福翁自伝 02 福翁自伝

20話 福翁自伝 02 福翁自伝(20)

7,581字 約15分 2017年6月15日 公開

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 今その次第を語りましょう。抑(そ)も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸(ちょい)と旗本(はたもと)御家人(ごけにん)に出遇(であ)う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好(よ)く行儀も立派であるが、何分にも外辺(うわべ)ばかりで、物事を微密(ちみつ)に考える脳力(のうりょく)もなければ又(また)腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方(こちら)は又る影もない陪臣だから手の着(つ)けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅(あんばい)式は、京都の御公卿様(おくげさま)を取扱うように、唯(ただ)見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊(くび)り抜(ぬい)て居た。

葵の紋の御威光所がその無脳力、無腕力と思う幕府人の剣幕は中々大造(たいそう)のものである。些細(ささい)な事のようだが、当時最も癪(しゃく)に障るのは旅行の道中で、幕人の威張(いば)り方と云うものは迚(とて)も今時の人に想像は出来ない。私などは譜代大名の家来だから丸で人種違いの蛆虫(うじむし)同様、幕府の役人は勿論、凡(およ)そ葵の紋所の付(つい)て居る御三家と云い、夫(そ)れから徳川親藩の越前家と云うような大名か又はその家来が道中をして居る処に打付(ぶっつ)かろうものならソリャ堪(たま)らない。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうと思(おもっ)て寒風の吹く処に立て一時間も船の来るのを待(まっ)て居る、ヤッと船が着(つい)て、やれ嬉しやこの船に乗ろうと云(い)う時に、不意と後ろから葵の紋の侍(さむらい)が来るとその者が先(さ)きへその船に乗(のっ)て仕舞(しま)う、又アト一時間も待たなければならぬ。駕籠(かご)を舁(かつ)ぐ人足でも無人のときには吾々(われわれ)は問屋場(といやば)に行(いっ)て頼んでヤッと出来た処に、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合から取られて仕舞う。如何(どん)なお心善(こころよし)でも腹を立てずには居られない。凡(およ)そ幕府の圧制殻威張(からいば)りは際限のない事ながら、私共が若い時に直接に侮辱(ぶじょく)軽蔑(けいべつ)を受けたのは、道中の一事でも血気の熱心は自(おのず)から禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、唯(ただ)癇癪(かんしゃく)の余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念して居た。

幕府の攘夷主義幕政の殻威張りが癇癪に障ると云うのは、是(こ)れは此方(こっち)の血気の熱心であるとして姑(しばら)く差置(さしお)き、扨(さて)この日本を開いて外国交際をドウするかと云うことになっては、如何(どう)も見て居られない、と云うのは私は若い時から洋書を読(よん)で、夫(そ)れから亜米利加(アメリカ)に行き、その次には欧羅巴(ヨーロッパ)に行き、又亜米利加に行て、只(ただ)学問ばかりでなく実地を見聞(けんもん)して見れば、如何(どう)しても対外国是(こくぜ)は斯(こ)う云(い)うように仕向(しむ)けなければならぬと、ボンヤリした処でも外国交際法と云(い)うことに気の付くは当然(あたりまえ)の話であろう。ソコでその私の考(かんがえ)から割出(わりだ)して、この徳川政府を見ると殆(ほと)んど取所(とりどころ)のない有様で、当時日本国中の輿論(よろん)は都(すべ)て攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞えもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であると云(いっ)て間違いはあるまい。或(あるい)は後年に至(いたっ)て大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとか云うような事を、世間で吹聴(ふいちょう)する人もあれば書(ほん)に著(あら)わした者もあるが、開国主義なんて大嘘(だいうそ)の皮(かわ)、何が開国論なものか、存じ掛(が)けもない話だ。井伊掃部頭と云う人は純粋無雑、申分(もうしぶん)のない参河武士(みかわぶし)だ。江戸の大城(たいじょう)炎上のとき幼君を守護して紅葉山(もみじやま)に立退(たちの)き、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中不用心(ぶようじん)なりとて、親(みず)から腰の一刀を抜(ぬい)てその草を切払(きりはら)い、手に幼君を擁(よう)して終夜家外に立詰めなりしと云う話がある。又この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、是(こ)れは攘夷論を悪(にく)む為(た)めではない、浮浪の処士が横議(おうぎ)して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。是等の事実を見ても、井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至(いたっ)ては、真闇(まっくら)な攘実家と云(い)うより外(ほか)に評論はない。唯(ただ)その徳川が開国であると云うのは、外国交際の衝(しょう)に当(あたっ)て居るから余儀なく渋々(しぶしぶ)開国論に従(したがっ)て居た丈(だ)けの話で、一幕捲(まくっ)て正味(しょうみ)の楽屋(がくや)を見たらば大変な攘夷藩だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと云(い)うのも無理はなかろう。先(ま)ずその時の徳川政府の頑固な一例を申せば斯(こ)う云(い)うことがある。私がチエーンバーの経済論を一冊持(もっ)て居て、何か話の序(ついで)に御勘定方の有力な人、即(すなわ)ち今で申せば大蔵省中の重要の職に居る人にその経済書の事を語ると、大造(たいそう)悦(よろこ)んで、ドウか目録だけでも宜(い)いから是非見たいと所望するから、早速飜訳(ほんやく)する中に、コンペチションと云う原語に出遭(であ)い、色々考えた末、競争と云う訳字を造り出して之(これ)に当箝(あては)め、前後二十条ばかりの目録を飜訳して之を見せた所が、その人が之を見て頻(しき)りに感心して居たようだが、「イヤ茲(ここ)に争(あらそい)と云う字がある、ドウも是(こ)れが穏かでない、どんな事であるか。「どんな事ッて是れは何も珍らしいことはない、日本の商人のして居る通り、隣で物を安く売ると云えば此方(こっち)の店ではソレよりも安くしよう、又(また)甲の商人が品物を宜(よ)くすると云(い)えば、乙はソレよりも一層宜(よ)くして客を呼ぼうと斯(こ)う云(い)うので、又或(あ)る金貸が利息を下げれば、隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を謀(はか)ると云うような事で、互(たがい)に競い争うて、ソレで以(もっ)てちゃんと物価も定(き)まれば金利も極(き)まる、之(これ)を名(なづ)けて競争と云うので御座(ござ)る。「成程、爾(そ)うか、西洋の流儀はキツイものだね。「何もキツイ事はない、ソレで都(すべ)て商売世界の大本(おおもと)が定(き)まるのである。「成程(なるほど)、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも争(あらそい)と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間互(たがい)に相譲(あいゆず)るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の為(た)めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、夫(そ)れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支(おさしつかえ)ならば、外に飜訳(ほんやく)の致しようもないから、丸で是(こ)れは削りましょうと云(いっ)て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時(あるとき)英人であったか米人であったか幕府に書翰を出(いだ)し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを承(うけたまわ)りたいと云て来た。爾(そ)うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞(へんじ)を遣(やっ)たその返辞の中に、開鎖論と云うことを頓(とん)と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか云(い)いそうなものであるに、ソンな事は一言(いちごん)半句も云(い)わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、或(あるい)は勅命に戻(もと)り台命(たいめい)に背(そむ)き、その罪南山(なんざん)の竹を尽(つく)すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て遣(やっ)た。私はその返辞(へんじ)を見て、コリャどうも仕様(しよう)がない、表面(うわべ)には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が為(し)たくて堪(たま)らないのだ、迚(とて)もモウ手の着(つ)けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。

 然(しか)らば則(すなわ)ち之(これ)に取(とっ)て代ろうと云う上方(かみがた)の勤王家はドウだと云うに、彼等が代(かわっ)たら却(かえっ)てお釣(つり)の出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、詰(つま)る所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩が遂(つい)に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実に於(おい)て人殺しもすれば放火(つけび)もして居る、その目的を尋ねて見ると、仮令(たと)いこの国を焦土にしても飽(あ)くまで攘夷をしなければならぬと云(い)う触込(ふれこ)みで、一切(いっさい)万事一挙一動悉(ことごと)く攘夷ならざるはなし。然(しか)るに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としても之(これ)に同情を表して仲間になるような事は出来られない。是(こ)れこそ実に国を滅す奴等(やつら)だ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だと云(い)う考(かんがえ)が始終(しじゅう)胸に染込んで居たから、何としても上方(かみがた)の者に左袒(さたん)する気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。是(こ)れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母(おっか)さんのようにして居る恩人である。或(ある)時に隠居が私と箕作(みつくり)を呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、馬鹿々々(ばかばか)しい止(よ)しなさい、ソレよりか上方に行(いっ)て御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々聞(きい)て見ると村田(むらた)造六即(すなわ)ち大村益次郎(おおむらますじろう)とか佐野栄寿(さのえいじゅ)(常民(つねたみ))とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんが知(しっ)て居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に難有(ありがと)うございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、爾(そ)うじゃないかと、箕作と云(いっ)て断わったことがありましたが、その位の訳(わ)けで、ドウしてもその上方勢に与(く)みすることは出来なかった。

 夫(それ)からモウ一つ私の身に就(つい)て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞(しまっ)たので、所謂(いわゆる)藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫(そ)れから前にも云(い)う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云(いっ)た所が、是(こ)れは云(い)わば筆執る飜訳(ほんやく)の職人で、政治に与(あず)かろう訳(わ)けもない。只(ただ)職人の積りで居るのだから、政治の考(かんがえ)と云うものは少しもない。自分でも仕(し)ようとも思わなければ、又(また)私は出来ようとも思わない。仮令(たと)い又私が奮発して、幕府なり上方(かみがた)なり何でも都合の宜(い)い方に飛出すとした処が、人の下流に就(つい)て仕事をすることは固(もと)より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱(ぶじょく)軽蔑(けいべつ)されたその不平不愉快は骨に徹(てっ)して忘れられないから、今更(さ)ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左(さ)れば大(おおい)に立身して所謂(いわゆる)政治界の大人(たいじん)とならんか、是れも甚(はなは)だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張(ばっ)て横風(おうふう)な顔をして人を目下(もくか)に見下だすことも亦(また)甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄(よびすて)にしたことがない。車夫、馬丁(ばてい)、人足(にんそく)、小商人(こあきんど)の如(ごと)き下等社会の者は別にして、苟(いやしく)も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論(もちろん)、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄(よびすて)にすることは出来ない。左(さ)る代(かわ)りに政治社会の歴々とか何とか云(い)う人を見ても何ともない。夫(そ)れも白髪の老人とでも云(い)えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯(ただ)可笑(おか)しいばかりで、話をするのも面白くない。是(こ)れは私が持(もっ)て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之(これ)を要するに如何(どう)しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独(ひと)り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、

 扨(さて)慶喜(けいき)さんが京都から江戸に帰(かえっ)て来たと云(い)うその時には、サア大変。朝野(ちょうや)共に物論沸騰して、武家は勿論(もちろん)、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙(いそがわ)しく、酔えるが如(ごと)く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯(ただ)その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生(ふだん)なれば大広間、溜(たまり)の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧(やか)ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐(あぐら)を掻(かい)て、怒鳴る者もあれば、ソット袂(たもと)から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方(がいこくがた)に飜訳(ほんやく)抔(など)の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之(かとうひろゆき)と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が《かみしも》を着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処(そこ)へ行(いっ)て、「イヤ加藤(かとう)君、今日はお《かみしも》で何事に出て来たのかと云(い)うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此(こ)の時に慶喜(けいき)さんが帰(かえっ)て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気(やっき)となって、上方(かみがた)の賊軍が出発したから何でも是(こ)れは富士川(ふじがわ)で防がなければならぬとか、イヤ爾(そ)うでない、箱根の嶮阻(けんそ)に拠(よっ)て二子山(ふたこやま)の処で賊を鏖殺(みなごろ)しにするが宜(い)い、東照神君(とうしょうしんくん)三百年の洪業は一朝にして棄(す)つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若(し)かずなんて、種々(しゅじゅ)様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨(こうがい)の気焔(きえん)を吐く者が多いから、云(い)わずと知れた加藤等もその連中(れんじゅう)で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵(たいてい)分るだろうから、ドウぞ夫(そ)れを僕に知らして呉(く)れ給(たま)え、是非(ぜひ)聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分(わかっ)てるではないか、是れがいよ/\戦争に極(き)まれば僕は荷物を拵(こしら)えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付(おちつい)て居る。その和戦如何(いかん)はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云(いっ)て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々(ばかばか)しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻(そっこく)迯(に)げて行くのだからと云(いっ)たら、加藤がプリ/\怒(おこっ)て居たことがあります。

 夫(そ)れから又(また)或日(あるひ)に外国方(がいこくがた)の小役人が出て来て、時に福澤さんは家来は何人お召連(めしつ)れになるかと問(と)うから、「家来とは何だと云(い)うと、「イヤ事急なれば皆この城中に詰(つ)める方々にお賄(まかない)を下さるので人数(にんず)を調べて居る処です。「爾(そ)うかソレは誠に難有(ありがた)い、難有(ありがた)いが私は勿論(もちろん)家来もなければ主人もない。ドウぞ福澤のお賄だけはお止(や)めにして下さい。弥々(いよいよ)戦争が始まると云うのに、この城の中に来て悠々と弁当など喰(くっ)て居られるものか、始まろうと云う気振(けぶ)りが見えれば何処(どこ)かへ直(す)ぐに逃出して行きます。先(ま)ず私のお賄は要(い)らないものとして下さいと、笑(わらっ)て茶を呑(の)んで居た。全体を云うと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許す訳(わ)けはない、直(す)ぐ一刀の下に首が夫くなる筈(はず)だけれども、是(こ)れが所謂(いわゆる)幕末の形勢で、迚(とて)も本式に戦争などの出来る人気(にんき)でなかった。

 その前に慶喜(けいき)さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか種々(しゅじゅ)様々な役人が出来た。可笑(おか)しくて堪(たま)らない。新潟奉行に誰が命ぜられて、何処(どこ)の代官に誰がなる。甚(はなは)だしきに至(いたっ)ては逃去て来た後(あと)の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは此方(こっち)に出来て居る。夫(そ)れから又御目附(おめつけ)になるもあれば、御使番(おつかいばん)になるものもある。何でも加藤弘之(かとうひろゆき)、津田真一(つだしんいち)(真道(まみち))なども御目附か御使番(おつかいばん)かになって居たと思う。私にも御使番になれと云(い)う。奉書到来と云う儀式で、夜中(やちゅう)差紙(さしがみ)が来たが、真平(まっぴら)御免だ、私は病気で御座(ござ)ると云(いっ)て取合わない。夫れから段々切迫して官軍(上方(かみがた)勢)が這入(はい)り込んで、ソロ/\鎮将府(ちんじょうふ)と云(い)うようなものが江戸に出来て、慶喜(けいき)さんは水戸の方に行くと斯(こ)うなったので、是(こ)れは慶応四年即(すなわ)ち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は芝(しば)の新銭座(しんせんざ)に屋敷が買ってあったから引越(ひっこ)さなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒の為(た)めに塾舎も拵(こしら)えなければならず、又私の住居(すまい)も拵えなければならぬ。扨(さて)その普請(ふしん)の一段になった所で、江戸市中大(おお)騒動の最中、却(かえっ)て都合が宜(い)い。八百八町只(ただ)の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物を搦(から)げて田舎に引越(ひっこ)すと云(い)うような者ばかり、手廻(まわ)しの宜(い)い家では竈(かまど)の銅壺(どうこ)まで外(はず)して仕舞(しまっ)て、自分は土竈(どべっつい)を拵(こしら)えて飯を焚(たい)て居る者もある。この最中に私が普請(ふしん)を始めた処が、大工や左官の悦(よろこ)びと云うものは一方(ひとかた)ならぬ。安いにも/\、何でも飯が喰(く)われさえすれば宜(よ)い、米の代さえあれば働くと云(い)う訳(わ)けで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々(さっさつ)と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。奥平屋敷の古長屋を貰(もらっ)て来て、凡(およ)そ百五十坪も普請したが、入費(にゅうひ)は僅(わず)か四百両ばかりで一切(いっさい)仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などは態(わざ)々止(と)めに来て、「今頃普請をするものがあるか、何処(どこ)でも家を毀(こ)わして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウする積(つも)りだと云(い)うから、私は答えて、「ソリャ爾(そ)うでない、今僕が新(あらた)に普請するから可笑(おか)しいように見えるけれども、去年普請をして置(おい)たらドウする。いよ/\戦争になって迯(に)げる時にその家を担(かつ)いで行かれるものでない。成程(なるほど)今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、仮令(たと)い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないと云(いっ)て颯々と普請をして、果して何の災(わざわい)もなかったのは投機商売の中(あたっ)たようなものです。何でも私の処で普請をした為(た)めに、新銭座(しんせんざ)辺は余程立退きが寡(すくな)かった。彼処(あすこ)の内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア引越(ひきこし)を見合せようと云(いっ)て思止(おもいと)まった者も大分(だいぶ)あったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。何処(どこ)から焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、何処(どこ)かに迯(に)げる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴を掘(ほっ)て隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の椽(えん)の下に這入(はいっ)て居ようか、若(も)し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州(きしゅう)の屋敷(今の芝離宮(しばりきゅう))があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見に行(いっ)た所が、広い庭で土手が二重に喰違(くいちが)いになって居る処がある。此処(ここ)が宜(よ)かろう、罷(まか)り違(ちがっ)ていよ/\ドン/″\遣(や)るようにならば、此処(ここ)へ逃げて来よう、けれども表から行かれない、行かれないから海岸から行くより外(ほか)ないと云(い)うので、いよ/\セッパ詰(つまっ)たその時に、私は伝馬船(てんまぶね)を五、六日の間雇(やとっ)て、新銭座(しんせんざ)の浜辺に繋(つな)いで置(おい)たことがある。サアいよ/\と云うときに、家内の者をその船に乗せて海の方からその紀州の屋敷へ行(いっ)て、土手の間に隠れて居ようと云う覚悟。その時に私の処の子供が二人、一(いち)(総領の一太郎(いちたろう)氏なり)と捨(すて)(次男の捨次郎(すてじろう)氏なり)、家内と子供を連れて其処(そこ)へ行こうと云う覚悟をして居た所が、ソレ程心配にも及ばず、追々官軍が入込(いりこ)んで来た所が存外優しい、決して乱暴な事をしない。既(すで)に奥平の屋敷が汐留(しおどめ)にあって、彼処(あすこ)に居る(別室に居る年寄を指して)一太郎(いちたろう)のお祖母(ばば)さんがその屋敷に居るので、五歳(いつつ)ばかりの一太郎が前夜からお祖母さんの処に泊(とまっ)て居た所が、奥平(おくだいら)屋敷のツヒ近所に増山(ますやま)と云う大名屋敷があって、その屋敷へ不逞(ふてい)の徒が何人とか籠(こもっ)て居ると云(い)うので、長州の兵が取囲んで、サア戦争だ、ドン/″\遣(やっ)て居る。夫(そ)れから捕(つか)まえられたとか斬られたとか、或(あるい)は奥平屋敷の溝の中に人が斬倒《きりたお

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