高野聖

8話

1,373字 約3分 1999年1月30日 公開

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「心細さは申すまでもなかったが、卑怯(ひきょう)なようでも修行(しゅぎょう)の積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便(たより)がよい。何しろ体が(しの)ぎよくなったために足の(よわり)も忘れたので、道も大きに捗取(はかど)って、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓(あたま)の上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。

 (なまり)(おもり)かとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着(くッつ)いていてそのままには取れないから、何心なく手をやって(つか)むと、(なめ)らかに(ひや)りと来た。

 見ると海鼠(なまこ)()いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると(すべ)って指の(さき)へ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚(びっくり)して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた(ひじ)の処へつるりと垂懸(たれかか)っているのは同形(おなじかたち)をした、幅が五分、(たけ)が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)

 呆気(あっけ)に取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血(いきち)をしたたかに吸込むせいで、(にご)った黒い滑らかな(はだ)茶褐色(ちゃかっしょく)(しま)をもった、疣胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは(ひる)じゃよ。

 ()が目にも見違えるわけのものではないが、図抜(ずぬけ)て余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何の(はたけ)でも、どんな履歴(りれき)のある(ぬま)でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。

 肱をばさりと(ふる)ったけれども、よく喰込(くいこ)んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味(ぶきみ)ながら手で(つま)んで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも(たま)ったものではない、突然(いきなり)取って大地へ(たた)きつけると、これほどの奴等(やつら)が何万となく巣をくって(わが)ものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は(やわらか)い、(つぶ)れそうにもないのじゃ。

 ともはや(えり)のあたりがむずむずして来た、平手(ひらて)(こい)て見ると横撫(よこなで)に蛭の(せな)をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ(ひそ)んで帯の間にも一(ぴき)(あお)くなってそッと見ると肩の上にも一筋。

 思わず飛上って総身(そうしん)を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中(むちゅう)でもぎ取った。

 何にしても恐しい今の枝には蛭が()っているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり(いく)ツということもない蛭の皮じゃ。

 これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満(いっぱい)

 私は思わず恐怖(きょうふ)の声を立てて(さけ)んだ、すると何と? この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な()せた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。

 草鞋を穿()いた足の(こう)へも落ちた上へまた(かさな)り、並んだ(わき)へまた附着(くッつ)いて爪先(つまさき)も分らなくなった、そうして()きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮(のびちぢみ)をするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。

 この恐しい山蛭(やまびる)神代(かみよ)(いにしえ)からここに(たむろ)をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛(なんごく)かの血を吸うと、そこでこの虫の(のぞみ)(かな)う、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出(はきだ)すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と(どろ)との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を(さえぎ)って昼もなお暗い大木が切々(きれぎれ)に一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違(そうい)ないと、いや、全くの事で。」

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