福翁自伝 02 福翁自伝

29話 福翁自伝 02 福翁自伝(29)

7,191字 約14分 2017年6月15日 公開

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と云(い)う詩が出来ました。之(これ)を見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物(なりもの)は甚(はなは)だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分に踊(おどり)の稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。

不風流の由来元来(がんらい)私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞(しまっ)たのでしょう。先(ま)ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉(く)れる者がないので、ロクに手習(てならい)をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習(ならっ)たら宜(よ)さそうなものだが、その時は既(すで)に洋学の門に入(はいっ)て天下の儒者流を目の敵(かたき)にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中(なかんずく)その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌(しゃべ)りながら、サアと云(い)うときには夫(そ)れ程に意気地(いくじ)はない。殊(こと)に不品行で酒を飲(のん)で詩を作(つくっ)て書が旨いと云(い)えば評判が宜(よ)い。都(すべ)て気に喰(く)わぬ。よし/\洋学流の吾々(われわれ)は反対に出掛けて遣(や)ろうと云(い)う気になって、恰(あたか)も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払(うりはらっ)て仕舞(しま)い、兼て嗜(す)きな居合(いあい)も罷(や)めて知らぬ風(ふう)をして居たような塩梅(あんばい)式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方(こっち)は態(わざ)と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊(こと)更らに等閑(なおざり)にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込(りきみこん)で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊(こと)に兄は書も善くし、画(え)も出来、篆刻(てんこく)も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨(さて)置き骨董も美術品も一切(いっさい)無頓着(むとんじゃく)、住居(すまい)の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯(ただ)人の着せて呉(く)れるものを着て居る。或(ある)時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥(たんす)の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云(いっ)て大(おおい)に笑われたことがある。殺風景も些(ち)と念入(ねんいり)の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟(ひっきょう)少年の時から種々様々の事情に逐(お)われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角(とかく)世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是(こ)れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫(まごこ)を集めて共に戯(たわぶ)れ、色々な芸をさせたり嗜(す)きな物を馳走(ちそう)したりして、一家内の長少睦しく互(たがい)に打解けて談(かた)り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。

妻を娶て九子を生むソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を以(もっ)て同藩士族江戸定府(じょうふ)土岐太郎八(ときたろはち)の次女を娶(めと)り、是(こ)れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合(ふつりあい)のようにあるが、血統は両人共頗(すこぶ)る宜(よろ)しく、往古はイザ知らず、凡(およ)そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹(かか)りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎(いちたろう)、その次は捨次郎(すてじろう)と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸(さいわい)にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も欠(か)けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の為(た)めに乳母を雇うて育てました。

子供の活動を妨げず養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹(きっ)と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。又(また)その躾方(しつけかた)は温和と活溌(かっぱつ)とを旨とし、大抵(たいてい)の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂(すえふろ)の側(そば)に大きな水桶を置(おい)て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、左(さ)ればとて食物を勝手に任(まか)せて何品でも喰い次第にすると云う訳(わ)けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは迚(とて)も手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙(からかみ)を破り諸道具に疵(きず)付けても先(ま)ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷(ひど)く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を六(むず)かしくして睨む位が頂上で、如何(いか)なる場合にも手を下(くだ)して打(うっ)たことは一度もない。又親が実子に向(むかっ)ても嫁に接しても、又(また)兄姉が弟妹に対しても名を呼棄(よびすて)にせず、家の中に厳父慈母(げんぷじぼ)の区別なく、厳と云(い)えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母(おっか)さんはどうかすると怖いけれども、お祖父(じい)さんが一番怖くないと云(いっ)て居る。世間並(なみ)にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子(まごこ)に限(かぎっ)て別段に我儘(わがまま)でもなし、長少戯(たわぶ)れながら長者の真面目に言う事は能(よ)く聞(きい)て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。

家に秘密事なし又家の中に秘密事なしと云(い)うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是(こ)れは彼(あ)の子に話して此(こ)の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎(とが)めて遣(や)れば、子供も亦(また)親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以(もっ)て見ると一寸(ちょい)と尊卑の礼儀がないように見えましょう。

礼儀足らざるが如しその礼儀の事に就(つい)て申せば、家の主人が出入(でいり)するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀(じぎ)をすると云うような事が能(よ)く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯(ただ)足の向(むい)た方に這入(はいっ)て来る。或(あるい)は車に乗(のっ)て帰(かえっ)て来た時に、車夫又(また)別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云(いっ)て呉(く)れるな、と云(い)う訳(わ)けであるから、幾ら玄関で怒鳴(どなっ)ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母(おばば)さんが怪(あやし)んで居ましょう。この老人は土岐(とき)家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左(さ)ればとて是(こ)れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思(おもっ)て居るだろうと、私は窃(ひそか)に推察します。

子女の間に軽重なしソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎(けいじゅうあいそう)と云うことは真実一寸(ちょい)ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造目出度(めでた)がり、女の子でも無病なれば先(ま)ず/\目出度(めでた)いなんて、自(おのず)から軽重があるようだが、コンな馬鹿気(ばかげ)た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。唯(ただ)今日では男の子が四人、女の子が五人、宜(よ)い塩梅(あんばい)に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から之(これ)を愛して兎(う)の毛ほども分隔(わけへだ)てはない。道徳学者は動(やや)もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を云(いっ)てるではないか。況(ま)して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと云(い)うような浅ましい事があられるものか。唯(ただ)私の考(かんがえ)に、総領もその他の子供も同じとは云(い)いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば自(おのず)から中心になるから、財産を分配するにも、外(ほか)の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも遣(や)りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が取(とっ)て宜(よ)かろうと云うくらいな事で、その外(ほか)には何も変ることはない。例えば斯(こ)う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行(いっ)て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活(はないけ)だのゴテ/\一杯に列(なら)べてある。コリャ何だと聞(きい)て見れば、亜米利加(アメリカ)に輸出する品だと云う。夫(そ)れから私が不図(ふと)した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、兎(と)に角(かく)に之(これ)を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何(どう)だ、買(かっ)たからと云てソレを又(また)儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞(しまい)込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程爾(そ)うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に遣(やっ)て仕舞(しま)えば是(こ)れ丈(だ)けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか碌(ろく)に品も見ないで皆買(かっ)て仕舞(しまっ)たが、夫(そ)れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も能(よ)く知らず数も覚えず、唯(ただ)邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取(とっ)て仕舞(しま)えと申して、小供がワイ/\寄(よっ)て、その品を九に分けて、ソレを籤(くじ)で取(とっ)て、今では皆小供が銘々(めいめい)に引受けて、家を持(もっ)て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と云(い)うのが凡(およ)そ私の財産分配法で、如何(いか)にもその子に厚薄と云うものは一寸(ちょい)ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた訳(わ)けのものでないと思て居ます。

西洋流の遺言法に感服せず近来遺言も書きました。遺言の事に就(つい)ては、能く西洋の話にある主人の死んだ後で遺言書を明けて見てワッと驚いたなんて云う事は毎度聞(きい)てるが、私は甚(はなは)だ感服しない。死後に見せることを生前に言うことが出来ないとは可笑(おか)しい。畢竟(ひっきょう)西洋人が習慣に迷うて馬鹿をして居るのだ、乃公(おれ)はソンな馬鹿の真似はしないぞと云(いっ)て、家内子供に遺言の書付を見せて、この遺言書は箪笥(たんす)のこの抽斗(ひきだし)に這入(はいっ)て居るから皆能く見て置け、又(また)説が変れば又書替(かきか)えて又見せるから、能く見て置(おい)て、乃父(おれ)の死んだ後で争うような卑劣な事をするなよと申して笑(わらっ)て居ます。

体育を先にす扨(さて)又子供の教育法に就(つい)ては、私は専(もっぱ)ら身体の方を大事にして、幼少の時から強(し)いて読書などさせない。先(ま)ず獣身(じゅうしん)を成して後に人心を養うと云(い)うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習(てならい)をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。夫(そ)れまでは唯(ただ)暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には能(よ)く気を付けて遣(や)り、又子供ながらも卑劣な事をしたり賤(いや)しい言葉を真似たりすれば之(これ)を咎(とがむ)るのみ、その外(ほか)は一切(いっさい)投遣(なげや)りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即(すなわ)ち是(こ)れが先(ま)ず獣身を成すの法にして、幸(さいわい)に犬猫のように長成(ちょうせい)して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。尚(な)おその時にも身体の事は決して等閑(なおざり)にしない。世間の交母は動(やや)もすると勉強々々と云(いっ)て、子供が静(しずか)にして読書すれば之(これ)を賞(ほ)める者が多いが、私方の子供は読書勉強して遂(つい)ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を止(と)めて居る。小供は既(すで)に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張(やは)り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか云(い)えば、褒美でも与えて賞(ほ)めて遣(や)るけれども、本を能(よ)く読むと云(いっ)て賞めたことはない。既(すで)に二十年前の事です。長男一太郎(いちたろう)と次男捨次郎(すてじろう)と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角(とかく)胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に宜(よ)くなる。宜くなるから又(また)入れると又悪くなる。到頭(とうとう)三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿(たなかふじまろ)と云(い)う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして遣(やっ)て行けば、生徒を殺すに極(きまっ)て居る。殺さなければ気狂いになるか、然(しか)らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞(しま)うに違いない。丁度(ちょうど)この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと思(おもっ)て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して貰(もら)いたい。この儘(まま)で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して宜(よろ)しい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意(こんい)の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒(らち)が明かず、子供は相替(あいかわ)らず三ヶ月遣(やっ)て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような訳(わ)けで、何としても予備門の修業に堪(た)えず、私も遂(つい)に断念して仕舞うて、夫(そ)れから此方(こちら)の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加(アメリカ)に遣て彼(か)の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様(しよう)が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。

子女幼時の記事又私の考(かんがえ)に、人間は成長して後に自分の幼年の時の有様(ありさま)を知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で左様(そう)思うから、筆まめな事だが私は小供の生立(おいたち)の模様を書(かい)て置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は云々(うんぬん)、幼少の時の健康は斯(か)く/\、気質の強弱、生付(うまれつ)きの癖など、ザッと荒増(あらま)し記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この書(かい)たものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、自(おのず)から又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の面(かお)も知らず、画像(えぞう)に写したものもなし、又私がドンな子供であったか母に聞(きい)たばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳を傾(かたむ)けて聞(きい)て、唯(ただ)残念にばかり思うて、独(ひと)り身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供の為(た)めにし、又(また)先年小供の生立の事をも認(したた)めて置(おい)たから先(ま)ず遺憾はない積りです。

三百何十通の手紙又親子の間は愛情一偏で、何ほど年を取(とっ)ても互(たがい)に理窟らしい議論は無用の沙汰(さた)である。是(こ)れは私も妻も全く同説で、親子の間を成る丈(た)け離れぬようにする計(ばか)り。例えば先年、長男次男が六年の間亜米利加(アメリカ)に行(いっ)て居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度と云(い)う位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論(もちろん)、仮令(たと)い用事がなくても毎便必ず手紙を遣(や)らない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を書放(かきはなし)にして家内が校合方(きょうごうかた)になって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。彼方(あちら)の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越(よこ)す。この事は両人出発の節堅く申付(もうしつけ)て、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないと云(いっ)て寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって帰(かえっ)て来るより、筋骨逞(たくま)しき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程悦(よろこば)しい。仮初(かりそめ)にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は何処(どこ)までも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で如何(どう)にもなると云うことならば思い切(きっ)て金を使え、少しも構わぬからと斯(こ)う云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。

一身の品行、亦自から効力あり又(また)私の内が夫婦親子睦(むつま)じくて私の行状が正しいからと云(いっ)て、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私も亦(また)、これが人間唯一の目的で一身の品行修まりて能事(のうじ)終るなんて自慢をするような馬鹿でもないと自(みず)から信じて居るが、扨(さて)又これが妙なもので、社会の交際に関係する所は甚(はなは)だ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して私は如何(いか)なる者ぞと尋ぬるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、或(あるい)は外国に行き、又或(あるい)は外国の書を飜訳(ほんやく)して大言を吐散(はきち)らし、剰(あまつ)さえ儒流を軽蔑(けいべつ)して憚(はばか)る所を知らずと云(い)えば、是(こ)れは所謂(いわゆる)異端(いたん)外道(げどう)に違(ちが)いない。同藩一般の見る所でこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が這入(はいっ)て居るか知れない。兎(と)に角(かく)に福澤諭吉は大変な奴だと折紙が付(つい)て居たに違いない。所が物換り星移り、段々時勢が変遷して王政維新の世の中になって見れば、藩論も自(おのず)から面目を改め、世間一般西洋流の喧(やか)ましい今日、福澤もマンザラでなし、或(あるい)は之(これ)を近づけて何かの役に立つこともあろうと云(い)うような説がチラホラと涌(わい)て来たその時に、嶋津祐太郎(すけたろう)と云う奥平家の元老は、頗(すこぶ)る事の能(よ)く分る、云(い)わば卓識の君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を疏外(そがい)するは不利であると云うことに着眼して居る折柄、奥平家の大奥に芳蓮院(ほうれんいん)様と云う女隠居がある、この貴婦人は一橋(ひとつばし)家から奥平家に下(くだっ)て来た由緒ある身分で、最早(もは)や余程の老年でもあり、一家無上の御方様(おんかたさま)と崇(あが)められて居る。ソコで嶋津(しまづ)が先(ま)ずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、彼(か)の国には文学武備、富国強兵、医術も精(くわ)しく航海術も巧(たくみ)なり、その中には随分(ずいぶん)日本の風俗習慣に違(ちがっ)た事も数々ありますが、爰(ここ)に西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女相互(あいたがい)に軽重なく、如何(いか)なる身分の人でも一夫一婦に限(かぎっ)て居ます、是(こ)れ丈(だ)けは西洋の特色で御座(ござ)ると云(い)う所を持込んだ所が、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話を聞(きい)て心を動かさずには居られない。恰(あたか)も豁然(かつぜん)発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入の道が開けて、御隠居様を始め所謂(いわゆる)御上通(おかみどお)りの人に逢うて見れば、福澤の外道も唯(ただ)の人間で、角(つの)も生えて居なければ尻尾(しっぽ)のある者でもない、至極(しごく)穏かな人間だと云う所からして、段々懇親になったと云うその話は、程経(ほどへ)て後に内々嶋津から聞きました。シテ見ると一夫一婦の説も隠然(いんぜん)の中には随分勢力のあるもので、就(つい)ては今の世に多妻の悪弊を除(のぞい)て文明風にするなんと論ずるは野暮(やぼ)だと云うような説があるけれども、畢竟(ひっきょう)負借(まけおし)みの苦しい遁(に)げ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論決して野暮(やぼ)でない、世間の多数は同主義で、殊(こと)に上流の婦人は悉(ことごと)く此方(こっち)の味方であるから、私の身がこの先(さ)き何時(いつ)まで生きて居るか知れぬけれども、有らん限りの力を尽して、前後左右を顧(かえり)みずドンな奴を敵にしても構わぬ、多妻法を取締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるような風(ふう)にして遣(や)ろうと思(おもっ)て居ます。

老余の半生

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