13話 十三
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「向うの愛情が熱して來ただけに、却つて始末に終へ難いのだ」と、義雄はその日加集の宿にかけ込んで、お鳥のことを訴へるやうに語つた。そしてかの女と手を切る爲めの奔走をして貰ふやうに頼んだ。――質物は金が出來次第出してやること、病氣は直るまで改めて治療させてやること、この二ヶ條を條件として。
加集は喜んで引き受けた。そして直ぐお鳥のところへ出かけた。もう、くツ付くなり、何となりしろと、義雄は心を落ち着けて、渠の留守二階で、渠の自炊兼用の机に向ひ原稿の續きを書いてゐた。
すると渠はまもなく歸つて來た。手には馬肉の新聞紙包を持つてゐたが、
「えらいおこりやうだで、なア」と云ひながら、その包みを投げ出し、また背廣のポケットから正宗の二瓶を出して、義雄のそばにあぐらをかいた。
「また馬肉かい?」
「うん――うまいぢやないか?」
義雄は去年痳病で苦しんだ頃、この肉が藥になると聽いて頻りに喰つたことがある。そして加集は能くそのお相伴をしたのであつた。
「おこつてるツて?」
「丸ツ切り、あいつア氣違ひぢや、なア。」
「おこつたツて、仕かたがないぢやアないか?」
「おれに、お前のやうなものは仲へ立つて貰はん云やがつたぜ。」
「ぢやア、どうすると云ふのだ?」
「直接に話を付ける云うた――おれのうちに隱れてるに違ひない云うて、こはい顏でにらみ腐つた。」
「ここを知る筈アなからう――?」
「無論だ――自分で自分のからだをひツかいたり、君の雜誌を引裂いたり、あのざまを君に見せたかつたよ。」
「うツちやつて置く、さ。」
「歸りに下の婆アさんにさう云うたら、あいつも失敬なやツちや、丁度いいからおれに貰つてやれと、さ。」笑ひながら、「馬鹿にしやがる!」
「‥‥」義雄はちよツと加集の顏色を見たら、何だか得意さうであつた。「どうともさせて置くがいい、さ、――おれだツて、もう、二度と再び喉を出しちやアゐられないから、ね。」
「今度こそ、見つかつたら、ひどい目に會ふぞ。」
「ふ、ふん」と、義雄も心配さうに笑つた。
「然しやつて來る氣づかひは無いし、なア」と、加集は立ちあがりながら、「まア、一杯やろうか――久し振りだ。」
この時、がらりと下の格子戸が明いて、女の聲がした。義雄は身の毛がよだつた。
加集は拔き足して行つて、下り口から下をのぞいてゐたが、
「なんぢやい」と、棄てぜりふで云つて、にこ/\戻つて來て、「廣告摺りを取りに來たんぢや――美人やで。」
義雄はちツぽけな一私人の印刷屋の二階にゐるのに氣が附いて、ふと窓の外に目を送り、屋根から通りへ傾いてゐる大きな横看板の裏を見た。そしてこんな家の主人を相手に何か共同の發展をしようとしてゐる友人の、大して望みありさうでもない努力を戒める氣になつた。
「晩飯にやア早過ぎるが」と云ひながらも、二人は自分等で拵へた食事を始めようとしてゐる時、加集への訪問客があつた。
「鶴田君ぢやで」と、加集は肩をすくめて義雄を見た。そして低い聲で、「あの金が出來たんなら、うまいが、なア。」
飛び下りるやうにして迎へに行き、加集はこの鶴田と云ふ築地橋そばの人をも仲間に加へた。
「お約束の金は」と、鶴田はちよツと義雄に改まつて云つた、「いよ/\近々戻つて來ますから。」
「さうすれば、僕も」と、義雄の心では、その嬉しさよりも、寧ろお鳥の追跡を避けることが出來るのを、この場合、一番の幸ひだとして、「出發が直ぐにも出來るのです。」
食事が終つてから、三人は玉突に出かけた。そしてその夜は、義雄は加集と共に加集の二階へ歸つて來て、二人で一組の蒲團を引ツ張り合つて眠つた。
翌朝義雄が目を覺ました時、もう、加集は昨夜斷つてゐた通り、外出してゐなかつた。そして下の時計が十時を打つのを數へたが、自分は起きる氣にならなかつた――若し人間が人間を忘れ、自分が自分をどうでもいいとならば、家が人のであらうが、仕事が自分に迫つてゐようが、このまま斯うして、自分が寢飽きるか、人が追ツ拂ふかするまで、ぐツすり寢つづけてゐたいものだと。
渠は仰向けにからだを延ばして見た時、これまであくせくと考へたり、働いたりして來たことの結果をすべて吐き出すやうなあくびを一つした。そして自分が持つて來た書物を座蒲團で卷いた枕の方へ無意味に兩眼を流れ出で、兩方のもみあげのあたりに傳ふ、生ぬるい涙じるを手の平で押しぬぐつた。
また、うと/\して見たが、直ぐまた目が覺めた。下の印刷屋の格子戸が度々明いたり、締つたりする忙しさは、自分のあたまで通つて來た之までの忙しさと同じやうだと思つた時、今度格子戸を明けるものが若しお鳥であつたらどうだ? うか/\してゐて、なまなか柔術知りの女に寢込みでも襲はれたら?
兎に角、渠は思ひ切つてはね起きた。さうして下で顏を洗つてから、近所の牛乳屋へ新聞を讀みに行つた。樺太のカラの字だけにでも注意を集めるやうになつてゐる渠は、或新聞に、あちらの鑵詰製造の景氣が今年はよかりさうだと書いてあつたのを見ては、微笑しないではゐられなかつたが、誰れもかれもと小資本の製造所が出來て、その競爭の結果、原料なる蟹の値段があがるばかりだとあつたのには、少からず心配の念をいだいた。もう五月の半ばを過ぎたのだ。これから大切な六月一杯にかけて、早く效果を擧げさせなければ――
午後の五時頃まで待つてゐると、
「暑い、なア」と云つて、加集は歸つて來た。「二千五百圓の宅地をあの○○に」と、國から出た先輩の名を擧げ、「買はせようとしてるけれど、なか/\買はんて――ついでに、またあいつのところへ寄つて來たが、なア、ゐなかつたで。おれのうちを探してるのぢや、なア。ゆうべもおそくまで留守にして、歸つて來ると、直ぐ君のイオリンも三味線も皆たたき毀したさうぢや。」
「いツそのこと、あいつのからだもたたき毀れたら、肩拔けがすらア、ね。」
「きつう、おこつてるんぢやで――おツそろしいぞ、あいつのことだから――‐鼻にえらい皺を寄せて、きのふも殺す云うてたから、なア。」
この時、下の格子戸が明いたやうであつたが、
「加集さんはをりますか」と、靜かに氣取つた聲がしたのは、確かにお鳥だ。
「たうとう來やアがつた」と、義雄は低語したが、その調子が引き締つてゐるのを身づからもおぼえた。それから少しのぼせたやうに調子がぐらついて、「どうして分つたらう?」
「加集さん。お客さんですよ」と、下のかみさんがうは付いた聲をかけた。
「へ――さア」と立ちあがつたが、義雄の方をふり返り、「不思議ぢやが、――君は、まア早く歸れよ。」
義雄も急いで、机の原稿とそばの書物とをまとめて、風呂敷に包んでゐる時、お鳥は加集のあとからあがつて來た。
とツつきの三疊の間から、おもての六疊へ這入つたところに突ツ立ち、悲しみを忍ぶやうな、そして又憤りを堪へ切れないやうな顏をして、かの女は義雄を睨み下ろした。
「どうして、また、分つたのだ?」義雄は頬のぴく/\し出した顏にわざと笑ひを湛へさせて下から見あげた。疊の縱の長さほどは距離があつたが、若し飛びかかつてでも來たらと云ふ用意に、右の方を立て膝にしてゐた。
「畜生!」かの女は斯う一言して、全身の力を籠めたやうにからだを振つた。
「さう、さ――お前も畜生なら、おれも畜生、さ、然し、ね」と、向うを荒立たせないつもりで言葉を優しくして、「おれの方はよく分つた條件を加集君まで持ち出してあるのだぞ!」
「あんな者の云ふことなど聽かん!」
「ふ、ふん」と、加集はかの女の正面に當るところにあぐらの片膝を抱いて、にやり/\笑つてゐた。
「逃げないでも、直接に話をきめる!」
「こんな場合に、お前とおれとでかたを付けるなんて、出來るものか?――兎に角、おれは加集君にまかせてあるから、ね。」ちよツと加集を見て立ちあがりながら、「僕は失敬するよ。」
「では、おれがあとでよく云ふから心配するな。」
「逃げないでもええ! 云ふことがある!」まだ睨みつづけてゐて、かの女の息は迫つてゐた。
「おれは、もう、二度とお前の命令じみたことは受けないよ。」かう云つて、次の間へ行かうとした時、かの女は忍び切れなくなつて、兩手を固めて飛びかかつて來た。
「何をする!」義雄は本包みをかかへない右の方の手でかの女の左の手くびを握りとめた。見れば、方式通り、母指を中にして他の指でそれを固めてゐるが、こんな用意をしたにも似合はず、少しも力が這入つてゐなかつたので、「まだおれに手頼る氣でゐる、な」と感じた。そして強くふり放せば倒れさうなのを加減して、形ばかり勢ひよくふり放した時、自分の手と女の手とが逆につるりとすべり合つたので、その肌のすべツこさが惜めた。
が、時の勢ひがあと戻りをさせなかつた。全く未練の無いやうな強さを見せて、障子を締め切り、ずん/\下へ下りた。
自分の締めた障子が明くのを恐れたが、そんなけはひは無かつた。
采女町と木挽町四丁目と相對してゐる通りで、ここの印刷屋の横町を拔けると、直ぐ木挽橋へ出られた。義雄は通りの方を歸つて行くのを、二階から加集に見られるのもあんまり體裁のいいものではないと思つて、直ぐこの横町の細い溝板を渡つて、三十間堀のふちへ出た。
あとからお鳥が追ツかけて來はしないかと云ふ恐れにばかり追はれて、おづ/\と急いで橋の袂までは來たが、いよ/\これを渡らうとする時になつて、どうしても足が進まなかつた。追ツかけて來るものが無いだけ、寂しいやうな氣がして、二足三足戻つても見た。が、思ひ切つてまた一二歩歸り路の方へ進んで、ぴたりと立ちどまつた。この時は、もう、加集に對する嫉妬の念が胸一杯に充ち滿ちて、あたまがぼうとまでしてゐた。
「若しや、けふ、あいつが立ち寄つた時、お鳥にこと更らに自分の住所を知らせて置いて、直ぐあとからやつて來いと云つて置いたのではなからうか?」堪らないほどもや/\して來た胸を押さへて、渠は跡もどりをした。
印刷屋の格子をあけて締めた時には、自分の女房を寢取られてる現場を見た心持ちも斯うだらうと思へる程、義雄のあたまに血がのぼつてゐたのをおぼえた。
印刷機械の一部や印刷紙などを積み重ねてある間のはしご段を、づか/\とあがつて行つて三疊と六疊との間の障子をすツと明けた。注意したつもりのが、あまり勢ひよく明いて、柱にぴたりとあたつた。
「どうした」と、加集も多少びツくりして眉根をあげたのが、左右に引ツ張れて、ゆるい八の字に見えた。が、先刻と同じところに、同じやうな坐り方をしてゐた。
お鳥は、然し、横になつて、加集が車に乘る時に使ふ膝かけをその上にかけてゐた。
「燒けになつて、愼しみを失つたのか」と云つてやりたかつた。「いや、おれと別れたら、直ぐ困ることは知れ切つてるから、加集の意を迎へるつもりだらう」と思つた。
かうなれば、もう、嫉妬よりも侮蔑の氣が勝つて來て、義雄は多少心を落ち付けた。
「なアに、ね」と坐り込み、「矢張り、僕が直接に、おだやかに、云つて聽かせた方がいいと考へ直したから――」
「もう、云うて入らん」と、お鳥の上の膝かけが動いた。
「お鳥さんも大分わかつたやうだから、今少し氣を落ち付けさせる爲め、――少し――休むやうには云うたんぢや――僕も君の友人だから、君の爲めになるやうに計るによつて、なア、心配するな。」
「ぢやア、矢張り君に頼んで置くとしよう」と云つて、また立ちあがつた。もう、渠はどちらにも未練らしく言葉をつづけたくなかつた。
そこを出で、再び溝板の横町を通り拔け、木挽橋を渡り、竹川町で品川行きの電車に乘つた。多少すツとして輕い氣持ちになつた時、さツきから左の腕にかかへてゐる書物の重さをおぼえた。
「どこへ行つて仕事をするつもりだ?」かう云つて、自問自答をして見たが、どうしても自分の我善坊の家へ歸る氣にはなれなかつた。
宇田川町で電車を下り、御成門の方へ一直線に急ぎ、またの電車線を横切つて、自分がきのふまで陣取つてゐたところに行つて見た。が、そこへもあがる氣がしないので、格子を這入つたところの疊に腰かけて、それと無くお鳥の昨夜來の樣子を聽いた。
婆アさんが迷惑がつた顏つきをして、昨夜のあり樣を――加集にも同じ調子で語つたと思はれるやうに――語り、
「ゆうべ初めて分つたのですが、ね、あんなおそろしい方は、もう、眞ツ平です、わ――燒けになつていつこの家へ火付けをされないものでも無いのですから、ねえ――わたしも夜おそくまでたツた獨りでゐるものですもの、いざと云ふ場合にやア、女一人でどうすることも出來ません、わ、ね。」
「まさか、そんなことも――」
「いいえ、あなた、どうして――清水さんもまだあなたに未練があるやうですが、あなたもまだ思ひ切れないでせう?」
「僕は、もう、大丈夫ですよ。」
「尤もそれが奧さんの爲めです、わ、ね――清水さんのやうな方は、あなたもさん/″\もて遊んだのでせう、あの、加集さんにくツ付けておやんなさいよ、大した代物でもないぢやアありませんか、ね?」
「どうとも勝手にさせますとも!」
間代は既に今月拂つてあるので、それ以後自分の責任は無いからと云つて、義雄が立ちかけると、婆アさんは思ひ出したやうに、ゆうべ、我善坊の千代子がやつて來て、相變らずやき/\云ひながら、弟が病氣で入院したと云ふ樺太からの電報を見せたことを告げた。
それでも渠はこの坂を向うへ越える氣になれないで、再び御成門の方へ引ツ返した。
「自分の家が無くなつたのだ! そして例の金が揃はないぢやア、弟の生命もどうなることか分らない!」
かう心に叫んで、久しく行き絶えてゐた濱町の怪しい家へこの夜を明しに行くと決心した。そこで小仕事に短い原稿を書いて、本夜の費用にすればいいからと。