本所両国

8話 柳島

1,288字 約3分 1999年8月23日 公開

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 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋(あづまばし)(たもと)へ出、そこへ来合せた円タクに乗つて柳島(やなぎしま)へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋(なりひらばし)かどこかにあつた或可也(かなり)大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新(ごゐしん)(ぜん)本所(ほんじよ)の話をして貰つた。父は往来(わうらい)の左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだつた」とか「(なん)とか(さま)の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊(くびくく)りとかの死骸を早桶(はやをけ)に入れ、その又早桶を葭簀(よしず)に包んだ上、白張(しらは)りの提灯(ちやうちん)を一本立てて原の中に()ゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原(くさはら)の中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是(かれこれ)真夜中(まよなか)になると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少所謂(いはゆる)御朱引(ごしゆび)(そと)」の(おも)かげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来(わうらい)を見ながら、金銭を武器にする修羅界(しゆらかい)の空気を憂鬱に感じるばかりだつた。

 僕等は「橋本(はしもと)」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り伝ひに亀井戸(かめゐど)天神様(てんじんさま)へ行つて見ることにした。名高い柳島(やなぎしま)の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。(もつと)もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども()硝子(ガラス)へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈(けんとう)は少くとも僕にははかなかつた。僕は勿論「橋本」の料理を云々(うんぬん)するほどの通人(つうじん)ではない。のみならず「橋本」へ来たことさへあるかないかわからない位である。が、五代目菊五郎(きくごろう)の最初の脳溢血(なういつけつ)を起したのは確かこの「橋本」の二階だつたであらう。

 掘割りを隔てた妙見様(めうけんさま)も今ではもうすつかり裸になつてゐる。それから掘割りに沿うた往来(わうらい)も、――僕は中学時代に蕪村(ぶそん)句集を読み、「君()くや柳緑に路長し」といふ句に出合つた時、この往来にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田(ありた)ドラツグや愛聖館(あいせいくわん)の並んだ、せせこましいなりに賑かな往来である。近頃私娼(ししやう)の多いとか云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草(あさくさ)千束町(せんぞくまち)にまだ私娼の多かつた頃の(よる)の景色を覚えてゐる。それは窓ごとに()かげのさした十二階の聳えてゐる為に(ほとん)ど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊(はいくわい)する気にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺(ふうし)詩人(しじん)斎藤緑雨(さいとうりよくう)は十二階に悪趣味そのものを見(いだ)してゐた。すると明日(みやうにち)の詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にも彼等自身の「悪の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。

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