偸盗

5話 偸盗(5)

8,413字 約17分 1998年10月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 次郎は、二人の侍と三頭の犬とを相手にして、血にまみれた太刀(たち)をふるいながら、小路(こうじ)を南へ二三町、下るともなく下って来た。今は沙金(しゃきん)の安否を気づかっている余裕もない。侍は衆をたのんで、すきまもなく切りかける。犬も毛の逆立った背をそびやかして、前後をきらわず、飛びかかった。おりからの月の光に、往来は、ほのかながら、打つ太刀をたがわせないほどに、明るくなっている。――次郎は、その中で、人と犬とに四方を囲まれながら、必死になって、切りむすんだ。

 相手を殺すか、相手に殺されるか、二つに一つより生きる道はない。彼の心には、こういう覚悟と共に、ほとんど常軌を逸した、凶猛な勇気が、刻々に力を増して来た。相手の太刀を受け止めて、それを向こうへ切り返しながら、足もとを襲おうとする犬を、とっさに横へかわしてしまう。――彼は、この働きをほとんど同時にした。そればかりではない。どうかするとその拍子に切り返した太刀を、逆にまわして、後ろから来る犬の(きば)を、防がなければならない事さえある。それでもさすがにいつか傷をうけたのであろう。月明かりにすかして見ると、赤黒いものが一すじ、汗ににじんで、左の小鬢(こびん)から流れている。が、死に身になった次郎には、その痛みも気にならない。彼は、ただ、色を失った額に、ひいでた(まゆ)を一文字にひそめながら、あたかも太刀(たち)に使われる人のように、烏帽子(えぼし)も落ち、水干(すいかん)も破れたまま、縦横に(やいば)を交えているのである。

 それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の脾腹(ひばら)を斜めに、腰のつがいまで切りこんだのであろう。骨を切る音が鈍く響いて、横に()いだ太刀の光が、うすやみをやぶってきらりとする。――と、その太刀が宙におどって、もう一人の侍の太刀を、ちょうと下から払ったと見る間に、相手は(ひじ)をしたたか切られて、やにわに(もと)来たほうへ、敗走した。それを次郎が追いすがりざまに、切ろうとしたのと、狩犬の一頭が(まり)のように身をはずませて、彼の手もとへかぶりついたのとが、ほとんど、同時の働きである。彼は、一足あとへとびのきながら、ふりむかった血刀の下に、全身の筋肉が一時にゆるむような気落ちを感じて、月に黒く逃げてゆく相手の後ろ姿を見送った。そうしてそれと共に、悪夢からさめた人のような心もちで、今自分のいる所が、ほかならない立本寺(りゅうほんじ)の門前だという事に気がついた。――

 これから半刻(はんとき)ばかり以前の事である。藤判官(とうほうがん)の屋敷を、表から襲った偸盗(ちゅうとう)の一群は、中門の右左、車宿りの内外(うちそと)から、思いもかけず射出した矢に、まず肝を破られた。まっさきに進んだ真木島(まきのしま)の十郎が、太腿(ふともも)箆深(のぶか)く射られて、すべるようにどうと倒れる。それを始めとして、またたく()に二三人、あるいは顔を破り、あるいは(ひじ)を傷つけて、あわただしく後ろを見せた。射手(いて)(かず)は、もちろん何人だかわからない。が、染め羽白羽のとがり矢は、中には物々しい(かぶら)の音さえ交えて、またひとしきり飛んで来る。後ろに下がっていた沙金(しゃきん)でさえ、ついには黒い水干(すいかん)(そで)を斜めに、流れ矢に射通された。

「お(かしら)にけがをさすな。射ろ。射ろ。味方の矢にも、(やじり)があるぞ。」

 交野(かたの)平六(へいろく)が、(おの)()をたたいて、こうののしると、「おう」という答えがあって、たちまち盗人の中からも、また矢叫(やたけ)びの声が上がり始める。太刀(たち)(つか)に手をかけて、やはり後ろに下がっていた次郎は、平六のこのことばに、一種の苛責(かしゃく)を感じながら、見ないようにして沙金の顔を横からそっとのぞいて見た。沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、弓杖(ゆんづえ)をついたまま、口角の微笑もかくさず、じっと矢の飛びかうのを、ながめている。――すると、平六が、またいら立たしい声を上げて、横あいから、こう叫んだ。

「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」

 太腿(ふともも)を縫われた十郎は、立ちたくも立てないのであろう、太刀(たち)(つえ)にして居ざりながら、ちょうど羽根をぬかれた(からす)のように、矢を避け避け、もがいている。次郎は、それを見ると、異様な戦慄(せんりつ)を覚えて、思わず腰の太刀をぬき払った。が、平六はそれを知ると、流し目にじろりと彼の顔を見て、

「おぬしは、お(かしら)に付き添うていればよい。十郎の始末は、小盗人(こぬすびと)でたくさんじゃ。」と、あざけるように言い放った。

 次郎は、このことばに皮肉な侮蔑(ぶべつ)を感じて、くちびるをかみながら、鋭く平六の顔を見返した。――すると、ちょうどそのとたんである。十郎を救おうとして、ばらばらと走り寄った、盗人たちの機先を制して、耳をつんざく一声(いっせい)(つの)を合図に、粉々として乱れる矢の中を、門の内から耳のとがった、(きば)の鋭い、狩犬が六七頭すさまじいうなり声を立てながら、夜目にも白くほこりを巻いて、まっしぐらに()いて出た。続いてそのあとから十人十五人、手に手に打ち物を取った侍が、先を争って屋敷の外へ、ひしめきながらあふれて来る。味方ももちろん、見てはいない。(おの)をふりかざした平六を先に立てて、太刀や(ほこ)が林のように、きらめきながら並んだ中から、人とも(けもの)ともつかない声を、たれとも知らずわっと上げると、始めのひるんだけしきにも似ず一度に備えを立て直して、猛然として殺到する。沙金(しゃきん)も、今は弓にたかうすびょうの矢をつがえて、まだ微笑を絶たない顔に、一脈の殺気を浮かべながら、すばやく道ばたの築土(ついじ)のこわれを小楯(こだて)にとって、身がまえた。――

 やがて敵と味方は、見る見るうちに一つになって、気の違ったようにわめきながら、十郎の倒れている前後をめぐって、無二無三に打ち合い始めた。その中にまた、狩犬がけたたましく、血に飢えた声を響かせて、戦いはいずれが勝つとも、しばらくの間はわからない。そこへ一人、裏へまわった仲間の一人が、汗と(ほこり)とにまみれながら、二三か所薄手を負うた様子で、血に染まったままかけつけた。肩にかついだ太刀の刃のこぼれでは、このほうの戦いも、やはり存外手痛かったらしい。

「あっちは皆ひき上げますぜ。」

 その男は、月あかりにすかしながら、沙金の前へ来ると、息を切らし切らし、こう言った。

「なにしろ肝腎(かんじん)の太郎さんが、門の中で、やつらに囲まれてしまったという騒ぎでしてな。」

 沙金(しゃきん)と次郎とは、うす暗い築土(ついじ)の影の中で、思わず目と目を見合わせた。

「囲まれて、どうしたえ。」

「どうしたか、わかりません。が、事によると、――まあそれもあの人の事だから、万々(ばんばん)大丈夫だろうと思いますがな。」

 次郎は、顔をそむけながら、沙金のそばを離れた。が、小盗人(こぬすびと)はもちろんそんな事は、気にとめない。

「それにおじじやおばばまで、手を負ったようでした。あのぶんじゃ殺されたやつも、四五人はありましょう。」

 沙金はうなずいた。そうして次郎のあとから追いかけるように、険のある声で、

「じゃ、わたしたちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。

 次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、(くびす)をめぐらす様子がない。(実は、人と犬とにとりかこまれてめぐらすだけの余裕がなかったせいであろう。)口笛の音は、蒸し暑い夜の空気を破って、むなしく小路(こうじ)の向こうに消えた。そうしてそのあとには、人の叫ぶ声と、犬のほえる声と、それから太刀(たち)の打ち合う音とが、はるかな空の星を動かして、いっそう騒然と、立ちのぼった。

 沙金(しゃきん)は、月を仰ぎながら、稲妻のごとく(まゆ)を動かした。

「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」

 そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むらむらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に弓返(ゆがえ)りの音がして、まっさきに進んだ白犬が一頭、たかうすびょうの矢に腹を縫われて、苦鳴と共に、横に倒れる。見る間に、黒血がその腹から、斑々(はんぱん)として砂にたれた。が、犬に続いた一人の男は、それにもおじず、太刀をふりかざして、横あいから次郎に切ってかかる。その太刀が、ほとんど無意識に受けとめた、次郎の太刀の刃を打って、鏘然(そうぜん)とした響きと共に、またたく(あいだ)、火花を散らした。――次郎はその時、月あかりに、汗にぬれた赤ひげと切り裂かれた樺桜(かばざくら)直垂(ひたたれ)とを、相手の男に認めたのである。

 彼は直下(じきげ)に、立本寺(りゅうほんじ)の門前を、ありありと目に浮かべた。そうして、それと共に、恐ろしい疑惑が、突然として、彼を脅かした。沙金(しゃきん)はこの男と腹を合わせて、兄のみならず、自分をも殺そうとするのではあるまいか。一髪の(かん)にこういう疑いをいだいた次郎は、目の前が暗くなるような怒りを感じて、相手の太刀(たち)の下を、脱兎(だっと)のごとく、くぐりぬけると、両手に堅く握った太刀を、奮然として、相手の胸に突き刺した。そうして、ひとたまりもなく倒れる相手の男の顔を、したたか藁沓(わろうず)でふみにじった。

 彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先が(あばら)の骨に触れて、強い抵抗を受けたのを感じた。そうしてまた、断末魔の相手が、ふみつけた彼の藁沓(わろうず)に、下から何度もかみついたのを感じた。それが、彼の復讐心(ふくしゅうしん)に、快い刺激を与えたのは、もちろんである。が、それにつれて、彼はまた、ある名状しがたい心の疲労に、襲われた。もし周囲が周囲だったら、彼は必ずそこに身を投げ出して、飽くまで休息をむさぼった事であろう。しかし、彼が相手の顔をふみつけて、血のしたたる太刀を向こうの胸から引きぬいているうちに、もう何人かの侍は、四方から彼をとり囲んだ。いや、すでに後ろから、忍びよった男の(ほこ)は、危うく(きっさき)を、彼の背に擬している。が、その男は、不意に前へよろめくと、鉾の先に次郎の水干(すいかん)(そで)を裂いて、うつむけにがくりと倒れた。たかうすびょうの矢が一筋、颯然(さつぜん)と風を切りながら、ひとゆりゆって後頭部へ、ぐさと箆深(のぶか)く立ったからである。

 それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る太刀(たち)の中に、獣のようなうなり声を出して、相手を選まず渡り合った。周囲に沸き返っている、声とも音ともつかない物の響きと、その中に出没する、血と汗とにまみれた人の顔と――そのほかのものは、何も目にはいらない。ただ、さすがに、あとにのこして来た沙金(しゃきん)の事が、太刀からほとばしる火花のように、時々心にひらめいた。が、ひらめいたと思ううちに、刻々迫ってくる生死の危急が、たちまちそれをかき消してしまう。そうして、そのあとにはまた、太刀音と矢たけびとが、天をおおう(いなご)の羽音のように、築土(ついじ)にせかれた小路(こうじ)の中で、とめどもなくわき返った。――次郎は、こういう勢いに促されて、いつか二人の侍と三頭の犬とに追われながら、小路を南へ少しずつ切り立てられて来たのである。

 が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物(いちもつ)で、子牛もこれにくらべれば、大きい事はあっても、小さい事はない。それが皆、口のまわりを人間の血にぬらして、前に変わらず彼の足もとへ、左右から襲いかかった。一頭の(あご)蹴返(けかえ)すと、一頭が肩先へおどりかかる。それと同時に、一頭の(きば)が、すんでに太刀(たち)を持った手を、かもうとした。とまた、三頭とも(ともえ)のように、彼の前後に輪を描いて、尾を空ざまに上げながら、砂のにおいをかぐように、(あご)を前足へすりつけて、びょうびょうとほえ立てる。――相手を殺したのに、気のゆるんだ次郎は、前よりもいっそう、この狩犬の執拗(しゅうね)い働きに悩まされた。

 しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆(くう)を切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、一縷(いちる)の望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、(わら)でもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を蹴上(けあ)げながら真一文字に追いすがった。

 が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって虎口(ここう)にはいるような事ができたのである。――次郎は立本寺(りゅうほんじ)(つじ)をきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月に(しら)んだ小路(こうじ)をふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、餌食(えじき)を争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に(ぎんぎん)の声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の渦巻(うずま)きの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、獰猛(どうもう)な野犬の群れが、ここに捨ててあった疫病(えやみ)の女を、(よい)のうちから餌食にして、互いに(きば)をかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。

 犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、太刀(たち)の上をおどり越えると、尾のない(きつね)に似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりと(ほお)にさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めに(まゆ)の間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、太刀(たち)を回しながら、急に、猪熊(いのくま)のばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、(のど)をかもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうちに、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに多い野犬の群れが、あるいは芒原(すすきはら)の向こうから、あるいは築土(ついじ)のこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――

 次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥(いちべつ)しながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や沙金(しゃきん)の事を、一度に石火(せっか)のごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより至極(しごく)な天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の太腿(ふともも)に、鋭い(きば)の立ったのを感じた。

 するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに戞々(かつかつ)たる馬蹄(ばてい)の音が、風のように空へあがり始めた。……

          ―――――――――――――――――

 しかしその間も阿濃(あこぎ)だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門(らしょうもん)の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空(なかぞら)に上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その白々(しらじら)とした水光(すずびか)りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。

 ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人(しびと)のにおいを蔵していた京の町も、わずかの()に、つめたい光の鍍金(めっき)をかけられて、今では、(こし)の国の人が見るという蜃気楼(かいやぐら)のように、塔の九輪や伽藍(がらん)の屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい(もや)の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花(のうぜんかずら)のにおいがした。門の左右を(うず)める(やぶ)のところどころから、簇々(そうそう)とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった(かわら)の上や、蜘蛛(くも)の巣をかけた(たるき)の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……

 窓によりかかった阿濃(あこぎ)は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親(ふたおや)を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門(らしょうもん)のような、大きな丹塗(にぬ)りの門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。ある時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの(とが)で、裸のまま、地蔵堂の(うつばり)へつり上げられた。それがふと沙金(しゃきん)に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。阿濃(あこぎ)猪熊(いのくま)のばばの気に逆らっては、よくむごたらしく打擲(ちょうちゃく)された。猪熊の(おじ)には、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる沙金(しゃきん)でさえ、(かん)にさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの羅生門(らしょうもん)の上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。

 (すす)のようなものが、ひらひらと月にひるがえって、(いらか)の下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく蝙蝠(こうもり)である。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますようにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみを()めに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この凌霄花(のうぜんかずら)のにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。

 そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもいるのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動きは、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。阿濃(あこぎ)は、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗い()にそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。

君をおきて

あだし心を

われ持たばや

なよや、末の松山

波も越えなむや

波も越えなむ

目次に戻る

目次