本所両国

9話 萩寺あたり

1,494字 約3分 1999年8月23日 公開

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 僕は(ろく)でもないことを考へながら、ふと愛聖館(あいせいくわん)掲示板(けいじばん)を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。

「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」

 産児制限論者は勿論、現世(げんせい)の人々はかういふ言葉に微笑しない(わけ)にはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠(しようこ)と思ふことは出来ない。いや、(むし)ろ全能の(しゆ)の憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所(ほんじよ)の或場末(ばすゑ)の小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈(かいわい)に住んでゐる人々は子供の(かず)の多い家ほど(かへ)つて暮らしも(らく)だと云ふことである。それは又どの家の子供も()(かく)十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を(かせ)いで来るからだと云うことである。愛聖館(あいせいくわん)の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所(ほんじよ)の或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。(もつと)も子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。

 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺(はぎでら)を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文(おちあひなほぶみ)先生の石碑を前にした古池の水も()()れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの()びてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所(ほんじよ)猿江(さるえ)にあつた僕の家の菩提寺(ぼだいじ)を思ひ出した。この寺には(なん)でも司馬江漢(しばかうかん)小林平八郎(こばやしへいはちらう)の墓の(ほか)に名高い浦里時次郎(うらざとときじろう)比翼塚(ひよくづか)も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの()に両刀を(ふる)つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張(やは)り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも(むし)禿(かむろ)だつた。)この寺は――慈眼寺(じげんじ)といふ日蓮(にちれん)宗の寺は震災よりも何年か前に染井(そめゐ)墓地(ぼち)のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江(さるえ)の墓地は(いま)だに僕の記憶に残つてゐる。就中(なかんづく)薄い水苔(みづごけ)のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華(まんじゆしやげ)の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所(ほんじよ)以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。

 萩寺(はぎでら)の先にある電柱(?)は「亀井戸(かめゐど)天神(てんじん)近道」といふペンキ塗りの道標(だうへう)を示してゐた。僕等はその横町(よこちやう)(まが)り、待合(まちあひ)やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来(わうらい)を歩いて行つた。が、肝腎(かんじん)の天神様へは容易(ようい)に出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人(ひとり)メリンスの(たもと)(ひるがへ)しながら、傍若無人(ばうじやくぶじん)にゴム(まり)をついてゐた。

「天神様へはどう()きますか?」

「あつち。」

 女の子は僕等に返事をした(のち)、聞えよがしにこんなことを言つた。

「みんな天神様のことばかり()くのね。」

 僕はちよつと忌々(いまいま)しさを感じ、この如何(いか)にもこましやくれた(とを)ばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目(わきめ)も振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張(やは)(まり)をつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕も(また)僕の小学時代には鉄面皮(てつめんぴ)にも生薬屋(きぐすりや)へ行つて「半紙(はんし)を下さい」などと言つたものだつた。

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