30話 福翁自伝 02 福翁自伝(30)
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仕官を嫌う由縁私の生涯は終始替ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗めて、今日に至るまで大に愧ることもなく大に後悔することもなく、心静に月日を送りしは、先ず以て身の仕合せと云わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分知て居ながら、遂に政府の役人にならぬと云うは可笑しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその処に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、蔭で窃に評論する計りでない、現に直接に私に向て質問する者もある。啻に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に立て思う事を行えば、名誉にも為り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は唯笑て取合わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、彼れは旧幕府に操を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を悦んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と云う者があるが、福澤もその遺臣を気取て、物外に瓢然として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに違いない、心に不平があれば新政府の為めに宜いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を運らして居る者の多いのは、私も大抵知て居る。所が斯く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛んに忠義論を論じて佐幕の気焔を吐て脱走までする時に、私は強て議論もせず、脱走連中に知て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから罷にしろと云て止めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度適当の嵌役なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、是れも遺臣と云われぬ。その遺臣論は姑く擱き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、唯ジッと中立独立と説を極めて居ると、今度の新政府は開国に豹変した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北何れを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独りで身に叶う丈けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一天張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成のものになって来て、一切万事改進ならざるはなし、所謂文明駸々乎として進歩するの世の中になったこそ実に有り難い仕合せで、実に不思議な事で、云わば私の大願も成就したようなものだから、最早や一点の不平は云われない。
問題更らに起るソコで私の身の進退に就ても更らに問題が起る。是れまで新政府に出身しなかったのは、政府が鎖国攘夷の主義であるから之を嫌うたのだ、仮令い開国と触出してもその内実は鎖攘の根性、信ずるに足らずと見縊たのである、然るに政府の方針がいよ/\開国文明と決して着々事実に顕わるゝに於ては、官界に力を尽して政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないかと世間の人の思うのは、一寸と尤ものように見えるが、この一段になってもマダ私に動く気がない。
殻威張の群に入るべからず従前曾て人に語らず、又語る必要もないから黙て居て、内の妻子も本当に知りますまいが、私の本心に於て何としても仕官が出来られないその真面目を丸出しに申せば、第一、政府がその方針を開国文明と決定して大に国事を改革すると同時に、役人達が国民に対して無暗に威張る、その威張るのも行政上の威厳と云えば自から理由もあるが、実際は爾うでない、唯殻威張をして喜んで居る。例えば位記などは王政維新、文明の政治と共に罷めそうなことを罷めずに、人間の身に妙な金箔を着けるような事をして、日本国中いらざる処に上下貴賤の区別を立てゝ、役人と人民と人種の違うような細工をして居る。既に政府が貴いと云えば政府に入る人も自然に貴くなる、貴くなれば自然に威張るようになる、その威張りは即ち殻威張で、誠に宜しくないと知りながら、何も蚊も自然の勢で、役人の仲間になれば何時の間にか共に殻威張を遣るように成り行く。然かのみならず、自分より下に向て威張れば上に向ては威張られる。鼬こっこ鼠こっこ、実に馬鹿らしくて面白くない。政府に這入りさえせねば馬鹿者の威張るのを唯見物して唯笑て居る計りなれども、今の日本の風潮で、役人の仲間になれば、仮令い最上の好地位に居ても兎に角に殻威張と名づくる醜体を犯さねばならぬ。是れが私の性質に於て出来ない。
身の不品行は人種を殊にするが如し之を第一として、第二には甚だ申し憎いことだが、役人全体の風儀を見るに気品が高くない。その平生美衣美食、大きな邸宅に住居して散財の法も奇麗で、万事万端思切りが能くて、世に処し政を料理するにも卑劣でない、至極面白い気風であるが、何分にも支那流の磊落を気取て一身の私を慎しむことに気が付かぬ。動もすれば酒を飲んで婦人に戯れ、肉慾を以て無上の快楽事として居るように見える。家の内外に妾などを飼うて、多妻の罪を犯しながら恥かしいとも思わず、その悪事を隠そうともせずに横風な顔をして居るのは、一方に西洋文明の新事業を行い、他の一方には和漢の旧醜体を学ぶものと云わねばならぬ。ダカラ外の事を差置てこの一点に就て見れば、何だか一段下た下等人種のように見える。是れも世の中の流俗として遠方から眺めて居れば左まで憎らしくもなく又咎めようとも思わぬ、時に往来して用事も語り談笑妨げなけれども、扨いよ/\この人種の仲間になって一つ竈の飯を喰い本当に親しく近くなろうと云うには、何処となく穢ないように汚れたように思われてツイ嫌になる。是れは私の潔癖とでも云うようなもので、全体を申せば度量の狭いのでしょうが、何分にも生れつきの性質とあれば仕方がない。
忠臣義士の浮薄を厭う第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に立分れて居るその時に、私は唯古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、固より幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して仕舞うが宜いと不断気焔を吐て居たが、左ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も劇しいから、固よりコンな連中に心を寄せる筈はない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて帰て来た。スルと幕府の人は勿論、諸方の佐幕連が中々喧しくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして棄つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯是れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる三河譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、大造な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に邀え撃んとする者もあれば、軍艦を以て脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争の極、声を放て号泣するなんぞは、如何にもエライ有様で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦に乗て箱館に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と云て、東京で出来た物は菓子も喰わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れると云う塩梅式は、丸で今世の伯夷、叔斉、静岡は恰も明治初年の首陽山であったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山に蕨の乏しいのを感じたか、ソロ/\山の麓に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体を丸出にして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も杓子も政府の辺に群れ集て、以前の賊徒今の官員衆に謁見、是れは初めて御目に掛るとも云われまい、兼て御存じの日本臣民で御座ると云うような調子で、君子は既往を語らず、前言前行は唯戯れのみと、双方打解けて波風なく治まりの付たのは誠に目出度い、何も咎立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。抑も王政維新の争が、政治主義の異同から起て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、遂に幕府の敗北と為り、その後に至て勤王家も大に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、之と共に爾後の方針を与にすると云えば至極尤もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退は一切万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下が無くなったら争の点も無くなって平気の平左衛門とは可笑しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば固より宜しいが、争論の発起人で頻りに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気取り、又はその身躬から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に由る、負けても恥かしいことはない、議論が中らなかっても構わないが、遣傷なったらその身の不運と諦らめて、山に引込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜いと思えども、中々以て坊主どころか、洒蛙々々と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に喰わぬ。扨々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな薄ぺらな人間と伍を為すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を極めて、初一念を守り、政治の事は一切人に任せて、自分は自分だけの事を勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を能く知て居るから、忠臣義士の成行を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと思ても思われて堪らない。全く私の癇癪でしょうが、是れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
独立の手本を示さんとす第四には、勤王佐幕など云う喧しい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字でも分る奴は皆役人になりたいと云う。仮令い役人にならぬでも、兎に角に政府に近づいて何か金儲でもしようと云う熱心で、その有様は臭い物に蠅のたかるようだ。全国の人民、政府に依らねば身を立てる処のないように思うて、一身独立と云う考は少しもない。偶ま外国修業の書生などが帰て来て、僕は畢生独立の覚悟で政府仕官は思いも寄らぬ、なんかんと鹿爪らしく私方へ来て満腹の気焔を吐く者は幾らもある。私は最初から当てにせずに宜い加減に聞流して居ると、その独立先生が久しく見えぬ。スルと後に聞けばその男はチャンと何省の書記官に為り、運の好い奴は地方官になって居ると云うような風で、何も之を咎めるではない、人々の進退はその人の自由自在なれども、全国の人が唯政府の一方を目的にして外に立身の道なしと思込んで居るのは、畢竟漢学教育の余弊で、所謂宿昔青雲の志と云うことが先祖以来の遺伝に存して居る一種の迷である。今この迷を醒まして文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい、亦自からその方針に向う者もあるだろう、一国の独立は国民の独立心から湧て出てることだ、国中を挙げて古風の奴隷根性では迚も国が持てない、出来ることか出来ないことかソンな事に躊躇せず、自分がその手本になって見ようと思付き、人間万事無頓着と覚悟を定めて、唯独立独歩と安心決定したから、政府に依りすがる気もない、役人達に頼む気もない。貧乏すれば金を使わない、金が出来れば自分の勝手に使う。人に交わるには出来る丈けの誠を尽して交わる、ソレでも忌と云えば交わって呉れなくても宜しい。客を招待すれば此方の家風の通りに心を用いて饗応する、その風が嫌いなら来て呉れなくても苦しうない。此方の身に叶う丈けを尽して、ソレから上は先方の領分だ。誉めるなり譏るなり喜ぶなり怒るなり勝手次第にしろ、誉められて左まで歓びもせず、譏られて左まで腹も立てず、いよ/\気が合わねば遠くに離れて附合わぬ計りだ。一切万事、人にも物にもぶら下らずに、云わば捨身になって世の中を渡るとチャンと説を定めて居るから、何としても政府へ仕官などは出来ない。この流儀が果して世の中の手本になって宜い事か、悪い事か、ソレも無頓着だ、宜ければ甚だ宜しい、悪るければソレまでの事だ、その先きまで責任を脊負い込もうとは思いません。
右の通り条目を並べて第一から第四まで述立てゝ見れば、私の政府に出ないのは初めからチャンと理窟を定めて箇様々々と自から自分を束縛してあるように見えるが、実はソレホド窮窟な訳けではない、ソレホド六かしい事でもない。唯今日これを筆記して人に分るようにしようとするには、話に順序がなくては叶わぬ。ソコで久しい前年から今日に至るまで、物に触れ事に当り、人と談論した事などを思出して、彼の時はアヽであった、この時は斯うであったと、記憶中に往来するものを取集めて見ると、前に記した通りになる。詰る所、私は政治の事を軽く見て熱心でないのが政界に近づかぬ原因でしょう。喩えば人の性質に下戸上戸があって、下戸は酒屋に入らず上戸は餅屋に近づかぬと云う位のもので、政府が酒屋なら私は政事の下戸でしょう。
政治の診察医にして開業医に非ずとは云うものゝ、私が政治の事を全く知らぬではない、口に談論もすれば紙に書きもする。但し談論書記する計りで、自からその事に当ろうと思わぬその趣は、恰も診察医が病を診断してその病を療治しようとも思わず、又事実に於て療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は皆無素人でも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ世間の人も私の政治診断書を見て、是れは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろうと推察するのは大間違いの沙汰です。
明治十四年の政変この事に就て一寸と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参て、或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して呉れろと云う。一向趣意が分らぬから先ず御免と申して去ると、その後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云う期日は定まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈伊井の三人が漸く不和になって、その果ては大隈が辞職することになりました。扨大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその後には、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎が金主になって既に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風になって来て、その風が全国の隅々までも靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。凡そ当時の政変は政府人の発狂とでも云うような有様で、私はその後岩倉から度々呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも六かしいなんかんと話すのを聞けば、余程騒いだものと察しられる。実に馬鹿気たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると云て案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に逐出したり、マダ夫れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、是れ見よがしに殻威張を遣て居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ先きに角突合いになって居るから可笑しい。十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあるけれども、今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし黙て居ますが、そのとき私は寺島と極懇意だから何も蚊も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌って廻ると政府の中に随分困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めて聞て驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分穢いものとは云いながら、是れはアンマリ酷い。少し捩くって遣ても宜いじゃないかと、態と勧めるような風であったけれども、私は夫れ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、先ず/\ソンナ無益な殺生は罷にしようと云て、笑て分れたことがある。
保安条例コンな訳で、私は十四年の政変のその時から、何も実際に関係はない、俗界に云う政治上の野心など思も寄らぬ事だから誠に平気で、唯他人のドタバタするのを見物して居るけれども、政府の目を以てこの見物人を見れば、又不思議なもので、色々な姿に写ると見える。明治何年か保安条例の出たとき、私もこの条例の科人になって東京を逐出されると云う風聞。ソレはその時塾に居た小野友次郎が警視庁に懇意の人があって、極内々その事を聞出して、私と同時に後藤象次郎も共に放逐と確に云うから、「ナニ殺されるではなし、イザと云えば川崎辺まで出て行けば宜いと申して居る中、その翌日か翌々日か小野が又来て、前の事は取消しになったと云うので事は済みました。又その後明治二十年頃かと思う、井上角五郎が朝鮮で何とやらしたと云うので捕えられて、その時の騒動と云うものは大変で、警察の役人が来て私方の家捜しサ。夫から井上が何か吟味に逢うて、福澤諭吉に証人になって出て来いと云て、私を態々裁判所に呼出して、タワイもない事を散々尋て、ドウかしたら福澤も科人の仲間にしたいと云うような風が見えました。都てコンな事は唯大間違で、私の身には何ともない。却て世の中の人心の動くその運動の方向緩急を視察して面白く思て居るが、又一歩を進めて虚心平気に考うれば、私が兎角政界の人に疑われると云うのも全く無理はない。第一私は何としても役人になる気がない、是れは世間に例の少ない事で、仕官流行、熱中奔走の世の中に、独りこれが嫌いと云えば、一寸と見て不審を起さねばならぬ。ソレもいよ/\官途に気がないとならば田舎にでも引込んで仕舞えば宜いに、都会の真中に居て然かも多くの人に交際して、口も達者に筆もまめに、洒蛙々々と饒舌たり書たりするから、世間の目に触れ易く、随て人に不審を懐かせるのも自然の勢である。
一片の論説能く天下の人心を動かす之を第一として、モ一つ本当の事を云うと、私の言論を以て政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えば是れまで頓と人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も片付て後、世の中は静になって、人間が却て無事に苦しむと云うとき、私が不図思付て、是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう、随分面白かろうと思て、ソレからその論説を起草して、マダその時には時事新報と云うものはなかったから、報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人にその草稿を見せて、「この論説は新聞の社説として出されるなら出して見なさい、屹と世間の人が悦ぶに違いない。但しこの草稿のまゝに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆と云うことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思う通りに直して、試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云うと、年の若い元気の宜い藤田、箕浦だから、大に悦んで草稿を持て帰て、早速報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果して人気に投ずるやら、又は何でもない事になって仕舞うやら、頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のように社説欄内を填めて、又藤田、箕浦が筆を加えて東京の同業者を煽動するように書立てゝ、世間の形勢如何と見て居た所が、不思議なる哉、凡そ二、三ヶ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧しくなって来て、遂には例の地方の有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考直して見れば、仮令い文明進歩の方針とは云いながら、直に自分の身に必要がなければ物数寄と云わねばならぬその物数寄な政治論を吐て、図らずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。併し国会論の種は維新の時から蒔てあって、明治の初年にも民選議院云々の説もあり、その後とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々喃々数千言、噛んでくゝめるように言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上て来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合て居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になったかと思えば自分でも可笑しい。シテ見ると先きの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんと云われて、その後も兎角私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは云いながら、間接には自から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為めに利益なればこそ善けれ、是れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免かれても死後閻魔の庁で酷い目に逢う筈でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に就て私の言行は都てコンな塩梅式で、自分の身の私に利害はない所謂診察医の考で、政府の地位を占めて自から政権を振廻わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと計り、夫れが大本願で、自分独り自分の身に叶う丈けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に安んじて平気で居るから、考の違う役人達が私の平生を見たり聞たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に於て私は政府に対して少しも怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何なる憂き目に逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜と思て喜んで居ます。
時事新報ソレから明治十五年に時事新報と云う新聞紙を発起しました。丁度十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て頻りにこの事を勧める。私も亦自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互に敵味方が出来て議論は次第に喧しくなるに違いない。既に前年の政変も孰れが是か非かソレは差置き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\甚だしい事になるであろう。この時に当て必要なるは所謂不偏不党の説であるが、扨その不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれては迚も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中に聊かながら独立の生計を成して多少の文思もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして恰も物外に超然たる者は、呼がましくも自分の外に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、遂に決心して新事業に着手したものが即ち時事新報です。既に決断した上は友人中これを止める者もありしが、一切取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以て、世間の風潮に頓着なしに今日までも首尾能く遣て来たことですが、畢竟私の安心決定とは申しながら、その実は私の朋友には正直有為の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど云う忌な心配は聊かもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎が引受け、その後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎が之に任じ、会計は本山彦一、次で坂田実、今は戸張志智之助等が専ら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目を聞たこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせて置て、曾て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続する訳けでしょう。又編輯の方に就て申せば、私の持論に、執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、如何なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、扨その相手の人に面会したとき自分の良心に愧じて率直に陳べることの叶わぬ事を書て居ながら、遠方から知らぬ風をして恰も逃げて廻わるようなものは、之を名づけて蔭弁慶の筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論と為り、罵言讒謗の毒筆と為る、君子の愧ずべき所なりと常に警しめて居ます。併し私も次第に年をとり、何時までもコンな事に勉強するでもなし、老余は成る丈け閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々加筆する位にして居ます。
事を為すに極端を想像す扨これまで長々と話を続けて、私の一身の事、又私に関係した世の中の事をも語りましたが、私の生涯中に一番骨を折たのは著書飜訳の事業で、是れには中々話が多いが、その次第は本年再版した福澤全集の緒言に記してあれば之を略し、著訳の事を別にして、元来私が家に居り世に処するの法を一括して手短に申せば、都て事の極端を想像して覚悟を定め、マサカの時に狼狽せぬように後悔せぬようにと計り考えて居ます。生きて居る身はいつ何時死ぬかも知れぬから、その死ぬ時に落付て静にしようと云うのは誰も考えて居ましょう。夫れと同様に、例えば私が自身自家の経済に就ては、何としても他人に対して不義理はせぬと心に決定して居るから、危い事を犯すことが出来ない。斯うすれば利益がある、爾うすれば金が出来るなど云ても、危険を犯して失敗したときには必ず狼狽することがあろう、後悔することがあろうと思て、手を出すことが出来ない。金を得て金を使うよりも、金がなければ使わずに居る。按摩按腹をしても餓えて死ぬ気遣いはない、粗衣粗食などに閉口する男でないと力身込んで居るような訳けで、私が経済上に不活溌なのは失敗の極端を恐れて鈍くして居るのですが、その外直接に一身の不義理にならぬ事に就ては必ずしも不活溌でない。トヾの詰り遣傷なっても自身独立の主義に妨げのない限りは颯々と遣ります。例えば慶應義塾を開いて何十年来様々変化は多い。時としては生徒の減ることもあれば増ることもある。唯生徒ばかりでない、会計上からして教員の不足することも度々でしたが、ソンな時にも払は少しも狼狽しない。生徒が散ずれば散ずるまゝにして置け、教員が出て行くなら行くまゝにして留めるな、生徒散じ教員去て塾が空屋になれば、残る者は乃公一人だ、ソコで一人の根気で教えられる丈けの生徒を相手に自分が教授して遣る、ソレも生徒がなければ強いて教授しようとは云わぬ、福澤諭吉は大塾を開て天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない、塾の盛衰に気を揉むような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟を定めて、塾を開たその時から、何時でもこの塾を潰して仕舞うと始終考えて居るから、少しも怖いものはない。平生は塾務を大切にして一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当に私の心事の真面目を申せば、この勉強心配は浮世の戯れ、仮りの相ですから、勉めながらも誠に安気です。近日は又慶應義塾の維持の為めとて、本塾出身の先進輩が頻りに資金を募集して居ます。是れが出来れば斯道の為めに誠に有益な事で、私も大に喜びますが、果して出来るか出来ないか、私は唯静にして見て居ます。又時事新報の事も同様、最初から是非とも永続させねばならぬと誓を立てた訳けでもなし、或は倒れることもあろう、その時に後悔せぬようにと覚悟をして居るから、是れも左までの心配にならぬ。又私の著訳書に他人の序文を求めたことのないのも矢張り同じ趣意であると申すは、人の序文題字などを以て出版書の信用を増すは自から名誉でもあろうが、内実は発売を多くせんとするの計略と云ても宜しい。所が私の考は左様でない。自分の著訳書が世間に流行すれば宜いと固より心の中に願いながらも、又一方から考えて是れが全く売れなくても後悔はしないと、例の極端を覚悟して居るから、実際の役にも立たぬ余計な文字を人に書て貰たことはない。又他人に交わるの法もこの筆法に従い、私は若い時からドチラかと云えば出しゃばる方で、交際の広い癖に、遂ぞ人と喧嘩をしたこともない。親友も甚だ多いが、この交際に就ても矢張り極端説は忘れない。今日までこの通りに仲好く附合はして居るが、先方の人がいつ何時変心せぬと云う請合は六かしい。若し左様なれば交際は罷めなければならぬ。交際を罷めても此方の身に害を加えぬ限りは相手の人を憎むには及ばぬ、唯近づかぬようにする計りだ。コンな事で朋友が一人なくなり二人なくなり次第に淋しくなって、自分独り孤立するようになっても苦しうない、決して後悔しない、自分の節を屈して好かぬ交際は求めずと、少年の時から今に至るまでチャンと説は極めてありながら、扨実際には頓とソンな必要はない。生来六十余年の間に、知る人の数は何千も何万もあるその中で、誰と喧嘩したことも義絶したこともないのが面白い。都て斯う云う塩梅式で、私の流儀は仕事をするにも朋友に交わるにも、最初から棄身になって取て掛り、仮令い失敗しても苦しからずと、浮世の事を軽く視ると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るに左までの困難もなく、安気に今日まで消光して来ました。
身体の養生扨又心の養生法は右の如しとして、身の養生は如何だと申すに、私の身に極めて宜しくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、然かも図抜けの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくても宜いと云う人があるが、私は左様でない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠に能く分る。先年中一樽の価七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、先ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような黒人で、その上等の酒をウンと飲んで、肴も良い肴を沢山喰い、満腹飲食した跡で飯もドッサリ給べて残す所なしと云う、誠に意地の穢ない所謂牛飲馬食とも云うべき男である。尚おその上に、この賤しむべき男が酒に酔て酔狂でもすれば自から警めると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えば唯大きな声をして饒舌るばかり、遂ぞ人の気になるような忌がるような根性の悪いことを云て喧嘩をしたこともなければ、上戸本性真面目になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。是れが却て不幸で、本人は宜い気になって、酒とさえ云えば一番先きに罷出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\も愧かしい事であるが、酒の事を除てその外になれば、私は少年の時から宜い加減な摂生家と云ても宜しい。何も別段に摂生をしようなんてソンな六かしい考のあろうようもないが、日に三度の食事の外にメッタに物を食わない。或は母が給べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。殊に晩食の後、夜になれば如何なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜を更かすとかして、自然に其処に食物が出て来ても食う気にならぬ。是れは母に仕込まれた習慣が生涯残て居るのでしょう。摂生の為めには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早く遣ると云う風で、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように変化して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯と何とやらは武士の嗜なんと云て、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいと思て居たが、何分にも頬張て生噛にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事を知て、始めて是れは却て自分の悪い癖が宜い事になったと合点して大きに悦び、爾来憚る所もなくゆる/\食事をして、凡そ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生の為めに甚だ宜しい。
漸く酒を節すソレカラ又酒の話になって、私が生得酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分自由に飲むことは飲んだが、兎角銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中も少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強の傍ら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むと云うような訳けで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わず能くも飲みました。夫れから三十二、三歳の頃と思う。独り大に発明して、斯う飲んでは迚も寿命を全くすることは叶わぬ、左ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、唯一時の事で永続きが出来ぬ、詰り生涯の根気でそろ/\自から節するの外に道なしと決断したのは、支那人が阿片を罷めるようなもので随分苦しいが、先ず第一に朝酒を廃し、暫くして次ぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張り客来を名にして飲んで居たのを、漸く我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、是れ丈けは如何やら斯うやら首尾能く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、稍や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のとき酷い熱病に罹て、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、是れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の賜に相違ないと云たのを覚えて居るから、私が生涯鯨飲の全盛は凡そ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎と云うよりも年齢老却の所為でしょう。兎に角に人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、遂には唯の清酒は利きが鈍いなんてブランデーだのウスキーだの飲む者があるが、アレは宜くない。苦しかろうが罷めるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、況して今の大酒家と云ても私より以上の者は先ず少ない、高の知れた酒客の葉武者だ、そろ/\遣れば節酒も禁酒も屹と出来ましょう。
身体運動ソレから私の身体運動は如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になると《あかぎれ》が切れて血が出る、スルと木綿糸での切口を縫て熱油を滴らして手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或る時、