福翁自伝 02 福翁自伝

19話 福翁自伝 02 福翁自伝(19)

6,315字 約13分 2017年6月15日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 その歳(とし)も段々迫(せまっ)て、とう/\慶応三年の暮(くれ)になって、世の中が物騒(ぶっそう)になって来たから、生徒も自然にその影響を蒙(こうむ)らなければならぬ。国に帰るもあれば方々(ほうぼう)に行くもあると云(い)うような訳(わ)けで、学生は次第々々に少(すくな)くなると同時に、今まで私の住(すん)で居た鉄砲洲(てっぽうず)の奥平(おくだいら)の邸(やしき)は、外国人の居留地になるので幕府から上地(じょうち)を命ぜられ、既(すで)に居留地になれば私も其処(そこ)に居られなくなる。ソコで慶応三年十二月の押詰めに、新銭座(しんせんざ)の有馬(ありま)と云う大名の中屋敷を買受(かいう)けて、引移(ひきうつ)るや否(いな)や鉄砲洲は居留地になり、明(あ)くれば慶応四年、即(すなわ)ち明治元年の正月早々、伏見(ふしみ)の戦争が始まって、将軍慶喜(よしのぶ)公は江戸へ逃げて帰り、サアそこで又大きな騒ぎになって仕舞(しまっ)た。即ち是(こ)れが王政維新の始まり、その時に私は少しも政治上に関係しない。抑(そもそ)も王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない顛末(てんまつ)を明(あきらか)にしなければならぬ。

維新の際に一身の進退素(も)と私は小士族の家に生(うま)れ、その頃は封建時代の事で日本国中何(いず)れも同様、藩の制度は守旧(しゅきゅう)一偏(いっぺん)の有様で、藩士銘々(めいめい)の分限がチャント定(き)まって、上士(じょうし)は上士、下士(かし)は下士と、箱に入れたようにして、その間(あいだ)に少しも融通(ゆうづう)があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年経(たっ)てもその分限は変らない。従(したがっ)て小士族の家に生れた者は、自(おのず)から上流士族の者から常に軽蔑(けいべつ)を受ける。人々の智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)に拘(かか)わらず、上士は下士を目下に見下(くだ)すと云(い)う風(ふう)が専(もっぱ)ら行われて、私は少年の時からソレに就(つい)て如何(いか)にも不平で堪(たま)らない。

門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む所がその不平の極(きょく)は、人から侮辱されるその侮辱の事柄を悪(にく)み、遂(つい)には人を忘れて唯(ただ)その事柄を見苦しきことゝ思い、門閥の故(ゆえ)を以(もっ)て漫(みだり)に威張るは男子の愧(は)ずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士相対(あいたい)して上士が横風(おうふう)である、私は之(これ)を見てその上士の傲慢無礼(ごうまんぶれい)を憤(いきどお)ると同時に、心の中では思直(おもいなお)して、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張(いばっ)て居る、見苦しい奴だと却(かえっ)て気の毒に思うて、心中却て此方(こっち)から軽蔑(けいべつ)して居ました。私がその時老成人(ろうせいじん)であるか又(また)は仏者(ぶっしゃ)であったら、人道世教(せきょう)の為(た)めに如何(どう)とか、又は平等を愛して差別を排するとか何とか云(い)う説もあろうが、十歳以上十九か二十歳(はたち)の少年にそんな六(むず)かしい奥ゆかしい考(かんがえ)のあるべき筈(はず)はない。唯(ただ)人間の殻威張(からいばり)は見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり思(おもっ)て居たから、夫(そ)れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱(はず)かしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者に向(むかっ)て自分が軽蔑された丈(だ)けソレ丈け軽蔑して遣(や)れば、所謂(いわゆる)江戸の敵(かたき)を長崎で討(うっ)て、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私は下(しも)の方に向て大変丁寧にして居ました。

父母の遺伝是(こ)れは私独りの発明でない、私の父母共に爾(そ)う云う風があったと推察が出来ます。前にも云(いっ)た通り、私の父は勿論(もちろん)漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定(さだ)めて上流士族から蔑視(べっし)されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州(ごうしゅう)水口(みなくち)の碩学(せきがく)中村栗園(なかむらりつえん)は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来(がんらい)栗園の身分は豊前(ぶぜん)中津(なかつ)の染物屋(そめものや)の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問(と)わず大層(たいそう)丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓(きぐう)させて尚(な)お種々(しゅじゅ)に周旋して、とう/\水口(みなくち)の儒者になるように取持ち、その間柄と云(い)うものは真(まこと)に骨肉の兄弟にも劣(おと)らず、父の死後私の代になって、栗園(りつえん)先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅(あんばい)にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是(こ)れは決して私の発明でない、父母から譲(ゆず)られた性質であると思う。ソレで私は中津(なかつ)に居て上流士族から蔑視(べっし)されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論(もちろん)、町人百姓に向(むかっ)ても、仮初(かりそめ)にも横風(おうふう)に構えてその人々を目下に見下(みくだ)して、威張るなどゝ云うことは一寸(ちょい)ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯(ただ)モウ触(さわ)らぬように相手にならぬようと、独り自(みず)から安心決定(あんじんけつじょう)して居る。

本藩に対して功名心なし既(すで)に心に決定して居れば、藩に居て功名心(こうめいしん)と云うものは更(さ)らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却(かえっ)て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞(しま)う丈(だ)けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと斯(こ)う安心を極(き)めて居ましたので、夫(そ)れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると云(い)うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊(たんぱく)で、長い歳月の間(あいだ)只(ただ)の一度も建白なんと云うことをしたことはない。能(よ)く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛(さかん)にするが宜(よ)いとか、兵制を改革するが宜(よ)いとか云うことは書生の能(よ)く遣(や)ることだ、けれども私に限り只の一度も云出(いいだ)したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に向(むかっ)て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ貰(もら)いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、陰(いん)にも陽(よう)にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に参(まいっ)てからも、本藩の様子を見れば種々(しゅじゅ)な事を試(こころ)みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを宜(よ)いと云(いっ)て誉(ほ)めもしなければ悪いと云て止(と)めたこともなし、又或(あるい)は大に漢学を盛(さかん)にすると云て頻(しき)りに学校の改革などを企てたこともある。或(あるい)は兵制は甲州流が宜(い)いと云て法螺(ほら)の貝を吹(ふい)て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は只(ただ)目前(もくぜん)に見て居るばかりで、善(よ)いとも悪いとも一寸(ちい)とも云たことがない。或時(あるとき)に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に行(いっ)たらば、その隠居が、ドウも公武(こうぶ)の間(あいだ)が甚(はなは)だ穏かでない、全体どうも近衛様(このえさま)が爾(そ)うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が詰(つま)らないとか云うような慷慨(こうがい)談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何(いか)にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、扨(さて)ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして宜(い)いこともあるだろう、為(し)なくて宜(い)いこともあるだろう、傍観者から之(これ)を見たらば嘸(さぞ)堪(た)え難(がた)いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば又(また)爾(そ)う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより外(ほか)に仕様(しよう)がない。余り人の事を批評しても詰(つま)らぬ事です。私は一体そんな事に就(つい)ては何を議論しようとも思わぬと云(いっ)て、少しも相手にならなかった。

拝領の紋服をその日に売る爾う云う風に構えて、一切(いっさい)政治の事に就(つい)て口を出そうと思わない。思わないから奥平の邸(やしき)で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、左(さ)ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、唯(ただ)屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時(あるとき)私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸(おこなんど)の処へ参(まいっ)た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の付(つい)て居る縮緬(ちりめん)の羽織を呉(く)れた。即ち御紋服(ごもんぷく)拝領(はいりょう)だ。左(さ)まで喜びもしなければ、品物が粗末だと云(いっ)て苦情も云(い)わず、只(ただ)難有(ありがと)うございますと云て拝領(はいりょう)して、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄(ぼうけい)の朋友菅沼孫右衛門(すがぬままごえもん)と云う人の勤番(きんばん)長屋に何か用があって寄(よっ)た所が、其処(そこ)に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを聞(きい)て居ると羽織を拵(こしら)えると云うような様子。夫(そ)れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様(さよう)さ。「爾(そ)うか、羽織には宜(い)い縮緬(ちりめん)の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付(ごもんつき)だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ宜(い)い、爾う云う売物があるなら兎(と)も角(かく)も見たいものだ。「買うと云いなされば此処(ここ)に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支(さしつかえ)ない、買おう。就(つい)ては此処(ここ)に呉服屋が来て居るが、価(あたい)はドウだ。「値(ね)は呉服屋に付けて貰えば宜(い)いと云て、夫れからどの位の価(あたい)かと云たら、単(ひとえ)羽織の事だから一両三分だと云(い)う。スグ相談が出来て、その羽織を売(うっ)て一両三分の金を持て、私は鉄砲洲(てっぽうず)の中屋敷に帰(かえっ)たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで認(したた)めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。夫(そ)れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日(きのう)見た彼(か)の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極(しごく)無邪気な事であった。

主従の間も売言葉に買言葉爾(そ)う云(い)う風であるから藩に対して甚(はなは)だ淡白、淡白と云えば言葉が宜(い)いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛(ふっかけ)ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に向(むかっ)て悪い事をしたことはない、一寸(ちょい)とでも藩政の邪魔をしたことはない、只(ただ)命令の儘(まま)に堅く守(まもっ)て居るのだ。この上に親切と云(いっ)てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、之(これ)を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸(ちょい)とでも求めたことがなかろう、或(あるい)は身分を取立て呉(く)れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、蔭(かげ)にも日向(ひなた)にも一言(いちごん)でも云たことがあるか。その言葉を聞(きい)た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが宜(い)い。厚かましく親切を尽(つく)して、厚かましく泣付(なきつ)くと云うことは、自分の性質に於(おい)て出来ない。是(こ)れで悪いと云うならば追出すより外(ほか)に仕方はあるまい。追出せば謹(つつし)んで命(めい)を奉じて出て行く丈(だ)けの話だ。凡(およ)そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代(すだい)御奉公を仰付(おおせつ)けられて難有(ありがた)い仕合(しあわ)せであろうと酷(ひど)く恩に被(き)せれば、失敬ながら此方(こっち)にも言葉がある、数代(すだい)家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても宜(よ)かろうと云(い)わねばならぬ。之(これ)に反して藩の方から手前達のような家来が数代(すだい)神妙に奉公して呉(く)れたからこの藩も行立(ゆきた)つと斯(こ)う云えば、此方(こっち)も亦(また)言葉を改め、数代(すだい)御恩を蒙(こうむっ)て難有(ありがた)い仕合(しあわ)せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも拘(かか)わらず下さる丈(だ)けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方(こっち)も小さくなってお礼を申上げる。是(これ)れが即(すなわ)ち売言葉に買言葉だ。ソレ丈(だ)けの事は私(わたくし)も能(よ)く知(しっ)て居る。爾(そ)う無闇(むやみ)に恩に被せる事ばかり云(いっ)て、只(ただ)漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終(しじゅう)問答をして居ました。

長州征伐に学生の帰藩を留める夫(そ)れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘(めい)が付(つい)て、ソコで将軍御親発(ごしんぱつ)となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向(むかっ)て兵を出せと云う命令が下(くだっ)て、豊前(ぶぜん)中津(なかつ)藩からも兵を出す。就(つい)ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎(おばたとくじろう)を始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還(よびかえ)しに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が戦争(いくさ)に出るとは誠に危ない話で、流丸(りゅうがん)に中(あたっ)ても死んで仕舞(しま)わなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲を担(かつ)がせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生に帰(かえっ)て鉄砲を担(かつ)げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、仮令(たと)い弾丸に中(あた)らないでも、足に踏抜(ふみぬ)きしても損だ、構うことはない病気と云(いっ)て断(ことわっ)て仕舞(しま)え、一人も還(かえ)さない、ソレが罷(まか)り間違えば藩から放逐(ほうちく)丈(だ)けの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでも宜(よろ)しい、兎(と)に角(かく)に学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張(がんばっ)た所が、藩の方でも因循(いんじゅん)であったのか、強(し)いて呼返すと云(い)うこともせずに、その罪は中津(なかつ)に居る父兄の身に降り来(きたっ)て、その方共の子弟が命(めい)に背(そむ)いて帰藩せぬのは平生(へいぜい)の教訓宜(よろ)しからざるに由(よ)る云々(うんぬん)の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申付(もうしつ)けられたことがある。凡(およ)そ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を如何(どう)しようとも思わず、立身出世して威張(いば)ろうとも思わず、世間で云う功名(こうみょう)心は腹の底から洗(あらっ)たように何にもなかった。

幕府にも感服せず藩に対しての身の成行(なりゆき)、心の置(おき)どころは右の通りで、扨(さて)江戸に来て居る中に幕府に雇(やと)われて、後にはいよ/\幕府の家来になって仕舞(しま)えと云(い)うので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰(もらっ)て一寸(ちょい)と旗本(はたもと)のような者になって居たことがある。けれども是(こ)れ亦(また)、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、随(したがっ)て自分の身分が何であろうとも気に留(と)めたことがない。一寸(ちょい)とした事だが可笑(おか)しい話があるその次第は、江戸で御家人(ごけにん)の事を旦那(だんな)と云(い)い、旗本(はたもと)の事を殿様(とのさま)と云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、固(もと)より自分で殿様なんて馬鹿気(ばかげ)たことを考える訳(わ)けもなければ、家内の者もその通りで、平生(へいぜい)と少しも変(かわっ)た事はない。爾(そ)うすると或日(あるひ)知己の幕人たしか福地源一郎であったかと覚ゆが玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女と頻(しきり)に問答して居る様子、狭い家だからスグ私が聞付(ききつ)けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様と云(いっ)て下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければ聞(きい)た者もない言葉だから。

洋行船中の談話夫(そ)れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安(まつきこうあん)と箕作秋坪(みつくりしゅうへい)と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚(とて)も幕府の一手持(いってもち)は六(むず)かしい、先(ま)ず諸大名を集めて独逸(ドイツ)聯邦(れんぽう)のようにしては如何(いかん)と云うに、松木(まつき)も箕作(みつくり)も、マアそんな事が穏かだろうと云(い)う。夫(そ)れから段々身の上話に及んで、今日吾々(われわれ)共の思う通りを云(い)えば、正米(しょうまい)を年に二百俵貰(もら)うて親玉(おやだま)(将軍の事)の御師匠番になって、思う様(よう)に文明開国の説を吹込(ふきこ)んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍(うっ)て、左様(そう)だ/\、是(こ)れは遣(やっ)て見たいと云(いっ)たのは、松木の功名(こうめい)心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考(かんがえ)は大抵皆大同小異、一身の為(た)めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則(てらしまむねのり)となって、参議(さんぎ)とか外務卿(がいむきょう)とか云(い)う実際の国事に当たのは、実は本人の柄(がら)に於(おい)て商売違(ちが)いであったと思います。

 夫(そ)れは扨(さて)置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即(すなわ)ち有志者は京都に集(あつまっ)て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論(もちろん)時の政府でリキンで居ると云う訳(わ)けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処(そこ)に至(いたっ)て私が如何(どう)するかと云うに、

第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之(これ)に力を尽(つく)す気はない。

第二、左(さ)ればとて彼(か)の勤王家と云(い)う一類を見れば、幕府より尚(な)お一層甚(はなは)だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固(もと)よりない。

第三、東西二派の理非曲直は姑(しばら)く扨置(さてお)き、男子が所謂(いわゆる)宿昔青雲(しゅくせきせいうん)の志(こころざし)を達するは乱世に在(あ)り、勤王でも佐幕でも試(こころ)みに当(あたっ)て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。

目次に戻る

目次