人間生活の矛盾

5話

2,254字 約5分 2015年11月22日 公開

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 人間がすべての動物に打ち勝ったのは脳と手との働きによって道具を作り用いたからであるが、人間同士が相戦うにあたっても無論道具を用いた。他の条件がことごとく同じである場合には少しでも精巧な道具を用いる団体の方が勝つ見込が多いわけであるゆえ、長い間には道具はますます精巧なものとならざるを得なかったが、道具が精巧になるにつれて、人間の団体と他の動物の団体との間に、大いに趣きを異にする点が生じた。それは人間の団体だけは他の動物の団体と違いどこまでも大きくなり得たことである。およそ動物の団体には種々の理由のために大きさは一定の際限があって、それを超えて、大きくはなり得ない。蜜蜂の団体が大きくなるとすぐに分封を始めて、いくつにも分れるのは、その例である。人間も原始時代にはあまり大きくなることができず、いつまでも、小さいままに止まっている。野蛮人の蕃社が大きくならぬのは、あまり大きくなり過ぎると、全体としてまとまりがつかず進退に統一を欠き、かえって不利益なことが起るからであろう。しかして、その際、統一の保てぬ主な原因は、通信と運輸との不便である。しかるに道具が次第に進歩し、精巧な器機が発明せられ、終には電信や電話で命令を伝え、汽車や自動車で兵粮を運ぶようになると、いくら団体が大きくなっても、統一にはなはだしい困難を感じない。ところで、昔から衆寡敵せずという文句のとおり、他の条件がすべて同じであるとすれば、一人でも人数の多い方が強くて勝つにきまっているゆえ、団体は、次第に大きくなり、通信や運輸の便が開けるとともに、その大きさが増して、終に今日の文明国に見るごとき、数千万人または数億人を数うるほどの大団体となった。

 さて団体がある程度以上に大きくなると、団体間に争いが絶えずあったとしても、その勝負は団体が小さかったときのごとくに徹底的ではあり得なくなり、たとえ負けても、ただ一部分の者が命を落すだけで、大多数の者は平気で生存しつづける。勝った者も敗けた者も同様に生存しては、自然淘汰は行なわれぬが、自然淘汰が止めば、その時まで、自然淘汰によって養われ来った性質が退化し始めるのが、生物界に通じた自然の法則である。人間も団体の大きさが、ある程度を超してからは、団体間の自然淘汰が行なわれなくなり、その時まで、自然淘汰のために発達し来った社会本能や階級本能は、その時から退化し始め、その後は次第に退化の度を増して、終に今日までに達したのである。以上述べたとおりであるから社会本能や階級本能の発達の程度を標準として測ると、人間の過去の歴史は、初めは上り坂で後には下り坂になり、その中間にはいくぶんか、やや平らな所があって、全体の形はほぼパラボラに似ていたろうと思われる。今日の人間は遺伝によって、上り坂時代の性質をなお相応に備えて居りながらも、下り坂時代の新しい性質を重ね備えているゆえ、同一人が考えること、なすことの中にも、互いに矛盾する分子が含まれてあるを免れぬ。また、初め発達した本能が後に退化する程度は、変異性によって、一人一人に違うから、これらの人々がめいめいに考えること、なすことの間にははなはだしい矛盾が生ずるのは当然である。上り坂の頃には社会本能や階級本能が発達したために、人間の考えることも、行なうこともすべて、それに基づいていたが、下り坂になってからは、これらの本能が退化して、その反対の自己を中心とする本能や、自分の頭の上に他人を戴くことを潔しとせぬ本能が芽を出し、そのために、人間の物の考え方がいちじるしく変って来た。ただし、誰もの考えが歩調を揃えて変化して行くわけではなく、方向だけは同じであっても遅速には非常な相違があって、今日でもなお、階級本能を多量に備えている人もあれば、これを大分失うた人もある。これらの人々がめいめい勝手に物を考えれば、その考え方が大いに相違するのはもとより当然であって、そのため、ここにもかしこにも意見の衝突が起る。現代の人間生活に現われている矛盾は皆かくのごとき理由で生じたものである。かように素性が分ってみると、毎日の新聞に出て来る無数の紛擾も、その基づくところが明瞭になり、いずれもけっして偶然に発したものではなく、避けようとしても避けることができぬ生物学上の深い根底のあることが知れる。今日の社会の組織は社会本能や階級本能が未だ退化しなかった頃にできたもののそのままの引きつづきであるから、これらの本能があまり退化していない人間がその中に住めばあたかも魚が水の中に住むごとくに、少しの無理をも感ぜぬであろうが、社会本能が退化すれば、上に位する者はかならずその地位を悪用して下の者を圧制し始め、階級本能が退化すれば、下にある者はかならず上の者を戴くことを嫌うてこれに反抗し始める。今日到る所に見られる新旧思想の衝突とはすなわちこれである。社会本能の退化に基づく損失は、全団体が一様にこれをこうむるゆえ、誰もとくにかれこれとはいわぬが、階級本能の退化によって直接に損失をこうむるものは、無論上に位する者だけであるゆえ、これらは極力、旧制度の維持を計り、その城廓に立て籠って、下の者の侵略を防ぎ止めようとする。どこの国でも、現に権力を握っている者は旧思想を尊重し、圧迫を受けて苦しんでいる階級の者は新思想を歓迎し、往々極端なことを考えたり、実行したりする者が出て来るが、これは階級本能がすでに余程まで退化してからでなければ夢にも思いつかぬことである。

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