29話 福翁自伝 02 福翁自伝(29)
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と云う詩が出来ました。之を見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物は甚だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分に踊の稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。
不風流の由来元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
妻を娶て九子を生むソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を以て同藩士族江戸定府土岐太郎八の次女を娶り、是れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合のようにあるが、血統は両人共頗る宜しく、往古はイザ知らず、凡そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎、その次は捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も欠けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の為めに乳母を雇うて育てました。
子供の活動を妨げず養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。又その躾方は温和と活溌とを旨とし、大抵の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂の側に大きな水桶を置て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、左ればとて食物を勝手に任せて何品でも喰い次第にすると云う訳けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは迚も手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙を破り諸道具に疵付けても先ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を六かしくして睨む位が頂上で、如何なる場合にも手を下して打たことは一度もない。又親が実子に向ても嫁に接しても、又兄姉が弟妹に対しても名を呼棄にせず、家の中に厳父慈母の区別なく、厳と云えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母さんはどうかすると怖いけれども、お祖父さんが一番怖くないと云て居る。世間並にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子に限て別段に我儘でもなし、長少戯れながら長者の真面目に言う事は能く聞て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。
家に秘密事なし又家の中に秘密事なしと云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是れは彼の子に話して此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎めて遣れば、子供も亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以て見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。
礼儀足らざるが如しその礼儀の事に就て申せば、家の主人が出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀をすると云うような事が能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯足の向た方に這入て来る。或は車に乗て帰て来た時に、車夫又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云て呉れるな、と云う訳けであるから、幾ら玄関で怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪んで居ましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左ればとて是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思て居るだろうと、私は窃に推察します。
子女の間に軽重なしソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎と云うことは真実一寸ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造目出度がり、女の子でも無病なれば先ず/\目出度いなんて、自から軽重があるようだが、コンな馬鹿気た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。唯今日では男の子が四人、女の子が五人、宜い塩梅に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から之を愛して兎の毛ほども分隔てはない。道徳学者は動もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を云てるではないか。況して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと云うような浅ましい事があられるものか。唯私の考に、総領もその他の子供も同じとは云いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば自から中心になるから、財産を分配するにも、外の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも遣りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が取て宜かろうと云うくらいな事で、その外には何も変ることはない。例えば斯う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活だのゴテ/\一杯に列べてある。コリャ何だと聞て見れば、亜米利加に輸出する品だと云う。夫れから私が不図した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、兎に角に之を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何だ、買たからと云てソレを又儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程爾うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に遣て仕舞えば是れ丈けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか碌に品も見ないで皆買て仕舞たが、夫れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も能く知らず数も覚えず、唯邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取て仕舞えと申して、小供がワイ/\寄て、その品を九に分けて、ソレを籤で取て、今では皆小供が銘々に引受けて、家を持て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と云うのが凡そ私の財産分配法で、如何にもその子に厚薄と云うものは一寸ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた訳けのものでないと思て居ます。
西洋流の遺言法に感服せず近来遺言も書きました。遺言の事に就ては、能く西洋の話にある主人の死んだ後で遺言書を明けて見てワッと驚いたなんて云う事は毎度聞てるが、私は甚だ感服しない。死後に見せることを生前に言うことが出来ないとは可笑しい。畢竟西洋人が習慣に迷うて馬鹿をして居るのだ、乃公はソンな馬鹿の真似はしないぞと云て、家内子供に遺言の書付を見せて、この遺言書は箪笥のこの抽斗に這入て居るから皆能く見て置け、又説が変れば又書替えて又見せるから、能く見て置て、乃父の死んだ後で争うような卑劣な事をするなよと申して笑て居ます。
体育を先にす扨又子供の教育法に就ては、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。先ず獣身を成して後に人心を養うと云うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。夫れまでは唯暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には能く気を付けて遣り、又子供ながらも卑劣な事をしたり賤しい言葉を真似たりすれば之を咎るのみ、その外は一切投遣りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即ち是れが先ず獣身を成すの法にして、幸に犬猫のように長成して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。尚おその時にも身体の事は決して等閑にしない。世間の交母は動もすると勉強々々と云て、子供が静にして読書すれば之を賞める者が多いが、私方の子供は読書勉強して遂ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を止めて居る。小供は既に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか云えば、褒美でも与えて賞めて遣るけれども、本を能く読むと云て賞めたことはない。既に二十年前の事です。長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に宜くなる。宜くなるから又入れると又悪くなる。到頭三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿と云う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして遣て行けば、生徒を殺すに極て居る。殺さなければ気狂いになるか、然らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞うに違いない。丁度この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと思て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して貰いたい。この儘で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して宜しい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒が明かず、子供は相替らず三ヶ月遣て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような訳けで、何としても予備門の修業に堪えず、私も遂に断念して仕舞うて、夫れから此方の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加に遣て彼の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。
子女幼時の記事又私の考に、人間は成長して後に自分の幼年の時の有様を知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で左様思うから、筆まめな事だが私は小供の生立の模様を書て置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は云々、幼少の時の健康は斯く/\、気質の強弱、生付きの癖など、ザッと荒増し記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この書たものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、自から又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の面も知らず、画像に写したものもなし、又私がドンな子供であったか母に聞たばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳を傾けて聞て、唯残念にばかり思うて、独り身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供の為めにし、又先年小供の生立の事をも認めて置たから先ず遺憾はない積りです。
三百何十通の手紙又親子の間は愛情一偏で、何ほど年を取ても互に理窟らしい議論は無用の沙汰である。是れは私も妻も全く同説で、親子の間を成る丈け離れぬようにする計り。例えば先年、長男次男が六年の間亜米利加に行て居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度と云う位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論、仮令い用事がなくても毎便必ず手紙を遣らない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を書放にして家内が校合方になって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。彼方の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越す。この事は両人出発の節堅く申付て、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないと云て寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって帰て来るより、筋骨逞しき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程悦しい。仮初にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は何処までも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で如何にもなると云うことならば思い切て金を使え、少しも構わぬからと斯う云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。
一身の品行、亦自から効力あり又私の内が夫婦親子睦じくて私の行状が正しいからと云て、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私も亦、これが人間唯一の目的で一身の品行修まりて能事終るなんて自慢をするような馬鹿でもないと自から信じて居るが、扨又これが妙なもので、社会の交際に関係する所は甚だ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して私は如何なる者ぞと尋ぬるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、或は外国に行き、又或は外国の書を飜訳して大言を吐散らし、剰さえ儒流を軽蔑して憚る所を知らずと云えば、是れは所謂異端外道に違いない。同藩一般の見る所でこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が這入て居るか知れない。兎に角に福澤諭吉は大変な奴だと折紙が付て居たに違いない。所が物換り星移り、段々時勢が変遷して王政維新の世の中になって見れば、藩論も自から面目を改め、世間一般西洋流の喧ましい今日、福澤もマンザラでなし、或は之を近づけて何かの役に立つこともあろうと云うような説がチラホラと涌て来たその時に、嶋津祐太郎と云う奥平家の元老は、頗る事の能く分る、云わば卓識の君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を疏外するは不利であると云うことに着眼して居る折柄、奥平家の大奥に芳蓮院様と云う女隠居がある、この貴婦人は一橋家から奥平家に下て来た由緒ある身分で、最早や余程の老年でもあり、一家無上の御方様と崇められて居る。ソコで嶋津が先ずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、彼の国には文学武備、富国強兵、医術も精しく航海術も巧なり、その中には随分日本の風俗習慣に違た事も数々ありますが、爰に西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女相互に軽重なく、如何なる身分の人でも一夫一婦に限て居ます、是れ丈けは西洋の特色で御座ると云う所を持込んだ所が、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話を聞て心を動かさずには居られない。恰も豁然発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入の道が開けて、御隠居様を始め所謂御上通りの人に逢うて見れば、福澤の外道も唯の人間で、角も生えて居なければ尻尾のある者でもない、至極穏かな人間だと云う所からして、段々懇親になったと云うその話は、程経て後に内々嶋津から聞きました。シテ見ると一夫一婦の説も隠然の中には随分勢力のあるもので、就ては今の世に多妻の悪弊を除て文明風にするなんと論ずるは野暮だと云うような説があるけれども、畢竟負借みの苦しい遁げ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論決して野暮でない、世間の多数は同主義で、殊に上流の婦人は悉く此方の味方であるから、私の身がこの先き何時まで生きて居るか知れぬけれども、有らん限りの力を尽して、前後左右を顧みずドンな奴を敵にしても構わぬ、多妻法を取締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるような風にして遣ろうと思て居ます。
老余の半生