31話 福翁自伝 02 福翁自伝(31)
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鄙事多能年少春
立身自笑却壊身
浴余閑坐肌全浄
曾是綿糸縫人
と云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風が悪いから、中村庄兵衛と云う居合の先生に就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節はドタバタ遣て居ました。夫れから江戸に来て世間に攘夷論が盛になってから居合は罷めにして、兼て腕に覚えのある米搗を始めて、折々遣て居た所が、明治三年、大病を煩うて、病後何分にも旧のようにならぬ。その年か翌年か岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之を遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当ることがあろうと云うのは実に朋友の親切なれども、私は却て喜ばぬ。「馬鹿なことを云て呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与が笑て、「知らぬ事を云うな。屹と役に立つことがあるから黙て取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然り、長与の外行留主中、毎度発熱して、夫れキニーネ又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
病に媚びず横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも股引もフラネルで拵え、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身を纏うて居た所が、頓と効能が見えぬ。ドウかすると風を引て悪寒を催して熱が昇る。毎度の事で、凡そ二年余り三年になっても同様であるから、或日私が大に奮発して、是れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、云わば病に媚るようなものだ。此方から媚るから病は段々付揚る。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には固より医命に服することなれども、今日は病後の摂生より外に要はないから、自分で摂生を試みましょう。抑も自分の本は田舎士族で、少年のとき如何なる生活して居たかと云えば、麦飯を喰い唐茄子の味噌汁を啜り、衣服は手織木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑しい。田舎者の身体の方が驚いて仕舞う。即ち今日風を引たり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過る誤であるから、直に前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引も脱ぎ棄てゝ仕舞て、唯の木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時計り、騎馬の服と定めて、不断は純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹通しても構わず家にも居れば外にも出る。唯食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗薪割に身を入れて、少年時代の貧乏世帯と同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の丈けは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に下たこともない。随分調子の宜しいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと旧の通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。扨私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。兎に角に生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないと云うこと丈けは確かに分る。但し肌に寒風の吹通しが有益であるか、又は外の摂生を以て体力が強くなって、実際害に為るべき寒風にも能く抵抗して之に堪うるのであるか、即ち寒風その物は薬に非ず、寒風をも犯して無頓着と云うその全般の生活法が有益であるか、凡そこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレは扨置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、殊に十年間鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文を勉めることにしました。
居合、米搗今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり芝の三光から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合を抜たり米を搗たり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨が降ても雪が降ても年中一日も欠かしたことはない。去年の晩秋戯れに、
一点寒鐘声遠伝
半輪残月影猶鮮
草鞋竹策侵秋暁
歩自三光渡古川
なんて詩を作りましたが、この運動摂生が何時まで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。
行路変化多し回顧すれば六十何年、人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑かな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰込まれて、藩政の楊枝を以て重箱の隅をほじくるその楊枝の先きに掛た少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の教をも打遣て西洋学の門に入り、以前に変た書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考は段々広くなって、旧藩は扨置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。或はその間に艱難辛苦など述立てれば大造のようだが、咽元通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞えば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去た後で昔の貧苦を思出して何が苦しいか、却て面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやら斯うやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思て居た処に、又図らずも王政維新、いよ/\日本国を開て本当の開国となったのは難有い。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時の考には、天下にコンなものを読む人が有るか無いか夫れも分らず、仮令い読んだからとて之を日本の実際に試みるなんて固より思いも寄らぬことで、一口に申せば西洋の小説、夢物語の戯作くらいに自から認めて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段も先きに進んで思切た事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も亦以前の大願成就に安んじて居られない。コリャ面白い、この勢に乗じて更に大に西洋文明の空気を吹込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と、相対して後れを取らぬようになられないものでもないと、茲に第二の誓願を起して、扨身に叶う仕事は三寸の舌、一本の筆より外に何もないから、身体の健康を頼みにして専ら塾務を務め、又筆を弄び、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著訳です。一方には大勢の学生を教育し、又演説などして所思を伝え、又一方には著書飜訳、随分忙しい事でしたが、是れも所謂万分一を勉める気でしょう。所で顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進々歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕われたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも云いようがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アヽ見せて遣りたいと、毎度私は泣きました。実を申せば日清戦争何でもない。唯是れ日本の外交の序開きでこそあれ、ソレほど喜ぶ訳けもないが、その時の情に迫まれば夢中にならずには居られない。凡そコンな訳けで、その原因は何処に在るかと云えば、新日本の文明富強は都て先人遺伝の功徳に由来し、吾々共は丁度都合の宜い時代に生れて祖先の賜を唯貰うたようなものに違いはないが、兎に角に自分の願に掛けて居たその願が、天の恵み、祖先の余徳に由て首尾能く叶うたことなれば、私の為めには第二の大願成就と云わねばならぬ。
人間の慾に際限なし左れば私は自分の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかりであるが、扨人間の慾には際限のないもので、不平を云わすればマダ/\幾らもある。外国交際又は内国の憲法政治などに就て其れ是れと云う議論は政治家の事として差置き、私の生涯の中に出来して見たいと思う所は、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に愧かしくないようにする事と、仏法にても耶蘇教にても孰れにても宜しい、之を引立てゝ多数の民心を和らげるようにする事と、大に金を役じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、凡そこの三ヶ条です。人は老しても無病なる限りは唯安閑としては居られず、私も今の通りに健全なる間は身に叶う丈けの力を尽す積です。
福翁自伝 終