泡鳴五部作 02 毒薬を飲む女

14話 十四

3,957字 約8分 2016年10月22日 公開

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 翌朝、獨りになつてからまた一寢入りしたが、起きて近處の錢湯に行つて歸つて見ると、ゆうべから頼んで置いた使ひが歸つてゐて、或雜誌社からの稿料が來てゐた。費用を拂つて、なほ大分に殘りがあつた。

 電車に乘る前に、朝晝兼帶のちよツとした食事を濟ませ、竹川町で下車して加集のところへ行つて見ると、渠は外出してゐなかつた。

 また電車に乘つて三田の薩摩ツ原で下りた。渠は、鑵詰製造に必要なので釜を(こしら)へさせたところを思ひ出したからである。

 あの時、鑄釜(いがま)なら、値段も安くて、どこにでもあつた。然し時によると熱湯の勢ひで破裂することがあると云ふので、鐵をうち鍛へさせることにした。

 大人(おとな)の手でも殆ど二かかへもあらうと云ふ圓みの、その高さは脊延びをして中をのぞくほどの釜であつた。その鐵蓋は密閉して熱湯の壓力をしツかり押さへるだけの強さがあり、釜の横へ出して、また、その壓力測量機がついてゐた。

 いよ/\出來あがつたと云ふので、湯の代りに水を一杯に滿たせ、強力なポンプを以つてその上にまた水を送ると、壓力測量機の針がくる/\とまはつた。その機械の根を締めて、また一段の力を與へると、今度は釜と蓋との密閉部から、水が多くの細い線となつて吹き出し、あたりにゐる人々の顏となく、胴となく、裾となく、ちよツとの間にずぶ濡れにしてしまつた。あまり廣くもないおもて庭を逃げまどつた人々でも、こちらでポンプの手をゆるめた後までも飛ばツ尻を喰つてゐた。

 沸騰點以上なほ四五十度の熱と同樣の壓力をかけたのであつたが、これではまだいけないと云ふことになり、密閉部の工合をもつと緻密に直させた。

 そんな釜を厚い鐵板から鍛へあげさせたのである。それを、自分の身が形作られて行くやうな氣で、鐵工所へ見に行くのを義雄は毎日の樂しみにしてゐた。

 とんかち! とんかち! とんかち! そして赤くなつた鐵が段々に延びて行く。そして又延びて行くと同時に、半圓形になつて行く。

 これを見て、初めて、渠は實際にどんな形の物であるかを想像し得たが、二つの半圓形の厚板がまだ全圓に合はされないうちのこと、自分はお鳥の二階へ歸つて、晝間の工場であまりに目を見疲れさせた爲めに早寢をしたことがある。そして自分が熱鐵の板輪(いたわ)に圍まれて、ぐん/\と締め上げられた苦しみの夢を見た。

 とんかち! とんかち! とんかち! と云ふ音が遠く聽える氣がして毎朝目をさまし、食事が濟むと直ぐまた出かけた。

 やがて兩半圓は會合した。そしてその會合部は、上から下まで、多くの大きな(べう)を以つて固められた。そして又その鋲の個所々々も、一たび熱せられて、打たれて、そして鍜へられて、釜の本體と一緒になつてしまつた。

 それに底が出來た。また、蓋が出來た。そして渠はアミーバがその母體を離れたやうにとんかちの音に別れた。

 が、その音は今や自分の中にも(かす)かに響いてゐた。

 とんかち! とんかち! とんかち! 鐵工所の門前に近づくほど、足の歩みが急がれて、その音が段々と明らかになつた。

 門が見えると、渠は飛び込んだ。すると、同じやうな釜が一つ出來あがつてゐた。

「そりやアどこ行きか、ね?」

「これですか」と、知り合ひの職工が答へた、「これは蟹の方ぢやアごわせん――どこか東京近在の註文です。」

「何に使ふのだらう、ね?」

「さア――旦那も、どうです、今一つ發展しちやア?」

「うまく行きやア、ね」と、義雄は微笑した。あちらがうまく行けば、この秋から朝鮮へ行つて、すつぽんの鑵詰をやる計畫と研究とも出來てゐた。

 そこを出てから、また行く先に迷つた。

 愛宕町(あたごちやう)の大野を思ひ出したが、あの有樂座以來何だか興がさめてゐて、行く氣にならなかつた。

 で、佐久間町の辯護士なる友人を久し振りで尋ね、玉突やら晩餐やらを一緒にしてから、再び加集のところへ行つて見た。が、午前からあの女と一緒に出た切りまだ歸宅しないと云ふ下のおかみさんの話なので、ぢやア、ゆうべはとまつたのかと聽くと、さうだと答へた。

 ゐなければ待つてゐようともしてゐたのだが、果して案のぢやうなるこの事實が分つたので待つのも馬鹿々々しくなつた。

 時計を出して見ると、もう十時に近かつた。これからは、もう、ゆうべのところへ行くより仕方が無かつた。

 その翌朝、また水天宮前から電車に乘り、竹川町で下りて、性懲(しやうこ)りもなくまた行つて見ると幸ひに加集はゐたが、義雄を見て不安さうな顏つきをした。義雄はわざとお鳥のことは聽かずに、直ぐ金の話をした。

「どうだい、鶴田君は至急運ばせて呉れないか、ねえ?」

「さう()いても仕やうがありやへん――外へ融通してあるのが、今月末に返る云うてるのやさかい、なア。」

「ぢやア、そツちで少し都合が惡いから、今一ヶ月待つて呉れいとでも云つて來られりやア鶴田君もそれツ切りだらう――?」

「そんなことは無い筈ぢや――それよりや、君の方が九月一杯に返せんと、僕までが面目ないで。」

「おれの方は大丈夫だよ――然し大丈夫と云やア」と、義雄は少しどぎまぎするのをさう見せないやうにして、「あいつを物にしたのかい??」かう云つて、この點を突きとめさへすればもうお鳥との手切れ條件の一つなる治療條件は御免を(かうむ)らうと云ふ下心があつた。

「そんなことがあるもんか」と、輕く()らせようとした加集の顏には、どこかぼんやりしたやうな、とぼけたところが見えたと、義雄には思はれた。義雄がわざとらしくにや/\してゐるのに對抗したやうに、「そないに疑ふなら、今度轉宿させるところへ()て見よか?」

「行かうとも!」

「では、早う行かんとかち合ふで――けふの午後二時頃に移つて行く筈ぢや。」

「どこだい?」

「八丁堀の電車通りの裏手ぢや。」

「さア、行かう」と、義雄は立ちあがつた。「おれも二度とは直接に會ひたくないから、ねえ。」

「會うてたまるもんかい、僕の君に對する奔走が無駄になつてしまふぢやないか?」

 治療代はこツちで出し、本人はそつちで占領する――そんな都合のいい計算は人間その物の十露盤(そろばん)上には無いぞ、と義雄は云つてやりたかつた。

 加集が道々話したに依ると、お鳥が渠の居どころを知つたのは渠が義雄に紹介した或書生のハガキが殘つてゐたからであつて、かの女はその書生を尋ねて、加集のところを知つたのだ。

 二人は櫻橋で電車を下り、堀に添つて東へ入り、右に曲つた通りへ來た。

 一間ほどの窓格子の眞ン中に、一尺四方ばかりの額ぶちがかかつてゐて、その中に桃太郎や天狗やあかんべいなどの繪が書いてあつて、そのまた右に「百面相」と云ふ横長の看板が出たところがあつた。その格子に「明間あり」の紙札が張つてあつたのを加集はいきなり破り取つた。そして義雄を返り見て、低い聲で、

「ここぢや――失敬な奴ぢやないか、まだ札をはがしとりやへんのや、手附け金を取つてる癖に!」

「‥‥」義雄は默つてちよツと苦笑ひしたが、その金だツて、こちらがお鳥に自分等二人の日常費として來月十五日までの分を渡してある、その中から出したにきまつてると思つた。

 この百面相の窓格子のはづれと、どこかの倉との間に、一間四方あまりの空地があつた。そこにけち臭い氷屋の屋臺店が張つてあつた。そのよし()のかげに這入り、

今日(こんにち)は」と、加集は聲をかけた。そして窓の奧から婆アさんが一人、樹の濡れ縁のところへ出て來たのに向つて、「まだ來ませんか?」

「ええ、まだ――」

「もう、おツつけ來るでせう――君、この二階だよ」と、屋臺店の奧を高くゆび指した。

 下は物置になつてゐるが、雨ざらしの大工はしごを登つて見ると、六疊敷の座敷があつた。壁や天井裏はすべて新聞紙を張りまはしてあり、大きな大黒を書いた去年の柱ごよみと、石版()りの美人繪とが壁に向ひ合つてゐる。通りに向つた方は、家に付いてあがり口を取つたあとが一杯に窓で、そのそとに二三の盆栽を並べた臺が、日よけの爲めに掛け垂らしたよし簀から透いて見える。

 その簀の一端をあげて、義雄はそとへ出もしなささうなつばをしようとしたら、その下に氷店のあんこが伏せてあるガラス蓋が目にとまつた。で、渠は顏を引ツ込めて、奧の片隅の高い小窓のそとは何であらうかと思つてのぞいて見ると、隣りの押し迫つた屋根の上であつた。

「わざ/\ひどい所を探したものだ、ねえ。」

「でも、安いよつて、なア――いくらだと思ふ?」

「いくらだツて、もう、おれア――」

 そこへ二十四五の小綺麗なかみさんが茶を持つてあがつて來た。

「御主人はゐますか」と、加集はかの女に聲をかけた。

「けふは、○○の宮さんのとこへ招待されまして、つい、先刻(せんこく)出ましたが――」

「百面相ツて」と、義雄はまだ何のことか分らなかつたので、「どんなことをするのです?」

「をかしい藝人で」と、かの女は愛想笑ひをしながら、「ほんの、道樂が高じてこんな商賣をすることになつたのださうです。」

「きのふ、本人が」と、加集は得意さうな顏つきで、「どこかよんでくれる宴會でもあつたら、世話して呉れと云うてた。」

「そりやア何だか面白さうな仕事でせう、ね」と、義雄は笑ひながら。

「いえ、ほんの、道樂で――」

「藝が面白いよりや」と、加集が受けて、「本人が面白さうな人間ぢやて。」

「さうだらう、ね――そして氷の方もあなたのうちで――?」

「へい――」

「おい、一つやろか?」

「さア――」と、義雄は應じかねた。喉が渇いてゐて、こんな應對をしてゐるのさへ舌がくツ付き氣味であつたのだが、第一に何だかきたならしいやうな氣がした。第二に、また、ここにぐづ/\してゐられなかつた。「來ないうちに出ようぢやアないか?」

「では、おかみさん。」加集も立ちあがつて、「來たら、よろしう頼んます。」

 それから電車通りへ出て、二人は氷を飮んで別れた。

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