9話 萩寺あたり
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僕は碌でもないことを考へながら、ふと愛聖館の掲示板を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」
産児制限論者は勿論、現世の人々はかういふ言葉に微笑しない訣にはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠と思ふことは出来ない。いや、寧ろ全能の主の憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所の或場末の小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈に住んでゐる人々は子供の数の多い家ほど反つて暮らしも楽だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎に角十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼いで来るからだと云うことである。愛聖館の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所の或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤も子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文先生の石碑を前にした古池の水も渇れ渇れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂びてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿江にあつた僕の家の菩提寺を思ひ出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜に両刀を揮つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧ろ禿だつた。)この寺は――慈眼寺といふ日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江の墓地は未だに僕の記憶に残つてゐる。就中薄い水苔のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。
萩寺の先にある電柱(?)は「亀井戸天神近道」といふペンキ塗りの道標を示してゐた。僕等はその横町を曲り、待合やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来を歩いて行つた。が、肝腎の天神様へは容易に出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人メリンスの袂を翻しながら、傍若無人にゴム毬をついてゐた。
「天神様へはどう行きますか?」
「あつち。」
女の子は僕等に返事をした後、聞えよがしにこんなことを言つた。
「みんな天神様のことばかり訊くのね。」
僕はちよつと忌々しさを感じ、この如何にもこましやくれた十ばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目も振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張り毬をつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕も亦僕の小学時代には鉄面皮にも生薬屋へ行つて「半紙を下さい」などと言つたものだつた。