19話 福翁自伝 02 福翁自伝(19)
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その歳も段々迫て、とう/\慶応三年の暮になって、世の中が物騒になって来たから、生徒も自然にその影響を蒙らなければならぬ。国に帰るもあれば方々に行くもあると云うような訳けで、学生は次第々々に少くなると同時に、今まで私の住で居た鉄砲洲の奥平の邸は、外国人の居留地になるので幕府から上地を命ぜられ、既に居留地になれば私も其処に居られなくなる。ソコで慶応三年十二月の押詰めに、新銭座の有馬と云う大名の中屋敷を買受けて、引移るや否や鉄砲洲は居留地になり、明くれば慶応四年、即ち明治元年の正月早々、伏見の戦争が始まって、将軍慶喜公は江戸へ逃げて帰り、サアそこで又大きな騒ぎになって仕舞た。即ち是れが王政維新の始まり、その時に私は少しも政治上に関係しない。抑も王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない顛末を明にしなければならぬ。
維新の際に一身の進退素と私は小士族の家に生れ、その頃は封建時代の事で日本国中何れも同様、藩の制度は守旧一偏の有様で、藩士銘々の分限がチャント定まって、上士は上士、下士は下士と、箱に入れたようにして、その間に少しも融通があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年経てもその分限は変らない。従て小士族の家に生れた者は、自から上流士族の者から常に軽蔑を受ける。人々の智愚賢不肖に拘わらず、上士は下士を目下に見下すと云う風が専ら行われて、私は少年の時からソレに就て如何にも不平で堪らない。
門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む所がその不平の極は、人から侮辱されるその侮辱の事柄を悪み、遂には人を忘れて唯その事柄を見苦しきことゝ思い、門閥の故を以て漫に威張るは男子の愧ずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士相対して上士が横風である、私は之を見てその上士の傲慢無礼を憤ると同時に、心の中では思直して、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張て居る、見苦しい奴だと却て気の毒に思うて、心中却て此方から軽蔑して居ました。私がその時老成人であるか又は仏者であったら、人道世教の為めに如何とか、又は平等を愛して差別を排するとか何とか云う説もあろうが、十歳以上十九か二十歳の少年にそんな六かしい奥ゆかしい考のあるべき筈はない。唯人間の殻威張は見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり思て居たから、夫れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱かしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者に向て自分が軽蔑された丈けソレ丈け軽蔑して遣れば、所謂江戸の敵を長崎で討て、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私は下の方に向て大変丁寧にして居ました。
父母の遺伝是れは私独りの発明でない、私の父母共に爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも云た通り、私の父は勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定めて上流士族から蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州水口の碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来栗園の身分は豊前中津の染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問わず大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓させて尚お種々に周旋して、とう/\水口の儒者になるように取持ち、その間柄と云うものは真に骨肉の兄弟にも劣らず、父の死後私の代になって、栗園先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是れは決して私の発明でない、父母から譲られた性質であると思う。ソレで私は中津に居て上流士族から蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向ても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して、威張るなどゝ云うことは一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯モウ触らぬように相手にならぬようと、独り自から安心決定して居る。
本藩に対して功名心なし既に心に決定して居れば、藩に居て功名心と云うものは更らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞う丈けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと斯う安心を極めて居ましたので、夫れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると云うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊で、長い歳月の間只の一度も建白なんと云うことをしたことはない。能く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛にするが宜いとか、兵制を改革するが宜いとか云うことは書生の能く遣ることだ、けれども私に限り只の一度も云出したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に向て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ貰いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、陰にも陽にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に参てからも、本藩の様子を見れば種々な事を試みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを宜いと云て誉めもしなければ悪いと云て止めたこともなし、又或は大に漢学を盛にすると云て頻りに学校の改革などを企てたこともある。或は兵制は甲州流が宜いと云て法螺の貝を吹て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は只目前に見て居るばかりで、善いとも悪いとも一寸とも云たことがない。或時に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に行たらば、その隠居が、ドウも公武の間が甚だ穏かでない、全体どうも近衛様が爾うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が詰らないとか云うような慷慨談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、扨ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして宜いこともあるだろう、為なくて宜いこともあるだろう、傍観者から之を見たらば嘸堪え難いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば又爾う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより外に仕様がない。余り人の事を批評しても詰らぬ事です。私は一体そんな事に就ては何を議論しようとも思わぬと云て、少しも相手にならなかった。
拝領の紋服をその日に売る爾う云う風に構えて、一切政治の事に就て口を出そうと思わない。思わないから奥平の邸で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、左ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、唯屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸の処へ参た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の付て居る縮緬の羽織を呉れた。即ち御紋服拝領だ。左まで喜びもしなければ、品物が粗末だと云て苦情も云わず、只難有うございますと云て拝領して、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄の朋友菅沼孫右衛門と云う人の勤番長屋に何か用があって寄た所が、其処に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを聞て居ると羽織を拵えると云うような様子。夫れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様さ。「爾うか、羽織には宜い縮緬の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ宜い、爾う云う売物があるなら兎も角も見たいものだ。「買うと云いなされば此処に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支ない、買おう。就ては此処に呉服屋が来て居るが、価はドウだ。「値は呉服屋に付けて貰えば宜いと云て、夫れからどの位の価かと云たら、単羽織の事だから一両三分だと云う。スグ相談が出来て、その羽織を売て一両三分の金を持て、私は鉄砲洲の中屋敷に帰たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで認めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。夫れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日見た彼の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極無邪気な事であった。
主従の間も売言葉に買言葉爾う云う風であるから藩に対して甚だ淡白、淡白と云えば言葉が宜いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に向て悪い事をしたことはない、一寸とでも藩政の邪魔をしたことはない、只命令の儘に堅く守て居るのだ。この上に親切と云てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、之を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸とでも求めたことがなかろう、或は身分を取立て呉れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、蔭にも日向にも一言でも云たことがあるか。その言葉を聞た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが宜い。厚かましく親切を尽して、厚かましく泣付くと云うことは、自分の性質に於て出来ない。是れで悪いと云うならば追出すより外に仕方はあるまい。追出せば謹んで命を奉じて出て行く丈けの話だ。凡そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代御奉公を仰付けられて難有い仕合せであろうと酷く恩に被せれば、失敬ながら此方にも言葉がある、数代家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても宜かろうと云わねばならぬ。之に反して藩の方から手前達のような家来が数代神妙に奉公して呉れたからこの藩も行立つと斯う云えば、此方も亦言葉を改め、数代御恩を蒙て難有い仕合せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも拘わらず下さる丈けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方も小さくなってお礼を申上げる。是れが即ち売言葉に買言葉だ。ソレ丈けの事は私も能く知て居る。爾う無闇に恩に被せる事ばかり云て、只漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終問答をして居ました。
長州征伐に学生の帰藩を留める夫れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘が付て、ソコで将軍御親発となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向て兵を出せと云う命令が下て、豊前中津藩からも兵を出す。就ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎を始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還しに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流丸に中ても死んで仕舞わなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲を担がせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生に帰て鉄砲を担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、仮令い弾丸に中らないでも、足に踏抜きしても損だ、構うことはない病気と云て断て仕舞え、一人も還さない、ソレが罷り間違えば藩から放逐丈けの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでも宜しい、兎に角に学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張た所が、藩の方でも因循であったのか、強いて呼返すと云うこともせずに、その罪は中津に居る父兄の身に降り来て、その方共の子弟が命に背いて帰藩せぬのは平生の教訓宜しからざるに由る云々の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申付けられたことがある。凡そ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を如何しようとも思わず、立身出世して威張ろうとも思わず、世間で云う功名心は腹の底から洗たように何にもなかった。
幕府にも感服せず藩に対しての身の成行、心の置どころは右の通りで、扨江戸に来て居る中に幕府に雇われて、後にはいよ/\幕府の家来になって仕舞えと云うので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰て一寸と旗本のような者になって居たことがある。けれども是れ亦、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、随て自分の身分が何であろうとも気に留めたことがない。一寸とした事だが可笑しい話があるその次第は、江戸で御家人の事を旦那と云い、旗本の事を殿様と云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、固より自分で殿様なんて馬鹿気たことを考える訳けもなければ、家内の者もその通りで、平生と少しも変た事はない。爾うすると或日知己の幕人たしか福地源一郎であったかと覚ゆが玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女と頻に問答して居る様子、狭い家だからスグ私が聞付けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様と云て下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければ聞た者もない言葉だから。
洋行船中の談話夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。
夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、
第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。
第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。
第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。