ある日の蓮月尼

3話 第三景

5,075字 約10分 2021年2月18日 公開

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(同じ庵室。初夜近き刻限。何処とも無く糸車を繰る音、それに交って水車の音。蓮月は白布子に腰衣だけつけ、座敷の方で燈火に対し、明日の竈(かまど)に入れる素焼きの皿や鉢に一生懸命絵を描いて居る。

右手の竹藪を距てて母家の律院がある。障子越しの燈が竹藪にほのかにさして居る。

律院の障子が開いた様子、老僧らしい声だけする。)

老僧 ――蓮月さん、まだ寝なさらんのかい。

蓮月 ――(筆を止めて)律師さまですか。あなたもまだ起きていらっしゃいますか。

老僧 ――いやわしは退屈まぎれに碁の本を見て居るのだが、あんたは日一日働いてその上夜業はしんどうないかな。

蓮月 ――滅相な。有がたくて気が勇んで居ります。今日もお蔭さまで昼は縁を四五十遍も登り下りする程存分働かしてもらいまして、また今夜は皿や鉢が七八つ描けました。こんな晴々したことは御座いません。

老僧 ――まめなお人だ。過ぎんようにしなされよ。

蓮月 ――有難う存じます。

老僧 ――ほい、思い出した。あんた大根の葉がえらい好きなそうやな。

蓮月 ――ほほほほ。わたくしは鶏の生れ代りで御座います。

老僧 ――そしたら今夜、わしとこで大根の葉と揚豆腐(あげどうふ)を煮たからあげようわい。一寸竹藪まで来なされ。

蓮月 ――折角(せっかく)で御座いますから、では頂きましょうか。

(蓮月庭に下り半身を竹藪の中へさしいれ、やがて皿を両手に持って出る。)

老僧 ――どうじゃ、皿は無事か。

蓮月 ――無事で御座います。

老僧 ――藪越のものの遣り取りも稽古が積んでうもうなられた。

蓮月 ――ほほほほほ。

老僧 ――ははははは。

(蓮月、座敷に戻り皿を経机の上へ置き、紙を一枚女らしくかける。)

蓮月 ――まあ、こんなに沢山恐れ入ります。

老僧 ――なんの、まだいるようなら明日もまた上げよう。

蓮月 ――いえ、もう充分で御座います。

老僧 ――あーあ、大分眠うなった。小用を足して来てから――楽寝としょうか。だが蓮月さんや、あんたもあまり夜更しは毒や、程々にしなされよ。

蓮月 ――なるべく気をつけます。

老僧 ――それにも一つ、あんたはいつも戸をあけ放しで寝なさるが、あれも悪いこっちゃ。いくら田舎でも盗っ人は居るからのう。

蓮月 ――盗人がはいりましても、何も持って行くものは御座いません。

老僧 ――そうばかり云うものでもない。鍋一つ失うても、直ぐその日からの不自由じゃからな。

蓮月 ――御深切は頂きます。

老僧 ――どれ、お休み。

蓮月 ――お休みなさいまし。

(老僧欠伸(あくび)を続けながら入る。蓮月再び絵筆をとって仕事にかかる。夜は更けて行く様子。糸繰り車の音も水車の音ももはや聞えず。風に林の鳴る音寂しく、梟(ふくろう)が鳴き出す。蓮月は仕事の三昧(さんまい)に入り、筆を働かすに余念も無い。しばらくして覆面した一人の男庵室に忍び寄る。蓮月の起きて居る姿を見て躊躇(ちゅうちょ)し引返しかけたが、また勇気を取り戻すに努める様子。この態度をくり返すこと五六度。躓(つまず)きて縁の上に音を立てる。蓮月始めて気が附き、絵筆を控え闇を透して見る。)

蓮月 ――(落ち付いた声で)どなたです。

盗人 ――……はい。

蓮月 ――どなたですか。

(盗人決心して懐中より短剣を抜き放ち、蓮月の前にすっくと立つ。)

盗人 ――盗人です。

(蓮月静かに筆をさし措いて盗人に正面する。)

蓮月 ――このあばら屋に何か欲しいものがおありなのですか。

盗人 ――そうたやすく持って行けるものは欲しくないのです。

蓮月 ――妙ですね。この家はご覧のとおり夜も戸閉りは致しません。それと云うのもこの家にあるものはみな入用の方にはいつ何時たりとも差し上げて宜いつもりからです。別にむずかしく隠したりしてあるものはありませんからです。

盗人 ――あなたの御気性として人を悪に陥れたく無い為、夜も戸閉りをせず盗人さえも知人か近所の人のように自由に出入りさして物を与えてやる。そのお心がけはよく分って居ます。わたくしはそれを承知で這入ったのです。然しわたくしはあなたのその慈悲に覆われて、罪なくしてものをもらって行こうという乞食にはならん積りです。飽までも私の力であなたからものを強奪して行く罪人になります。

蓮月 ――不思議なお望みではありませんか。何か殊更のわけがおありなのでしょう。ですが、そうまあ立ちはだかってお居ででは草臥(くたび)れもしましょう。相手はたかが女一人の事です。安心して手足を休め、ゆっくりお話なさっては如何なものです。

盗人 ――わたくしはあなたのその情深いお言葉に憎しみを持つようになったものです。もう何も云わないで下さい。わたくしは仕事を急ぎます。

蓮月 ――ではもう何も申しますまい。そしてそのむずかしいお望みものとやらは何なので御座います。

(盗人の短剣の先が少し慄う。それから決然たる声音にて。)

盗人 ――他のものでもありません。あなたの身体が頂戴いたしたいのです。

(蓮月盗人の顔をつくづく見る。盗人、その眼ざしを避けるように覆面の顔を他方に振り向ける。)

蓮月 ――あなたは今朝の青年の方ではありませんか、あの短冊を交換して頂いた……

(盗人、其処へべったり坐り、しばらく息を切って居る。やがて顔を振り上げる。)

無名の青年 ――そうです。あのわたくしです。わたくしは悪魔になりました。

蓮月 ――お気の毒な事になりました。何があなたをそうさせたのでしょう。

無名の青年 ――あなたの純粋がこうさせたのです。

蓮月 ――わたくしはそうおさせした覚えはありません。

無名の青年 ――あなたに覚えが無くともわたくしの心にこの結果が来たのです。わたくしは今朝あなたのお言葉を聞いて、現世の愛の果敢(はか)ない事も本当の愛の世界の不壊な事ものみ込めました。そしてそれを彼方に望んでゆかれるあなたのお心が、水晶のように光って透明なものに感ぜられるようになりました。わたくしはあれから宿へ帰りあなたが交換して下さった短冊の歌を繰返し繰返し読んで、わたくしの心の一部はあなた同様純潔な寂光の世界が望まれるような気がいたしました。然し心の一部はいよいよ恋に燃えて押え切る事が出来ないのです。なお困った事には今朝のお言葉を聞く迄は、わたくしの全部が統一してまっしぐらにあなたを恋して居たのに較べて、あのお言葉を聞いた後はわたくしの心の半分は熱し、半分は静かに湛えてじろじろわたくしを眺めるのです。冷笑癖のある友人と連れ立った情熱家。これがあの以後六時間の間のわたくしの恋ごころです。焦立(いらだ)たされずには居られません。それに今迄わたくしが望んで居たあなたは、ただ純で美しい女のあなたであったものが今朝あのお言葉を伺った後はあなたが気体のような超人間的なものに見做(みな)されて仕舞って、あなたの存在は破滅のない確さにはなったが、手にも取られず感情にも引きかかって来ない、わたくしにとってまことに仕末の悪いものになりました。焦だたしさに、あれから今までたった僅(わずか)の時間の間に、私の心は経廻り得られるだけのあらゆる境地を探し廻ったということが出来ます。そのあげくにわたくしの心が生甲斐のある途を見出しました。この盗人になることでした。他のものには目もくれません。あなたの肉体を盗み取ろうとする盗人です。

(蓮月しばらく目を伏せて考えて居る。無名の青年は置いた短剣を取り上げて立上ろうとする。蓮月がとめる。)

蓮月 ――まあお待ちなさい。次第によっては盗まれて差上げないものでもありません。が、まだわたくしには腑に落ちないところがあります。それをもうすこし詳しく話して下さい。

(無名の青年止むを得ず再び坐る。)

蓮月 ――あなたはどうしてその半分冷静に半分情熱が残って居る焦立たしい心境から悪の途へ門出されたのです。わたくしの肉体を盗むのがどういうわけでその二つに分れた心境から生れた結果となったのです。

無名の青年 ――(吐息をついて)あなたのように既に人間性の浄化に成功なさった方には、こういう人間性の劣悪な皮肉はもうお分りになりますまい。だが人間がある激烈な心の衝動をうけてその心が四分五裂の苦に苛(さいな)まれるとき、これを逃れるには自暴自棄の態度が一番宜いのです。それよりもなお深い絶望に遇っては自己反虐ということがやっと残って居る勇気を喚び起すのです――(しばらく瞑目した後独白のように)青年よ、お前はお前の心のなかで、善良なものが真心の一撃に遇ってうろうろ戸惑うのを見た。そして蹴倒してでもやり度いくらいにそれを不甲斐ないものに思った。然しお前の心はもう善良なものを見くびって仕舞った。だからお前はもう善良なものでは生きる力を得られなくなった。お前は一度心のなかでは自殺した。而も死に切れないで藻掻(もが)きのたうち廻った後、自分の人間性の中から埋火(うずみび)を掘り起すように、ようやく見付け出して来たのが悪の力だ。お前は最初は慄えた。然しその力はいう。わしを使って見給(みたま)え。案外人間を真剣にするものだから。お前は遂に彼に従うことにした――お前が精神的に死に切れなかったのはまだ恋の熱情があったからだね。その熱情は今迄善良と思う純真な心によって導かれて居る。だが今度は悪の力でそれが後押しされるのだ。およそ人間が悪の力で後押しされる恋の情熱の嚮(むか)う途は大概極まって居る。肉体だ! 奪略だ! 蹂躙(じゅうりん)だ! 何という悲痛な真剣な獣の道だろう。わたしの前には青い火と赤い火が燃えて居る。わたしは素肌でその真ただ中へ飛び込むのだ。ただそれだけだ。

(青年の血相が変り鬼畜の形になって蓮月に飛びかかる。蓮月静かにふりほどき、利き手をとって青年を座に据え伏せる。)

無名の青年 ――獣だ! 獣だ! 獣だ! (うめくようにいう。)

蓮月 ――それで様子がすっかり判りました。お気の毒に存じます。わたくしとても女の身です。それほどまでに思いつめなされたあなたのお心を、何で粗略に思いましょう。何はともあれ先ず気をお静めなさって下さい。

(青年をいたわり背を撫で茶椀に水を汲んで来て与えなどする。青年落ち付く。蓮月の変った態度に、少し恥かしそうにうつ向いてかしこまる。)

蓮月 ――この上はわたくしも俗の女の身に還ってあなたのお志に向いましょう。その上で本当にあなたのお志が受けられますかどうかが極まります。ですからあなたも悪の獣のなどと無理な事を仰しゃらずに、以前の素直な青年におかえりなさいまし。

無名の青年 ――それは本当ですか。

蓮月 ――何で偽を云いましょう。しかし、この法服姿で恋の問答は流石(さすが)仏に対して恐れ多う御座います。只今脱ぎ換えて参りますからしばらくお待ち下さい。

無名の青年 ――ありがとう御座います。まるで夢のようです。

(蓮月、屏風を立て廻し着物を脱ぎ換える。その間青年は居ずまいを直し襟(えり)を掻き合せたり髷(まげ)の形を直したりする。蓮月出で来る。あでやかな娘姿。青年吃驚(びっくり)する。呆れて見惚れる。)

蓮月 ――これがわたくしにただ一枚残って居る娘時代の着物です。

無名の青年 ――娘だ! 娘だ!

蓮月 ――これを着たので、すっかり女らしい気持に還りました。

無名の青年 ――僕は嬉しくって堪まりません。もうこんな陰気な庵なんか捨てて、早く京の賑(にぎや)かな処へ行って二人で暮すことにしましょう。

(青年、蓮月の手を執る。)

蓮月 ――一寸待って下さい。たった一つ仕残した仕事がありますから。

(蓮月は半身を捻じ袂の中から何か取り出し口にくわえる。異様な音がする。蓮月、あっと云って俯伏す。)

無名の青年 ――どうしたのです! どこか悪くしたのですか。蓮月さん! 蓮月さん!

(青年、蓮月を抱き起し顔に手を添え振上げる。蓮月の口から血がしたたか垂れて居る。)

無名の青年 ――や!

(青年、蓮月の手に持てるものに気付きて捩(も)ぎ取る。)

無名の青年 ――秤(はかり)の分銅を噛んだのだ! 歯が折れている!

蓮月 ――ほほほほほ。(苦痛を忍んだ意地笑い。)

無名の青年 ――何故こんなことをしたのです。

蓮月 ――(屹度(きっと)座り直し然し、息は切れ切れに)わたしは女に還りました。女に還った以上は女の意地というものがあります。脅かしや腕力で操(みさお)を奪おうなどという男に素直にこの体は渡せません。奪うなら奪って御覧なさい。私は奪われる前に屹度自分の体を奪う価値のないものにしてお目にかけますから。――あなたはこんな歯欠けの醜婦をも京へ連れて行こうとなさいますか。――若しまだこれで足らねばわたくしは鼻なと耳なと削いで、あなたに愛相をつかさせて見せます。

(蓮月、短剣を拾い取り身構える。)

無名の青年 ――止めて下さい。あやまります。あやまります!

(青年ひれ伏す。)

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