4話 第七場 第七場の註解
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第七場の場面は、音楽と舞踊にて活かす場面である。従ってこの場の芸術的権能も、作曲家と振付家に委ぬべきは勿論の事ではあるが、これ等の芸術によって仕活かすところの宗教的思想――或は宗教的アトモスフィーヤ――に就いて一応作家の意図を述べて、これにたずさわるべき芸術家諸氏の参考に供し、なお俳優諸氏の演技上の便宜にしたく思う。
そのト書きに於て、諸天善神と呪いの魔の眷属の働きを、それは闘争にも見え舞踊にも受け取れると書いた。まことに彼等の働きはこの二面を備えて居るのである。元来、高きよりわれらに臨む「生命」なるものは、三つの眼を持って居る。「平等」の眼と、「差別」の眼と、「融即」の眼である。「平等」の眼で見る時には、魔も善神も闘争も舞踊も、みな一色である。「慈理」の眼の涙を通して視るゆえである。「差別」の眼で視る時には、魔、善神、闘争、舞踊みなことごとく個立して居る。「悲智」の眼の光が明暗付ける分類である。
さて、「融即」の眼を通じて見る。この時、魔も善神も闘争も舞踊も、一色であって而も別個である。別個であって而も一色なのである。「真理」の瞳、朗かに澄明なるの故である。
以上の三眼も更に訊せば、また三眼にして一眼なのである。一眼にして三眼なのである。この意味に於て三眼それ自身が「融即」の眼なのである。
今三眼を一眼に摂し、一眼を三眼に分取した眼によって、宇宙を見る事とする。その時もし宇宙は闘争なりと定義を置いて之を見ようとするならば、ありとあらゆるものみな闘争の現われでないものはない。この点で進化論の生存競争は、ダーウィンの所信以上に是認される。若しまた宇宙を舞踏と観じて瞳を放つならば、サカロフ、イサドラ・ダンカン、アンナ・パヴロワ等のみが名舞踊家とは呼ばれまい。より自然性をもって魚は水に踊り、木の葉は空に舞って居る。更に双者交随の所見を呈し度くば、芝居の「関の扉、下」に人を誘おう。大伴黒主と桜の精の立合いは、闘争であって舞踊であり、舞踊であって闘争である。
大生命の洋々蕩々たる、而もその中に滑転の自在をきわむる巧妙さ、われらが胸計の及ぶ所ではない。僅に聖者のみあって、不入に針を入れ、壁立に足を爪立つ。われらにあってはただ嗟嘆するのみ。ただ幸いに芸術の在るありて感覚と情緒とにより、彼の風韻を覬覦し得る。いうところの三眼は、芸術家にとりては「実感」と「夢」と「表現」である。この場面に運び入れる闘争は闘争本来の持つ恐ろしさと醜さの実感を捨ててはならぬ。この場面に運び入れる舞踊は、舞踊本来の持つ「夢」をあく迄も保ち度い。かくて双者を美によって協調諧和させる。これは偏に芸術家の「表現」の力に俟つ。
或はこの場面だけは歌劇にしても宜いと思う。今は劇を進めるのに心が急く。後に改めてその決意が成就したならば、歌詞を編んで別に添えようと思う。