49話 其十 四
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今年の春の巴里のサロンの畫譜を披いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。
一通りの挨拶が濟むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩畫を見る。信吾はゴロリと横になつて、その畫のことを吉野と語る。
『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ被行つて?』
『行つた。山内へ見舞に。』
『奈何でしたの、御病氣は?』と笑つてゐる。
『それや可哀想ですよ。臥たり起きたりだが、今年中に死ぬかも知れないなんて言つてるもの。』
『其に惡いかねえ。それや可哀想だ。何しろあの體だからなア。』と、信吾は別に同情した風もなく言ふ。
『盛岡に歸るさうだ。四五日中に。』
『昌作さん。』と富江は又呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顏を見して、
『好い物上げませうか、貴方に?』
『何です?』
『好い物なら僕も貰ひたいな。』
『信吾さんにはいや。ねえ昌作樣、上げませうか?』
『何だらうな!』と昌作は躊躇する。
『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』
と吉野は淡白に笑ふ。
『ねえ昌作さん、誰方にも見せちや可けませんよ。』
『可し、志郎と二人で見る。』
『否、貴方一人で見なくちや可けないの。』と言ひながら、富江は何やら袂から出して掌に忍ばせて昌作に渡す。
昌作は極り惡るさうにそれを受けた。そして、『可し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』と聲高に母屋の方へ行く。
『あら可けませんよ。人に見せちや。』と富江は其後ろから叫んで、そして、面白さうにホホホヽと笑つた。
二人は好奇心に囚はれた。『何です、何です?』と信吾が言ふ。
『何でもありませんよ。』と、濟し返つて、吉野の顏をちらと見た。
『怪しいねえ、吉野君。』
『ハツヽヽ。』
『豈夫! 信吾さんたら眞箇に人が惡い。』と何故か富江は少し愼しくしてゐる。
其處へ、色のいゝ甜瓜を盛つた大きい皿を持つて、靜子が入つて來た。『餘り甘味しくないんですけど……。』
『何だ? 甜瓜か! 赤痢になるぞ。』と信吾が言つた。
『マ兄樣は!』と言つて、『眞箇でせうか神山樣、赤痢が出たつてのは?』
『眞箇には眞箇でせうよ。隔離所は三人とか收容したつてますから。ですけれど大丈夫ですわねえ、餘程離れた處ですもの。』
『ハヽヽヽ。神山さんが大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が最先に一片摘む。
軈て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて來た。
『やあ志郎さん、今まで晝寢ですか?』と吉野が手巾に手を拭き乍ら言つた。
『否、僕は晝寢なんかしない。高畑へ行つて號令演習をやつて來て、今水を浴つたところです。』
『驚いた喃。君は實に元氣だ!』
昌作は何か亢奮してる態で、肩を聳かして胡座をかいた。
『何だい彼物は、昌作さん?』と信吾が訊く。
『莫迦だ喃!』と昌作は呟く樣に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』
富江は笑ひながら、『あら可けませんよ、此處で喋つては。』
『僕も見た。』と志郎は口を入れた。『オイ昌作さん、皆に報告しようか?』
『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆かす。昌作は默つて腕組をする。
『言はう。』と志郎は快活に言つて、『あれは肺病で將に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』
『まア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。
『艶書?』と、皆は一度に驚いた。
『それが怎うしたの、志郎さん!』と靜子が訊く。
呆れてゐる信吾の顏を富江は烈しい目で凝視めてゐた。