12話 十二
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お鳥が最終電車に間に合はないほどの時刻に歸つて來たことが、今一囘あつた。そして矢ツ張り、前囘と同じやうに、氷川の森蔭の細君のところへ行つてゐたのだ。そしてあの人がいろんなおどけた話をして歸さなかつたものだから、つい、また遲くなつたと申しわけをした。そしてまた、あの人がこツちを引きとめてゐたのは、亭主の留守が寂しいからであつたのだからあのいやな自髮ぢぢイ歸つて來ると、人を直ぐ出て行けと云はないばかりにあしらつたと、訴へるやうに報告した。
けふ、初めて縫ひ上つたセルを着てゐるのをちらと見て、義雄はかの女がこれを見せびらかしに行つたのだ、な、と分つた。が、前囘に於いて、既に女の夜遊びを懇々戒めて置いた言葉を破つたのを憤り切つてゐたので、何等の返事をもする氣にならなかつた。
かの女が義雄の枕もとに坐り、不斷通りの笑がほを見せたのを、渠は枕の上から瞰み付け、おほきな聲を――下への遠慮の爲め――押しつぶすやうにして、
「馬鹿」と一喝した。「あんな女の相手をしてイて、うちをどうするんだ!」
「‥‥」見る/\顏色を變へて、「うちなどありやアせんやないか?――そんなに可愛けりやア、早うあいつを追ひ出して、あたいを本妻にせい!」かう云つて、かの女は力一杯に義雄を蒲團の上から兩手で突きのめした。
「‥‥」義雄は返事もしないで、あふ向いたまま、目をつぶつた。そしてこの女も駄目だ、かの千代子も駄目だ、また、父の遺産をすべて投げうつた事業も、あと僅か二百金の出來ない爲めに、すツかり時期を逸してしまふかも知れないと思つた時、寂しい、寂しい氣持ちが胸に迫つて、熱い涙が一滴自分の頬に傳つたのをおぼえた。
あかりを吹き消した音がしてから、直ぐだ――
「妻にして呉れ、妻にして呉れ」と、いつに無くこは張つたからだを、幾度も、かの女は義雄に投げつけた。「して呉れんと、殺すぞ」とも威かした。
それでも義雄は目を明けず、口も開かなかつた。うと/\と眠りに入りかけた頃、蒲團の一端が引ツ張れたのに氣が付いて、目をあけると、――いつの間にか枕もとに置いたランプがともされてゐて、お鳥は褥をぬけ出で、蒲團の裾に當る押し入れの膳やまな板を入れてある方の唐紙を靜かにあけた。
光があたまで遮られてゐるのを幸ひ、見ない振りで、細目に目をあけて、かの女の横顏を見ると、かげのせゐか、低い鼻まで鼻筋がくツきり通つてゐるやうに目を据ゑて、押し入れの中をのぞき、右の手に出齒庖丁を取り出した。
一度はぎよツとした爲めに、ねむ氣は全くさめてしまつたが、
「なに、くそ!」再び目をつぶつた。そして子供の時、空想的に望んで見たことが、今、多少の事實となつて來たと考へた。自分を「ぼくさん、ぼくさん」と云つて、よく菓子を呉れたり下駄の鼻緒を直して呉れたりした、あの船乘りのかみさんだ。他に土方の男が出來た爲めに、亭主をくびり殺さうとした時、亭主が氣が附いてはね起きると、枕もとに出齒庖丁もあつた。その翌晩は船が大阪にとまる順番であつた。そしてその翌々晩に、歸つて來て、渠は前々夜に何事もなかつたかのやうに、毒婦の室に入つた。義雄はこんな大膽なおやぢになつて見たいと、おぼろげにだが、思つたことがある。「手切れの口實にはいい機會が來た」と覺悟して渠は出來るだけ息をゆるやかにしてゐた。
お鳥はそツと坐つたやうだ、その裾の下から押し出された空氣が、生あツたかく鼻を掠めて一種のにほひがあつたのに、義雄は今更らのやうな氣がした。
自分には、これがかの女をいやになる心の條件の一大原因であるとも思はれた。
蒲團がめくられたかと思ふと、やがてひイやりした物が輕く、義雄の左から右の方へ、その喉の上を横切つた。
「さうだらう、威かしに過ぎない」とは口に出さないで、するりと顏をかの女の方から遠ざけて起き上り、「なによウする!」
「殺してやる! 殺してやる」
その時は、もう、出齒は義雄の手に在つた。そして暫く、二人は無言で、睨み合つてゐた。
お鳥は下へおりて行つた。下の臺所へ他人の刃物をでも取りに行つたのかと心配してゐると便所の戸を明ける音がした。
義雄は明けツ放しの押入れから鰹節削りの小刀を取り出し、机の上のナイフと持つてゐた庖丁とを合はせて、自分の寢てゐた側の敷蒲團の下に隱した。そしてかの女と入れかはりに便所に行くふりをして下におり、臺所を探して見ると、下の人の使ふ庖丁はあつたので、これをいつもの位置とは違つてちよツと氣がつき難いところに置いた。渠があがつて來たら、かの女は渠の机のあたりにまご/\してゐたが、また押し入れへ行つて頻りに何かを探し始めた。
「ナイフも小刀もあるものかい」と、心に語りながら、義雄は堅い物を脇腹の横に避けて、それでもこれを少し押さへるやうにして、もとの通りに横たはつた。
渠がその翌朝の十時頃に目をさますと、平生の通り飯の支度は出來てゐた。が、二人は無言で食事を終つた。
それからも、義雄は無言で新聞を讀み、便所に下り、また衣物を着かへた。そして書き終りかけの長篇評論の原稿と共に、四五册の參考書をすツかり引きまとめ、風呂敷に包まうとしてゐると、お鳥は離れた方の窓下で足を投げ出し、片肱を突いて自分の裾から出た桃色のネルの端とこちらとを見比べながら、少しも小だはりの無い聲で云つた。
「どこへ行くの!」
「‥‥」義雄は、もう、これツ切りこの座敷へあがる必要はないと決心してゐたので、返事もしたくなかつた。
「ええ、どこへ行くの?」その聲は一段と優しくなつてゐた。
「‥‥」
「默つて行くなら、あたいも行く」と、異樣な顫へさへ帶びて來た。
「來たツて仕やうがない、さ」と、止むを得ずこれに應じて、うそは云ひたくなかつたが、「原稿料を取りに行くのだから、ね。」
かう云つて包みをかツ浚ふやうにしてこれをかかへるが早いか、立ち上つてはしご段の下り口まで行つた。
「ちよツと待つて」と、お鳥は息をはずませて起きあがつて來て、義雄の袖を握つた。そしてそツと段の下の方をのぞいて見てから、もとの窓ぎはの方へ義雄を無言でぐん/\引ツ張つて行き、窪んで青みがかつた眼で、じツと力強く命令するやうに渠の顏を見詰め、かの女は先づその白い幅ツたい顏をのぼせさせてゐた。