを得ず吾々如き陪臣(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたに就ては自から利益のあると云うのは、例えば英公使、米公使と云うような者から来る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添うてある。如何かしてこの飜訳文を見ずに直接に英文を飜訳してやりたいものだと思て試みる、試みて居る間に分らぬ処がある、分らぬと蘭訳文を見る、見ると分ると云うような訳けで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省には自から書物がある、種々様々な英文の原書がある。役所に出て居て読むのは勿論、借りて自家へ持て来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身の為めに大に便利になりました。