48話 其十 三
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顏を洗つて來た信吾は、氣も爽々した樣で、ニヤ/\笑ひながら座についた。
『あら、貴方のお髭は洗つても落ちませんね。』
『冗談ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』
『詰らない事ですよ。』
『其に自重せなくても可いぢやないですか?』
『其に聞きたいんですか?』
『貴女が言ひ出して置いた癖に。』
『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』
『聞いて上げませう。』
『あのね……』と、富江は探る樣な目附をして、笑ひ乍ら眞正面に信吾を見てゐる。
信吾は、其話が屹度智惠子の事だと察してゐる。で、恁う此女に顏を見られると、擽られる樣な、かつがれてる樣な氣がして、妙に紛らかす機會がなくなつた。
『何です?』と、少し苛々した調子で言つた。
『ホホヽヽ。』と富江は又笑つた。『或る人がね。』
『或る人ツて誰?』
『まア。』
『可し/\。その或る人が怎うしたんです?』
『あの方をね。』と離室の方を頤で指す。
『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。
『ホホヽヽ。』
『吉野を怎うしたんです?』
『……ですとサ。ホホヽヽ。』
『豈夫? 神山樣の口にや戸が閉てられない。』と言つて、何を思つてか膝を搖つて大きく笑つた。
目的が外れたといふ樣に、富江は急に眞面目な顏をして、『眞箇ですよ。』
『豈夫? 誰が其事言つたんですか?』
『矢張り聞きたいんでせう?』
『聞きたいこともないが……然し其奴ア珍聞だ。』
『珍聞?』と、また勝誇つた眼附をして、『貴方も餘程頓馬ね!』
『怎うして?』
『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。
『それより神山さん、誰が其事言つたんですか?』
『確かな所から。』
『然し面白いなア。ハッハハ。眞箇だつたら實に面白い。可し/\、一つ吉野に揶揄つてやらう。』と一人態と面白さうに言ふ。
『其に面白くつて?』
『面白いさ。宛然小説だ!』
『然うね。この話は誰より一番信吾さんに面白いの。ね、然うでせう?』
『それはまた、怎うした譯です?』
『ね、然うでせう? 然うでせう?』
と、男を壓迫る樣に言つて探る樣な眼を異樣に輝かした。そして、彈機でも外れた樣に
『ホホヽヽ。』と笑つた。
『ハハヽヽ。』と、信吾も爲方なしに笑つて、『實に詭辯家だな神山さんは!』
『詭辯家? 怎うせ然うよ。今の話も私が拵へたんだから!』
『否、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』
其顏を嘲る樣に眤と見て、『矢張り氣に懸るわね、信吾さん!』
『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の頭を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』
『行きませう。』
信吾はつと立つて縁側に出ると、『吉野君』と大きく呼んだ。
『何だ?』と落着いた返事。
『晝寢してたんぢやないのか! 今神山さんが來たが、其方へ行つても可いか?』
『來たまへ。』
『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へることでも出來た樣な顏をして、默つてその後に跟いた。縁側傳ひ、蔭つた庭の植込に蜩が鳴き出した。