偸盗

6話 偸盗(6)

7,723字 約15分 1998年10月4日 公開

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 うろ覚えに覚えた歌の声は、()のゆれるのに従って、ふるえふるえ、しんとした楼の中に断続した。歌は、次郎が好んでうたう歌である。酔うと、彼は必ず、扇で拍子をとりながら、目をねむって、何度もこの歌をうたう。沙金(しゃきん)はよく、その節回しがおかしいと言って、手を打って笑った。――その歌を、腹の中の子が、喜ばないというはずはない。

 しかし、その子が、実際次郎の(たね)かどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃(あこぎ)自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗(しゅうね)く黙ってしまう。そういう時は、必ず(あか)じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛(まつげ)にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆(あほう)な彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。――阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。(涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。)そこでは、いっさいの悪が、眼底を払って、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……

なよや、末の松山

波も越えなむや

波も越えなむ

 歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない呻吟(しんぎん)の声が、(やみ)を誘うごとく、かすかにもれ始めた。阿濃(あこぎ)は、歌の半ばで、突然下腹に、鋭い疼痛(とうつう)を感じ出したのである。

          ―――――――――――――――――

 相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、中門(ちゅうもん)を打って出た侍たちに、やはり手痛い逆撃(さかう)ちをくらわせられた。たかが青侍の腕だてと思い侮っていた先手(せんて)の何人かも、算を乱しながら、(そびら)を見せる――中でも、臆病(おくびょう)猪熊(いのくま)(おじ)は、たれよりも先に逃げかかったが、どうした拍子か、方角を誤って、太刀(たち)をぬきつれた侍たちのただ中へ、はいるともなく、はいってしまった。酒肥(さかぶと)りした体格と言い、物々しく(ほこ)をひっさげた様子と言い、ひとかど手なみのすぐれたものと、思われでもしたのであろう。侍たちは、彼を見ると、互いに目くばせをかわしながら、二人三人、(きっさき)をそろえたまま、じりじり前後から、つめよせて来た。

「はやるまいぞ。わしはこの殿の家人(けにん)じゃ。」

 猪熊(いのくま)(おじ)は、苦しまぎれにあわただしくこう叫んだ。

「うそをつけ。――おのれにたばかれるような阿呆(あほう)と思うか。――往生ぎわの悪いおやじじゃ。」

 侍たちは、口々にののしりながら、早くも太刀(たち)を打ちかけようとする。もうこうなっては、逃げようとしても逃げられない。猪熊の爺の顔は、とうとう死人(しびと)のような色になった。

「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」

 彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい太刀音(たちおと)と叫喚の声とが、一塊(ひとかたまり)になった敵味方の中から、ひっきりなしにあがって来る。――しょせん逃げられないとさとった彼は、目を相手の上にすえると、たちまち別人のように、凶悪なけしきになって、上下(じょうげ)の齒をむき出しながら、すばやく(ほこ)をかまえて、威丈高(いたけだか)にののしった。

「うそをついたがどうしたのじゃ。阿呆(あほう)外道(げどう)。畜生。さあ来い。」

 こう言うことばと共に、(ほこ)の先からは、火花が飛んだ。中でも屈竟(くっきょう)な、赤あざのある侍が一人、衆に先んじてかたわらから、無二無三に切ってかかったのである。が、もとより年をとった彼が、この侍の相手になるわけはない。まだ十合(じゅうごう)()を合わせないうちに、見る見る、鉾先(ほこさき)がしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていた(ほこ)()を、みごとに半ばから、切り折った。と、また一太刀(ひとたち)、今度は、右の肩先から胸へかけて、袈裟(けさ)がけに浴びせかける。猪熊(いのくま)(おじ)は、尻居(しりい)に倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて高這(たかば)いに()いのきながら声をふるわせて、わめき立てた。

「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」

 赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ太刀(たち)をふりかざした。その時もし、どこからか(さる)のようなものが、走って来て、帷子(かたびら)(すそ)を月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、猪熊(いのくま)(おじ)は、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、その(さる)のようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに小刀(さすが)をひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った太刀(たち)をあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け火箸(ひばし)でも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。

 それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。()む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び小刀(さすが)がきらりと光って、組みしかれた男の顔は、(あざ)だけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、(ひき)に似た、猪熊のばばの顔が見えた。

 老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の(もとどり)をとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな呻吟(しんぎん)の声をつづけていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、()からびたくちびるを、二三度無理に動かして、

「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊(いのくま)(おじ)は、老女の救いを()ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路(こうじ)のそこここに、得物(えもの)をふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばばは、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされた。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかっている小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。

「おじいさん。」

 老婆は、血の交じった(つば)を、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり恍惚(こうこつ)とした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、昏々(こんこん)として沈んで行った。

 その時である。太郎は、そこを栗毛(くりげ)の裸馬にまたがって、血にまみれた太刀(たち)を、口にくわえながら、両の手に手綱(たづな)をとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、沙金(しゃきん)が目をつけた、陸奥出(みちのくで)三才駒(さんさいごま)であろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、死人(しびと)を残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうす(じろ)い。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上に(こうべ)をめぐらして、(しりえ)にののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。

 それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、葛巻(つづらま)きの太刀(たち)をふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなく(うまや)の戸を蹴破(けやぶ)って、この馬の覊綱(はづな)を切るより早く、背に飛びのる()も惜しいように、さえぎるものをひづめにかけて、いっさんに宙を飛ばした。そのために受けた傷も、もとより数えるいとまはない。水干(すいかん)(そで)はちぎれ、烏帽子(えぼし)はむなしく(ひも)をとどめて、ずたずたに裂かれた(はかま)も、なまぐさい血潮に染まっている。が、それも、太刀と(ほこ)との林の中から、一人に会えば一人を切り、二人に会えば二人を切って、出て来た時の事を思えば、うれしくこそあれ、惜しくはない。――彼は、後ろを見返り見返り、晴れ晴れした微笑を、口角に漂わせながら、昂然(こうぜん)として、馬を駆った。

 彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお沙金(しゃきん)の心が再び彼に傾く日を、夢のように胸に描いた。自分でなかったなら、たれがこの馬をこの場合、奪う事ができるだろう。向こうには、人の和があった。しかも地の利さえ占めている。もし次郎だったとしたならば――彼の想像には、一瞬の(あいだ)、侍たちの太刀(たち)の下に、切り伏せられている弟の姿が、浮かんだ。これは、もちろん、彼にとって、少しも不快な想像ではない。いやむしろ彼の中にあるある物は、その事実である事を、祈りさえした。自分の手を下さずに、次郎を殺す事ができるなら、それはひとり彼の良心を苦しめずにすむばかりではない。結果から言えば、沙金がそのために、自分を憎む恐れもなくなってしまう。そう思いながらも、彼は、さすがに自分の卑怯(ひきょう)を恥じた。そうして口にくわえた太刀を、右手(めて)にとって、おもむろに血をぬぐった。

 そのぬぐった太刀を、ちょうど(さや)におさめた時である。おりから(つじ)を曲がった彼は、行く手の月の中に、二十と言わず三十と言わず、群がる犬の数を尽くして、びょうびょうとほえ立てる声を聞いた。しかも、その中にただ一人、太刀をかざした人の姿が、くずれかかった築土(ついじ)を背負って、おぼろげながら黒く見える。と思う()に、馬は、高くいななきながら、長い(たてがみ)をさっと振るうと、四つの(ひづめ)に砂煙をまき上げて、またたく暇に太郎をそこへ疾風のように持って行った。

「次郎か。」

 太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しく(まゆ)をひそめて、弟を見た。次郎も片手に太刀(たち)をかざしながら、(うなじ)をそらせて、兄を見た。そうして刹那(せつな)に二人とも、相手の(ひとみ)の奥にひそんでいる、恐ろしいものを感じ合った。が、それは、文字どおり刹那である。馬は、()えたける犬の群れに、脅かされたせいであろう、首を空ざまにつとあげると、前足で大きな輪をかきながら、前よりもすみやかに、空へ(おど)った。あとには、ただ、濛々(もうもう)としたほこりが、夜空に白く、ひとしきり柱になって、舞い上がる。次郎は、依然として、野犬の群れの中に、傷をこうむったまま、立ちすくんだ。……

 太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、一時(いっとき)、ただ、半時(はんとき)、走りさえすれば、それで万事が休してしまう。彼のする事を、いつかしなくてはならない事を、犬が代わってしてくれるのである。

「走れ、なぜ走らない?」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。羅生門(らしょうもん)は遠くはない。」太郎は、片目に熱を病んだような光を帯びて、半ば無意識に、馬の腹を()った。馬は、尾と(たてがみ)とを、長く風になびかせながら、ひづめに火花を散らして、まっしぐらに狂奔する。一町二町月明かりの小路は、太郎の足の下で、急湍(きゅうたん)のように後ろへ流れた。

 するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく手綱(たづな)を握ったまま、血相を変えて歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か沙金(しゃきん)かの、選択をしいられたわけではない。直下(じきげ)にこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。彼は空も見なかった。道も見なかった。月はなおさら目にはいらなかった。ただ見たのは、限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。太郎は、狂気のごとく、弟の名を口外に投げると、身をのけざまに翻して、片手の手綱(たづな)を、ぐいと引いた。見る見る、馬の(かしら)が、向きを変える。と、また雪のような(あわ)が、栗毛(くりげ)の口にあふれて、(ひづめ)は、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに汗馬(かんば)(おど)らせていたのである。

「次郎。」

 近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、白燃鉄(はくねんてつ)を打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。

 次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった(まゆ)に、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。

「早く乗れ。次郎。」

 太郎は、群がる犬の中に、隕石(いんせき)のような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、叱咤(しった)するような声で、こう言った。もとより躊躇(ちゅうちょ)に、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた太刀(たち)を、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその刹那(せつな)猿臂(えんび)をのばし、弟の襟上(えりがみ)をつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬の(かしら)が、(たてがみ)に月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。

 と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて鞍壺(くらつぼ)へ飛びあがった。とがった(きば)が、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか栗毛(くりげ)の腹を()った。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の脛布(はばき)を食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。

 が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――

「にいさん。」

 馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、(ほお)を紺の水干(すいかん)の胸にあてて、はらはらと涙を落としたのである。

 半時(はんとき)ののち、人通りのない朱雀(すざく)大路(おおじ)を、二人は静かに馬を進めて行った。兄も黙っていれば、弟も口をきかない。しんとした夜は、ただ馬蹄(ばてい)の響きにこだまをかえして、二人の上の空には涼しい天の川がかかっている。

       八

 羅生門(らしょうもん)()は、まだ明けない。下から見ると、つめたく露を置いた(いらか)や、丹塗(にぬ)りのはげた欄干に、傾きかかった月の光が、いざよいながら、残っている。が、その門の下は、斜めにつき出した高い(のき)に、月も風もさえぎられて、むし暑い暗がりが、絶えまなく藪蚊(やぶか)に刺されながら、()えたようによどんでいる。藤判官(とうほうがん)の屋敷から、引き揚げてきた偸盗(ちゅうとう)の一群は、そのやみの中にかすかな松明(たいまつ)の火をめぐりながら、三々五々、あるいは立ちあるいは伏し、あるいは丸柱の根がたにうずくまって、さっきから、それぞれけがの手当てに(いそがわ)しい。

 中でも、いちばん重手(おもで)を負ったのは、猪熊(いのくま)(おじ)である。彼は、沙金(しゃきん)の古い(うちぎ)を敷いた上に、あおむけに横たわって、半ば目をつぶりながら、時々ものにおびえるように、しわがれた声で、うめいている。一時(ひととき)(あいだ)、ここにこうしているのか、それとも一年も前から同じように寝ているのか、彼の困憊(こんぱい)した心には、それさえ時々はわからない。目の前には、さまざまな幻が、瀕死(ひんし)の彼をあざけるように、ひっきりなく徂来(そらい)すると、その幻と、現在門の下で起こっている出来事とが、彼にとっては、いつか全く同一な世界になってしまう。彼は、時と所とを分かたない、昏迷(こんめい)の底に、その醜い一生を、正確に、しかも理性を超越したある順序で、まざまざと再び、生活した。

「やい、おばば、おばばはどうした。おばば。」

 彼は、(やみ)から生まれて、(やみ)へ消えてゆく恐ろしい幻に脅かされて、身をもだえながら、こううなった。すると、かたわらから額の傷を汗衫(かざみ)(そで)で包んだ、交野(かたの)の平六が顔を出して、

「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた(はちす)の上でな、おぬしの来るのを、待ち焦がれている事じゃろう。」

 言いすてて、自分の冗談を、自分でからからと笑いながら、向こうのすみに、真木島(まきのしま)の十郎の(もも)のけがの手当をしている、沙金(しゃきん)のほうをふり返って、声をかけた。

「お(かしら)、おじじはちとむずかしいようじゃ。苦しめるだけ、殺生(せっしょう)じゃて。わしがとどめを刺してやろうかと思うがな。」

 沙金は、あでやかな声で、笑った。

「冗談じゃないよ。どうせ死ぬものなら、自然に死なしておやりな。」

「なるほどな、それもそうじゃ。」

 猪熊(いのくま)(おじ)は、この問答を聞くと、ある予期と恐怖とに襲われて、からだじゅうが一時に凍るような心もちがした。そうして、また大きな声でうなった。平六と同じような理由で、敵には臆病(おくびょう)な彼も、今までに何度、致死期(ちしご)の仲間の者をその(ほこ)の先で、とどめを刺したかわからない。それも多くは、人を殺すという、ただそれだけの興味から、あるいは自分の勇気を人にも自分にも示そうとする、ただそれだけの目的から、進んでこの無残なしわざをあえてした。それが今は――

 と、たれか、彼の苦しみも知らないように、()の陰で一人、鼻歌をうたう者がある。

いたち笛ふき

(さる)かなず

いなごまろは拍子うつ

きりぎりす

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