高野聖

24話 二十四

1,290字 約3分 1999年1月30日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「翌日また正午頃(ひるごろ)、里近く、滝のある処で、昨日(きのう)馬を売りに行った親仁(おやじ)の帰りに()うた。

 ちょうど(わし)が修行に出るのを()して孤家(ひとつや)に引返して、婦人(おんな)一所(いっしょ)生涯(しょうがい)を送ろうと思っていたところで。

 実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も(さいわい)になし、(ひる)の林もなかったが、道が難渋(なんじゅう)なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更(いまさら)行脚(あんぎゃ)もつまらない。(むらさき)袈裟(けさ)をかけて、七堂伽藍(しちどうがらん)に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様(いきぼとけさま)じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。

 ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜(ゆうべ)白痴(ばか)()かしつけると、婦人(おんな)がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この(ながれ)に一所に(わたし)(そば)においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が()したようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳(いいわけ)が出来るというのは、しきりに婦人(おんな)不便(ふびん)でならぬ、深山(みやま)孤家(ひとつや)白痴(ばか)(とぎ)をして言葉も通ぜず、日を()るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!

 (こと)今朝(けさ)東雲(しののめ)(たもと)を振り切って別れようとすると、お名残惜(なごりお)しや、かような処にこうやって老朽(おいく)ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃(しろもも)の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって(しお)れながら、なお深切(しんせつ)に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が(おど)って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家(ひとつや)の見えなくなった(あたり)で、(ゆびさ)しをしてくれた。

 その手と手を取交(とりかわ)すには及ばずとも、(そば)につき()って、朝夕の話対手(はなしあいて)(きのこ)の汁でご(ぜん)を食べたり、(わし)(ほだ)()いて、婦人(おんな)(なべ)をかけて、(わし)()()を拾って、婦人(おんな)が皮を()いて、それから障子(しょうじ)の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人(おんな)裸体(はだか)になって(わし)が背中へ呼吸(いき)(かよ)って、微妙(びみょう)(かおり)の花びらに(あたたか)に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!

 滝の水を見るにつけても()(がた)いのはその事であった、いや、冷汗(ひやあせ)が流れますて。

 その上、もう気がたるみ、(すじ)(ゆる)んで、()歩行(ある)くのに()きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の(くさ)(ばあ)さんに渋茶を振舞(ふるま)われるのが関の山と、里へ入るのも(いや)になったから、石の上へ(ひざ)()けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、(のち)に聞くと女夫滝(めおとだき)と言うそうで。

 真中にまず鰐鮫(わにざめ)が口をあいたような先のとがった黒い大巌(おおいわ)突出(つきで)ていると、上から流れて来るさっと()の早い谷川が、これに当って(ふたつ)(わか)れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧(あんぺき)白布(しろぬの)を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅(ひとはば)()いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の(すだれ)を百千に(くだ)いたよう、(くだん)鰐鮫(わにざめ)の巌に、すれつ、(もつ)れつ。」

目次に戻る

目次