本所両国

7話 乗り継ぎ「一銭蒸汽」

1,515字 約3分 1999年8月23日 公開

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 僕等はその時にどこへ行つたのか、()(かく)伯母(をば)だけは長命寺(ちやうめいじ)の桜餅を一籠(ひとかご)(ひざ)にしてゐた。すると男女の客が二人(ふたり)、僕等の顔を尻目(しりめ)にかけながら、「何かひますね」「うん、糞臭(くそくさ)いな」などと話しはじめた。長命寺の桜餅を糞臭いとは、――僕は(いま)だに生意気(なまいき)にもこの二人を田舎者(ゐなかもの)めと軽蔑したことを覚えてゐる。長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。それから長命寺の桜餅は、――勿論今でも昔のやうに評判の()いことは確かである。しかし《あん》や皮にあつた野趣(やしゆ)だけはいつか失はれてしまつた。……

 川蒸汽は蔵前橋(くらまへばし)の下をくぐり、廐橋(うまやばし)真直(まつすぐ)に進んで行つた。そこへ向うから僕等の乗つたのとあまり変らない川蒸汽が一艘矢張(やは)(なみ)を蹴つて近づき出した。が、七八間隔ててすれ違つたのを見ると、この川蒸汽の後部には甲板(かんぱん)の上に天幕(テント)を張り、ちやんと大川(おほかは)の両岸の景色を見渡せる設備も整つてゐた。かういふ古風な川蒸汽も(また)目まぐるしい時代の影響を(かうむ)らない(わけ)には()かないらしい。その(あと)へ向うから走つて来たのはお客や芸者を乗せたモオタアボオトである。屋根船や船宿(ふなやど)を知つてゐる老人達は定めしこのモオタアボオトに苦々(にがにが)しい顔をすることであらう。僕は江戸趣味に随喜(ずゐき)する者ではない。従つて又モオタアボオトを無風流(ぶふうりう)と思ふ者ではない。しかし僕の小学時代に大川に浪を立てるものは「一銭蒸汽」のあるだけだつた。或はその(ほか)利根川(とねがは)通ひの外輪船(ぐわいりんせん)のあるだけだつた。僕は渡し舟に乗る度に「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪の為に舟の()れることを恐れたものである。しかし今日(こんにち)の大川の上に大小の浪を残すものは一々数へるのに耐へないであらう。

 僕は船端(ふなばた)に立つたまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重(ひろしげ)()いてゐた河童(かつぱ)のことを思ひ出した。河童は明治時代には、――少くとも「御維新(ごゐしん)」前後には大根河岸(だいこんがし)の川にさへ出没してゐた。僕の母の話に依れば、観世新路(くわんぜじんみち)に住んでゐた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗つてゐるうちに大根河岸(だいこんがし)の川の河童に(わき)の下をくすぐられたと言ふことである。(観世新路に植木屋の住んでゐたことさへ僕等にはもう不思議である。)まして大川にゐた河童の(かず)は決して少くはなかつたであらう。いや、(かならず)しも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人(ひとり)夜網(よあみ)を打ちに出てゐたところ、何か(とも)(あが)つたのを見ると、甲羅(かふら)だけでも(たらひ)ほどあるすつぽんだつたなどと話してゐた。僕は勿論かういふ話を(ことごと)く事実とは思つてゐない。けれども明治時代――或は明治時代以前の人々はこれ等の怪物を目撃(もくげき)する程この町中(まちなか)を流れる川に詩的恐怖を持つてゐたのであらう。

「今ではもう河童(かつぱ)もゐないでせう。」

「かう泥だの油だの一面に流れてゐるのではね。――しかしこの橋の下あたりには年を取つた河童の夫婦が二匹(いま)だに住んでゐるかも知れません。」

 川蒸汽は僕等の話の(うち)廐橋(うまやばし)の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに(あを)んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭(いそくさ)い《にほひ》のしたことを思ひ出した。しかし今日(こんにち)の大川の水は(なん)のも持つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭いだけであらう。……

「あの橋は今度出来る駒形橋(こまかたばし)ですね?」

 O君は生憎(あいにく)僕の問に答へることは出来なかつた。駒形(こまかた)は僕の小学時代には大抵(たいてい)「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。「君は今駒形(こまかた)あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或は「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづからを失つてしまふことは大川の水に変らないのである。

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