18話 福翁自伝 02 福翁自伝(18)
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再度米国行
夫から慶応三年になって又私は亜米利加に行た。是れで三度目の外国行。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加行に就ても亦なか/\話がある。と云うのは、先年亜米利加の公使ロペルト・エーチ・プラインと云う人が来て居て、その時に幕府で軍艦を拵えなければならぬと云うことで、亜米利加の公使にその買入方を頼んで、数度に渡したその金高は八十万弗、そうして追々にその軍艦が出来て来る筈。ソレで文久三、四年の頃、富士山と云う船が一艘出来て来て、その価は四十万弗。所がその後幕府はなか/\な混雑、又亜米利加にも南北戦争と云う内乱が起たと云うような訳で、その後一向便りもない。何しろ金は八十万弗渡したその中で、四十万弗の船が来た丈けでその後は何も来ない。左りとは埓が明かぬから、アトの軍艦は此方から行て請取ろう。その序に鉄砲も買て来ようと云うような事で、そのとき派遣の委員長に命ぜられたのは小野友五郎、この人は御勘定吟味役と云う役目で御勘定奉行の次席、なか/\時の政府に於ては権力もあり地位も高い役人である。その人が委員長を命ぜられて、その副長には松本寿太夫と云う人が命ぜられたと云うことは、その前年の冬に定まった。夫れから私もモウ一度行て見たいものだと思て、小野の家に度々行て頼んだ。何卒一緒に連れて行て呉れないかと云た所が、連れて行こうと云うことになって、私は小野に随従して行くことになりました。その外同行の人は、船を請取るのですから海軍の人も両人ばかり、又通弁の人も行きました。
太平海の郵便汽船始めて通ずこの時には亜米利加と日本との間に太平海の郵便船が始めて開通したその歳で、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日も掛たと云うのが、今度のコロラドは四千噸の飛脚船、船中の一切万事、実に極楽世界で、廿二日目に桑港に着た。着たけれども今とは違てその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻らなければならぬから、桑港に二週間ばかり逗留して、其処で太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車に乗てあの地峡を踰えて、向側に出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育に着き、華聖頓に落付て、取敢えず亜米利加の国務卿に遇うて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様が能く分る。此方を出立する時から、先方の談判には八十万弗渡したと云う請取がなければならぬと云うことは能く分て居る。所がどうも丸で一寸とした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中には而かも三角の紙切に僅に何万弗請取りと記して唯プラインと云う名ばかり書てあるのが何枚もある。何の為めにどうして請取たと云う約定もなければ何にもない。只金を請取たと云う丈けの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱な殆んど無証拠と云ても宜い位。ソコでその事に就ては出発前に随分議論しました。却て是れが宜しい、此方では一切万事、亜米利加の公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、只口で請取たら請取たと云うた丈けで沢山だ、是れは只覚書に数を記した丈けの事、固よりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談を極めて、彼方へ行てからその話に及ぶと、直ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜いと、文句なしに立派に出掛けて来た。
吾妻艦を買う先ず是れで安心であるとした所で、此方では軍艦一艘欲しい。夫れから諸方の軍艦を見て廻て、是れが宜かろうと云て、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て東艦となりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、その外小銃何百挺か何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が彼方に七、八万弗残て居る。是れは亜米利加の政府に預けて置て、その船を廻航するに付て、私共は先に帰たが、海軍省から行た人はアトに残て、そうして亜米利加の船長を一人雇うて此方に廻航することになって、夫れで事が済んだ。丁度船の日本に着たのは王政維新の明治政府になってから、即ち明治元年であるが、その事に就て当時会計を司って居た由利公正さんに遇て後に聞た所が、ドウもあの時金を払うには誠に困た、明治政府には金がない。如何やら斯うやらヤット何十万弗拵えて払たと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金が余て彼方に預けてある筈だと云うたら、爾うかと云って、由利は大造驚いて居ました。何処にドウなったか、二重に金を払たことがある。亜米利加人が取る訳けはない、何処かに舞込んで仕舞たに違いない。
幕府人の無法を厭う、安いドルラルそれは扨置き、私の一身に就てその時甚だ穏かならぬ事があった、と云うのは私は幕府の用をして居るけれども、如何なこと幕府を佐けなければならぬとか云うような事を考えたことがない。私の主義にすれば第一鎖国が嫌い、古風の門閥無理圧制が大嫌いで、何でもこの主義に背く者は皆敵のように思うから、此方が思う通りに、先方の鎖国家古風家も亦洋学者を外道のように悪むだろう。所で私が幕府の様子を見るに、全く古風のそのまゝで、少しも開国主義と思われない、自由主義と見えない。例えば年来、政府の御用達は三井八郎右衛門で、政府の用を聞くのみならず、役人等の私用をも周旋するの慣行でした。ソコで今度の米国行に付ても、役人が幕府から手当の金を一歩銀で請取れば、亜米利加に行くときには之を洋銀の弗に替えなければならぬ。然るにその時は弗相場の毎日変化する最中で、両替が甚だ面倒である。スルト一行中の或る役人が三井の手代を横浜の旅宿に呼出し、色々弗の相場を聞糺して扨云うよう、「成程昨今の弗は安くない、併し三井にはズットその前安い時に買入れた弗もあるだろう、拙者のこの一歩銀はその安い弗と両替して貰いたいと云うと、三井の手代は平伏して、畏りました、お安い弗と両替いたしましょうと云て、幾らか割合を安くして弗を持て来た。私は傍に居てこの様子を見て居て「ドウモ無鉄砲な事を言う奴だ、金の両替をするに、安いときに買入れた金と云て、ドウ云う印があるか、安いも高いもその日の相場に定まったものを、夫れを相場外れにせよと云いながら、愧る気色もなく平気な顔をして居るのみならず、その人の平生も賤しからぬ立派な士君子であるとは驚いた。又三井の手代も算盤を知るまいことか、チャント知て居ながら平気で損をして何とも云わぬ。畢竟人の罪でない、時の気風の然らしむる所、腐敗の極度だ、こんな政府の立行こう筈はないと思たことがある。
御国益論に抵抗す夫れから私共が亜米利加に行た所で、その時に日本は国事多端の折柄、徳川政府の方針に万事倹約は勿論、仮令い政府であろうとも利益あることには着手せねばならぬと云うので、その掛の役人を命じて御国益掛と云うものが出来た。種々様々な新工夫の新策を奉る者があれば、ソレを政府に採用していろ/\な工夫をする。例えば江戸市中の何処の所に掘割をして通船の運上を取るが宜しいと云う者もあり、又或は新川に這入る酒に税を課したら宜かろうとか、何処の原野の開墾を引受けてソレで幾らかの運上を納めようと云う者もあり、又或る時江戸市中の下肥を一手に任せてその利益を政府に占めようではないかと云う説が起た。スルト或る洋学者が大に気を吐て、政府が差配人を無視して下肥の利を専らにせんとは、是れは所謂圧制政府である、昔し/\亜米利加国民はその本国英の政府より輸入の茶に課税したるを憤り、貴婦人達は一切茶を喫ずして茶話会の楽しみをも廃したと云うことを聞た、左れば吾々もこの度は米国人の顰に傚い、一切上を廃して政府を困らして遣ろうではないか、この発案の可否如何とて、一座大笑を催したことがある。政府の事情が凡そ斯う云う風であるから、今度の一行中にも例の御国益掛の人が居て、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書の価は次第に高くなるに違いない、依て今この原書を買て持て帰て売たら何分かの御国益になろうと云うので、私にその買入方を内命したから、私が容易に承知しない。「原書買入は甚だ宜しい。日本には原書が払底であるから一冊でも余計に輸入したいと思う所に、幸なる哉、今度米国に来て官金を以て沢山に買入れ、日本に持て帰て原価でドシ/\売て遣ろう、左様なれば誠に難有い。如何ようにも勉強して、安いもの適当なものを買入れよう。この儀は如何で御座ると尋れば、「イヤ左様でない、自から御国益にする積りだと云う。「左すれば政府は商売をするのだ。私は商売の宰取りをする為めに来たのではない、けれども政府が既に商売をすると切て出れば、私も商人になりましょう。左る代りにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。何れでも宜しい、政府が買た儘の価で売て呉れると云えば、私はどんなにでも骨を折て、本を吟味して値切り値切て安く買うて売て遣るようにするが、政府が儲けると云えば、政府にばかり儲けさせない、私も一緒に儲ける。サア爰が官商分れ目だ。如何で御座ると捩り込んで、大変喧しい事になって、大に重役の歓心を失うて仕舞たが、今日より考えれば事の是非に拘わらず、随行の身分にして甚だ宜くない事だと思います。
幕府を倒せ夫れから又斯う云う事がある。同行の尺振八などゝ飲みながら壮語快談、ソリャもう官費の酒だから、船中の事で安くはないが何に構うものか、ドシ/\飲み次第喰い次第で、颯々と酒を注文して部屋に取て飲む。サアそれからいろ/\な事を語出して、「ドウしたってこの幕府と云うものは潰さなくてはならぬ。抑も今の幕政の様を見ろ。政府の御用と云えば、何品を買うにも御用だ。酒や魚を買うにも自分で勝手な値を付けて買て居るではないか、上総房州から船が這入ると、幕府の御用だと云て一番先にその魚を只持て行くようなことをして居る。ソレも将軍様が喰うならばマア宜いとするが、爾うではない、料理人とか云うような奴が只取て来て、その魚を又売て居るではないか。この一事推して他を知るべし、実に鼻持のならぬ政府だ。ソレも宜いとして置て、この攘夷はドウだ。自分がその局に当て居るから拠ろなく渋々開国論を唱えて居ながら、その実を叩いて見ると攘夷論の張本だ。彼の品川の海鼠台場、マダあれでも足りないと云て拵え掛けて居るではないか。夫れから又勝麟太郎が兵庫に行て、七輪見たような丸い白い台場を築くなんて何だ。攘夷の用意をするのではないか。そんな政府なら叩き潰して仕舞うが宜いじゃないかと云うと、尺振八が、爾うだ、その通りに違いない。けれども斯うして船に乗て亜米利加に往来するのも、幕府から入用を出して居ればこそだ。御同前に喰て居るものも着て居るものも幕府の物ではないか。夫れを衣食して居ながら、ソレを潰すと云うのは何だか少し気に済まないようではないか。「それは構わぬ。御同前に此身等が政府の御用をすると云うのは、何も人物がエライと云て用いられて居るのではない、是れは横文字を知て居るからと云うに過ぎない。
穢多に革細工之を喩えば革細工だから穢多にさせると云うと同じ事で、マア御同前は雪駄直しを見たような者だ。幕府の殿様方は汚い事が出来ない、幸い此処に革細工をする奴が居るからソレにさせろと云うので、デイ/\が大きな屋敷の御出入になったのと少しも変ったことはない。ソレに遠慮会釈も糸瓜も要るものか、颯々と打毀して遣れ。只此処で困るのは、誰が之を打毀すか、ソレに当惑して居る。乃公等は自分でその先棒になろうとは思わぬ。誰が之を打毀すか、之が大問題である。今の世間を見るに、之を毀そうと云て騒いで居るのは所謂浮浪の徒、即ち長州とか薩州とか云う攘夷藩の浪人共であるが、若しも彼の浪人共が天下を自由にするようになったら、ソレこそ徳川政府の攘夷に上塗りをする奴じゃないか。ソレよりもマダ今の幕府の方が勝しだ。けれども如何したって幕府は早晩倒さなければならぬ、唯差当り倒す人間がないから仕方なしに見て居るのだ。困た話ではないかなどゝ、且つ飲み且つ語り、部屋の中とは云いながら、人の出入りを止めるでもなし、傍若無人、大きな声でドシ/\論じて居たのだから、爾う云うような話もチラホラ重役の耳に聞えたことがあるに違いない。
謹慎を命ぜらるサア夫れから江戸に帰た所が、前にも云う通り私は幕府の外務省に出て飜訳をして居たのであるが、外国奉行から咎められた。ドウも貴様は亜米利加行の御用中不都合があるから引込んで謹慎せよと云う。勿論幕府の引込めと云うのは誠に楽なもので、外に出るのは一向構わぬ。只役所に出さえしなければ宜しいのであるから、一身の為めには何ともない。却て暇になって難有い位のことだから、命令の通り直ぐ引込んで、その時に西洋旅案内と云う本を書て居ました。
福澤の実兄薩州に在り亜米利加から帰て日本に着たのはその歳の六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\喧しい。私は唯家に引籠て生徒に教えたり著書飜訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島に行て居るとか何とか云う途方もない評判をして居る。兄が薩藩に与みして居るから弟も変だと云うのは、私が動もすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰すが宜い杯云うから、自からそんな評判も立つのであろうが、何は扨置き十余年前にこの世を去た兄が鹿児島に居る訳けもなし、俗世界の流言として聊か弁解もせず、又幕府に対しても所謂有志者中には種々様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は一切関係せず、唯独り世の中を眺めて居る中に、段々時勢が切迫して来て、或日中嶋三郎助と云う人が私の処に来て、ドウして引込んで居るか。「斯う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、直ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「宜しい、拙者がすぐに出して遣ると云て、夫れからその時に稲葉美濃守と云う老中があって、ソコへ中嶋が行て、福澤を引込まして置かないで出すようにしたら宜かろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根塔沢に隠居して居るあの老爺さんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園に立てある。
長官に対して不従順全体今度の亜米利加行に就て斯く私が擯斥されたと云うのは、何か私が独り宜いようにあるけれども、実を申せば左様でない、と云うのは元と私は亜米利加に行きたい/\と云て小野友五郎に頼み、同人の信用を得て随行員となった一人であれば、一切万事長者の命令に従いその思う通りの事をしなければ済まない訳けだ。所が実際は爾うでなく、始終逆らうような事をするのみか、明に命令に背いたこともある。例えば彼の在留中、小野も立腹したと見え、私に向て、最早や御用も済みたればお前は今から先きに帰国するが宜しいと云うと、私が不服だ。「此処まで連れて来て散々御用を勤めさせて、用が少なくなったからと云て途中で帰れと云う権力は長官にもなかろう。私は日本を出るとき閣老にお暇乞をして出て来た者である、早く云えば御老中から云付けられて来たのだ。お前さんが帰れと云ても私は帰らないとリキンダのは、私の方が無法であろう。又或日食事の時に私が何か話の序に、全体今の幕府の気が知れない、攘夷鎖港とは何の趣意だ、之が為めに品川の台場の増築とは何の戯れだ、その台場を築いた者はこのテーブルの中にも居るではないか、こんな事で日本国が保てると思うか、日本は大切な国だぞなどゝ、公衆の前で公言したような事は、私の方こそ気違いの沙汰である。成程小野は頑固な人に違いない、けれども私の不従順と云うことも十分であるから、始終嫌われたのは尤も至極、少しも怨む所はない。
王政維新