47話 其十 二
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富江が來ると、家中が急に賑かになつて、高い笑聲が立つ。暑さ盛りをうつら/\と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で靜子に髮を結はしてる樣子。その縁側の邊から、富江の聲が霎時聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てゝ、縁側傳ひに足音が此方へ來る。
信吾も晝寢から覺めた許り、不快な夢でも見た後の樣に、妙に燻んだ顏をして胡座を掻いてゐた。富江の聲や足音は先刻から耳についてゐる。が、心は智惠子の事を考へてゐた。
或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智惠子を訪ねた。二人の話はもう以前の樣に逸まなくなつた。吉野が來てからの智惠子は、何處となく變つた點が見える。さればと言つて別に自分を厭ふ樣な樣子も見せぬ。
かの新坊の溺死を救けた以來、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智惠子を訪ねることも、信吾は直ぐに感附いたゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出來た。信吾は苛々して不快な感情に支配されてゐる。
いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智惠子を思つてるのでもないのだ。高が田舍の女教員だ! といふ輕侮が常に頭にある。確乎した女だとも思ふ。確固した、そして美しい女だけに、信吾は智惠子をして他の男――吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智惠子に思はれる權利でもある樣に感じてゐる。「吉野を歸して了ふ工夫はないだらうか!」恁考へまでも時として信吾を惱ました。
そして又、靜子の吉野に對する素振も、信吾の目に快くはなかつた。總じて年頃の兄が年頃の妹の男に親しまうとするのを見るのは、樂しいものではない。平生戀といふものに自由な信條を抱いてる男でも、其場合には屹度自分の心の矛盾を發見する。
『戸籍上は兎も角、靜子はもう未亡人ぢやないか!』
信吾の頭には恁皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが靜子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える――。
『まア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。
『貴女でしたか!』
『オヤ、別の人を待つてゐたの?』
『ハッハハ。不相變不減口を吐く! 暑いところを能くやつて來ましたね。』
『貴方が晝寢してるだらうから、起して上げようと思つて。』
『屹度神山さんが來ると思つたから、恁うしてチャンと起きて待つてたんですよ。』
『其事誰方から習つて? ホホヽヽまア何といふ呆然した顏! お顏を洗つて被來いな。』と言ひ乍ら、遠慮なく坐つた。
『敵はない、敵はない。それぢや早速仰せに從つて洗つて來るかな。』
『然うなさいな。もう日が暮れますから。』と言つて、無雜作に其處に落ちてゐる小形の本を取る。
立ち上つた信吾は、『ア、其奴ア可けない。』と、それを取返さうとする。
娘らしい態をして、富江は素早く其手を避けた。『何ですの、これ? 小説?』
黄ろい本の表紙には、“True Love”と書かれた。文科の學生などの間に流行つてゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書だ。
『ハッハハ。』と信吾は手を引込ませて、『まア小説みたいなもんでサ。』
『みたいなナンテ……確乎教へたつて好いぢやありませんか? 私は讀めるんぢやなし……。』
『それが讀めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ/\笑つてゐる。
『日向樣の眞似をして私も英語をやりませうか?』と言つて、富江は皮肉に笑つてる眼で男を仰いだ。
そして直ぐ何か思出した樣に聲を落して、『然う/\信吾さん、面白い話がありますよ。』
『甚?』
『まアお顏を洗つてらつしやいな。』