鳥影

48話 其十 三

1,234字 約2分 2007年2月25日 公開

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 顏を洗つて來た信吾は、氣も爽々(さつぱり)した樣で、ニヤ/\笑ひながら座についた。

『あら、貴方のお髭は洗つても落ちませんね。』

『冗談ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』

『詰らない事ですよ。』

(そんな)自重(もた)せなくても可いぢやないですか?』

(そんな)に聞きたいんですか?』

貴女(あなた)が言ひ出して置いた癖に。』

『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』

『聞いて上げませう。』

『あのね……』と、富江は探る樣な目附をして、笑ひ乍ら眞正面に信吾を見てゐる。

 信吾は、其話が屹度智惠子の事だと察してゐる。で、()う此女に顏を見られると、擽られる樣な、かつがれてる樣な氣がして、妙に紛らかす機會がなくなつた。

『何です?』と、少し苛々(いら/\)した調子で言つた。

『ホホヽヽ。』と富江は又笑つた。『或る人がね。』

『或る人ツて誰?』

『まア。』

()し/\。その或る人が()うしたんです?』

『あの方をね。』と離室(はなれ)の方を頤で指す。

『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。

『ホホヽヽ。』

『吉野を()うしたんです?』

『……ですとサ。ホホヽヽ。』

豈夫(まさか)? 神山(さん)の口にや戸が()てられない。』と言つて、何を思つてか膝を搖つて大きく笑つた。

 目的(あて)が外れたといふ樣に、富江は急に眞面目な顏をして、『眞箇(ほんとう)ですよ。』

『豈夫? 誰が其事言つたんですか?』

『矢張り聞きたいんでせう?』

『聞きたいこともないが……然し其奴ア珍聞だ。』

『珍聞?』と、また勝誇つた眼附をして、『貴方も餘程頓馬ね!』

()うして?』

『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。

『それより神山さん、誰が(そんな)事言つたんですか?』

『確かな所から。』

『然し面白いなア。ハッハハ。眞箇(ほんと)だつたら實に面白い。可し/\、一つ吉野に揶揄(からか)つてやらう。』と一人(わざ)と面白さうに言ふ。

(そんな)に面白くつて?』

『面白いさ。宛然(まるで)小説だ!』

()うね。この話は誰より一番信吾さんに面白いの。ね、()うでせう?』

『それはまた、()うした譯です?』

『ね、()うでせう? 然うでせう?』

と、男を壓迫(おしつけ)る樣に言つて探る樣な眼を異樣に輝かした。そして、彈機(ばね)でも外れた樣に

『ホホヽヽ。』と笑つた。

『ハハヽヽ。』と、信吾も爲方なしに笑つて、『實に詭辯家だな神山さんは!』

『詭辯家? ()うせ()うよ。今の話も私が拵へたんだから!』

(いや)、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』

 其顏を嘲る樣に(ぢつ)と見て、『矢張り氣に懸るわね、信吾さん!』

『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の頭を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』

『行きませう。』

 信吾はつと立つて縁側に出ると、『吉野君』と大きく呼んだ。

『何だ?』と落着いた返事。

『晝寢してたんぢやないのか! 今神山さんが來たが、其方へ行つても()いか?』

『來たまへ。』

『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へることでも出來た樣な顏をして、默つてその後に跟いた。縁側傳ひ、蔭つた庭の植込に(ひぐらし)が鳴き出した。

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