人間生活の矛盾

4話

2,780字 約6分 2015年11月22日 公開

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 原始時代における人間の生活状態は、今日から調べてもなかなか確かなことは解らぬが、まず下等の野蛮人やある猿類に見るごとくに数多くの小さな団体を造り、団体と団体とが絶えず争いながら生活していると仮定する。もっとも絶えず争いというても争わぬ時が一刻もなかったものという意味ではない。ちょうど、日本には絶えず地震があるというても実際に揺りつづけてはいないのと同じに、烈しい戦いは恐らく何年目に一回かあった位であろう。しかし、その時にはずいぶん争いが激烈でとくに飢饉でもあれば負けた方は皆食われてしもうたかも知れぬ。長い年月の間にかようなことが何回となく繰り返され、毎回勝った団体が生き残り敗けた団体が死に亡びたとすると、自然淘汰の結果として、勝った団体をして勝たしめた性質が次第に発達したに違いない。個体と個体との戦いには優った方の個体が勝ち、団体と団体との戦いには優った方の団体が勝つは当然であるが、いかなる団体が優って勝つかと尋ねると、もしも他の条件がことごとく対等である場合には、相手の団体に比べて少しでも、よりよく協力一致の実を挙げ得たものの方が勝つに定まっている。しかして協力一致の実を挙げるには自身のことは捨ておいて、まず団体のために働かずには居られぬという本能が、生れながらに各個人に備わってあることが必要である。この本能を社会本能と名づける。人間のすることは、意志によって、するかせぬかを決し、智力によってその方法を工夫するように見えるものが多いから、団体内の協力一致のごときもただ決心一つで行なわれ得ると思う人があるかも知れぬが、それはけっして実行のできるものでない。人間のすることを総括して考えてみると、意志はただ本能の許す範囲内においてのみ自由で、その以外には出で得ない。智力の方も、それと同じく途中の理窟は何とこじ付けても結論だけは初めから本能によってきまっている。畢竟智力なるものは無意識的に本能の命令を受け、意識的にその方法を研究するもので、結局、本能の実行機関に過ぎぬ。団体的精神というと、何となく、当人の意識している部分が大いに加わっているように聞えるが、自然淘汰によって、発達するのは、ただ基礎となる社会本能だけであって、けっして外に現われた意識的の精神ではない。さて社会本能が次第に進歩して終に完全の域に達すると、その団体はいかなる状態になるかというに、それは今日の蟻や蜂の社会に見るごとくに、各自はまったく社会奉仕の念に満たされ、そのなすことはことごとく社会にとって有利なことばかりである。誰も彼もがただ社会の利益をはかり皆同一の目的を狙うて行動すれば、その間に矛盾の起るべき理由は少しもない。

 蟻や蜂の社会では社会本能だけが発達すれば、それで、完全な社会生活を営むことができるが、人間の蕃社では相手の蕃社と競争するにあたってなお一つ必要なことがある。蟻や蜂が習うことも覚えることもなしに誰も生れながらに、一疋だけの仕事ができるのと違い、人間は幼いときには力も弱く知慧も足らず、とうてい一人前の働きはできぬのが、成長するにしたがい、他人の真似をして経験の積るとともに力も強く利巧にもなり、初めて完成した戦闘員の資格を備えるに至るのである。そのうえ、生れ付きによって、武勇抜群のものもできれば、一生陣笠で終るものもあろう。かように戦闘力のさまざまに違うものが大勢集まって敵なる蕃社と戦う場合には、たとい、社会本能が発達してめいめいは自分の蕃社のために討死する覚悟であっても、一人一人が随意の行動を取っては、全体としての統一が保てず、したがって能率が上がらぬは明らかである。かような場合に、全体の統一をはかり、各員の力をできるだけ有効に用いしめるには、蕃社中のもっとも力が強く、もっとも知慧があり、もっとも経験に富んでもっとも戦争に巧みな一人を大将と仰ぎ、皆の者がその指図に従うのが一番得策である。仮に、ここに二つの蕃社があって、一方の蕃社では、めいめいが随意の行動をとり、他の蕃社では一人の大将があって残りの者はことごとくその指図に従うて進退するとしたならば、戦争していずれが勝つかはいわずとも知れている。少しく蕃社が大きくなると一人の大将では全部を直接に指図することができぬから、部下の中からもっとも適任と認める者を数名選び出して、これに補佐の役を命じ、蕃社がさらに大きくなると、大将の補佐だけでは手が足らぬゆえ、さらに補佐の補佐を任命し、かくして命令を下す側にも若干の階級ができるが、かように蕃社内の制度がやや複雑になっても各自がおのれの目上の者に服従していさえすれば、蕃社はりっぱに統一せられ、戦争の場合にはもっとも有効に戦うことができる。しかしてこのことが行なわれるには、各自が生れながらに目上の者には服従せずにはいられぬという本能を備えていることが必要である。この本能を階級本能と名づける。蕃社と蕃社とが相戦うていたような時代が長くつづき、その間に、階級本能の少しでも多く発達した蕃社がいつも勝って栄えたとすれば、自然淘汰の結果として、この本能は次第に進歩し、初めは模倣、次には服従、終りには崇拝として現われるに至ったであろう。

 前に社会本能についても述べたとおり、人間の意志は本能の許す範囲内においてのみ自由で、当人はいかに自分の勝手に考えたり行なうたりしているつもりでも、やはり無意識に本能の命令には服従している。それゆえ、階級本能の発達した社会では、哲学でも道徳でも、宗教でも教育でも目上の者に服従することを人生における最上の善とみなし、目上の者を極度に崇拝して、その者にほめられるのを何よりも名誉、その者に叱られるのを何よりの恥辱と考える。目上の者からほめたしるしの物を貰えば有難くて堪らずつねにこれを帯びて人に誇り、貰えなかった連中は、これを見て非常に羨しがる。幾人か集まればいつも話の題は階級のことにきまっている。階級本能が発達すると、人間の頭は生れながらに、全く階級の観念に司配せられ、目上の者には服従せずにはいられず、子は親に服従し妻は夫に服従し、幼者は老人を敬い、弟子は師匠の影を踏まぬ。団体間の競争の結果として社会本能が発達すれば各人は一点の私心をも挾まず、ことごとく、蕃社全体の利益のためのみに行動し、またそれと同時に階級本能が発達すれば、蕃社内の上下の区別が判然と定り、下は上を敬うて忠勤をつくすから、その間になんら矛盾の起るべき道理がない。その当時の蕃人らは何とも思わずに暮していたであろうが、後の世から振り返って見ると、実に黄金時代ともいうべき状態であった。もしも団体間の自然淘汰がいつまでもつづいたならば、さらに完全な黄金時代に到着したでもあろうが、人間の団体は、そのようにはならなかった。

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