泡鳴五部作 02 毒薬を飲む女

16話 十六

6,049字 約12分 2016年10月22日 公開

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「まア、待つて」が氣になつてはゐたが、待つてやつて、拜み倒されてもそれまでのことだ。

「お前」の代りに、「あなたには」などと初めて改まつた言葉を使つて、これまで一層世話にはなつたが、今となつては、加集にも義理がある――ぶつなり、蹴るなりして、思ふ十分に意趣は晴らして貰ふ代り、あの條件通りを行つて呉れい! こんな工合に向うが出まいものでもなかつたらう――結局、馬鹿を見るところであつた。

「幸ひにも、けふと云ふけふこそ、下らない責任をのがれたのだ――この結果は早く誰れかに發表しなければ」と云ふやうな氣がしながら、義雄はふら/\と我善坊の家に歸つた。

 生垣の間から隣りの寺の緋鯉の池が見える室に入り、ヅツクの旅行(かばん)を出して、その中へまだ手のあツたか味が殘つてる原稿や書物を初め、その他に、今の原稿が終れば、直ぐ何かあとを書く爲めの參考書をあれやこれやとえらび入れてゐた。

「あなた、どこをぶらついてたのです、ねえ。」千代子の無作法な歩みの足音も聽えて來て、「あツちから電報が來たことは聽いたでせう!」

「聽いたから、あせつてるのだ!」渠はかの女を睨むやうにしてちらと見たが、かの女は敷居のそとに立つて、おづ/\と相變らずの氣違ひづらをしてゐた。渠は(ひそ)かに、「こいつに氣違ひ責めにせられ、あいつには刃物責めにせられ、もとはと云へば、たとひおれの仕出(しで)かしたことにしろ、たまるものかい」と考へた。

「それならいいでせうが、――あなたは旅行なさるんですか、また自慢さうにあんな女を連れて――!」

「清水とは、ね」と、義雄は飽くまで念を押してやるつもりで、あごを堅く突き出してわざとらしくあげ下げして、「とツくに手を切つたのだ!」

 かう云つた時、渠はふと自分自身を返り見ると、この千代子にかぶれて、自分までが氣違ひじみた空氣を呼吸してゐた。

 ここにだツて、渠は一刻もとどまる氣は出なかつた。

「それは初めから當り前のことでさア、ね――喧嘩か何かしたのでせう! 若しあなたの弟があツちで病死でもして御覽なさいな、あの人をあなたがあの女のために殺したも同然ですよ! あなたが、ね――あなたがですよ!」

「うるさい! 死ぬやつア、どうしたツて死ぬんだ!」渠はかう叫んで、「若しやあのお鳥も――」と云ふやうな疑惧(ぎぐ)の念が浮んだ。

 渠の精神はからだ中に顫へあがつた。そして八丁堀の堀端を歸る時氣になつたかの女の最後の一言が、今やまた耳の記憶から繰り返されて、あはれツぽく渠の胸に傳はつた。

「氣味がよかつた」と、私かに渠は自分を辯護し、かの「不如歸」劇で泣かせられるもの等のと同樣な安ツぽいあはれみの心などは踏みにじつてしまへと決心して、書物を七八册ねぢ込んだ革鞄を提げて立ちあがつた。

「車を呼べ、車を!」

「車なんか來ませんよ!」

「なんだと!」

「あなたはちつとも御存じないのですが、ね、呼びに行ツたツて、向うが、お前さんのとこは信用が出來ないからツて、ね――」

「‥‥」義雄はじろりとかの女を見詰めて、言葉が出なかつた。

「それほどまでにあなたのうちが困つてるのに」と、かの女は半ば哀訴の口調になつて、「あなたはちツともふり向きもしない氣ですか?」

「無論、さ!」力の拔けた聲だが、渠はなほ反抗せずにゐられなかつた、「おれにやア妻もない! 家もない! あの事業が失敗すりやア、おれ自身も無いか知れないのだ!」

「そんな無謀なことを云ひなすつたツて」などと云ひながら、かの女はあとを廊下のはづれまで追つて來たが、渠は自分で荷物をひツ提げて出た。

 我善坊を下つて西の久保の通りに出で、やツと辻ぐるまを見付けて、渠は手に提げた革鞄を車の蹴込みへ投げ込んだ。

 顏や脇の下の汗を拭き/\、くわツくわと照る太陽の下を走らせると、すツと輕くなつた自分の世界は却つて自分の世界でないやうに思へた。日は輝いてゐても、この數ヶ月來、滅多に心の晴天を仰いだこともなかつた渠には、あんまり明るい光の中を半ば自分が失はれて、取りとめも付かない。

 先づ心から落ち付けようと、自分のからだの住ひを車上で正して見た。すると目の前を横切つた一人の男の子が自分の總領息子の年輩であつた。

「かいるが鳴くから、かアいる」と云ひながら、ゆふ方よく外から歸つて來たものだが、或時自分の今乘つてるやうな車に敷かれて、手と足とを怪我した。若しあの時頸か胸かをでもやられたのであつたら――渠は自分の身になつて、ぞツとして目をつぶつた。

 すると、その子等の母がわさ/\と落ち付きもなく、しやりかうべにまで痩せこけて、子供を叱つたり、暮しのことを心配したりするあり樣が見えて來た。あの婆々アじみて――こんなことは、もう、考へたくもないので、目を明けた。

 若い婦人がからだの曲線を衣物のいい着こなしに表はして、顏を蝙蝠傘(かうもりがさ)で隱して行く。すると、お鳥はあれからどうしたらう――自分は、もう、全く傍觀的にだが、今一度行つて見てやらうか知らんと考へられた。

 これに、また、「まア、待つて」がからみ付いて來て、かの女の死んだざまが見たくなつた。若し死んででもゐて呉れりやア、自分も自分の關係を(はばか)らず天下にさらけ出し、かの女のどうせ死ぬべきものであつたこと、並に自分がどの點まで責めを負ふべきかを公表して、あとは誰れにでも勝手な判斷をさせてやる!

「然し、死ぬなんて――まさか――」あの加集さへあの場にゐなかつたら、かの女も手を擴げてもツと芝居をしただらう。自分も亦もツとかの女の心をゑぐれただらう。

 若い女を飽くまで試みるのも面白かつただらうにと云ふ氣になると、あの時滔々としやべつたことが前後の取りとめさへ無かつたことを思へて來た。

「二十歳をたツた二つばかり越えたに過ぎない女の爲めに、――おれもどうかしてゐたのだ! やり直しだぞ、お鳥! 待つてゐろ」と、力を入れて心に叫んだ。「お鳥――お鳥! お鳥、お鳥、お鳥!」

「さう足を踏みしめては困ります」と、車夫は走りながら後ろをふり返つた。まだあの女に迷つてゐるのかと云はれたほど、義雄は顏を赤くして澄まし込んだ。

 新橋停車場前の或休憇所に車を降り、荷物をそこに預けて置いて、電車に乘つた。

 氣が引けながらも、加集がゐたらいよ/\一喧嘩をする覺悟で行つて見ると、下の主人公が今お鳥の室から出て、はしごを下りるところであつた。

「こいつ、また、おれの遺利(ゐり)を奪ふ氣ででも――」義雄はむかツとした時、

「おう、旦那」と、主人は嬉しさうに下り立つて、「今あなたのお宅へ使ひを出しましたのですが、な――どうも、本人の云ふことがはツきり分りませんので――」

「どうかしましたか?」義雄はうツて變つて自分の世界が開けたので肩身が廣くなつた氣がしたと、同時に、「やツ付けた、な」と合點して、俄かに胸さわぎがし出したのである。

「まア、どうぞこちらへ――只今、やツとお休みになれましたから。」

 かう云つて主人が導くままに、義雄は百面相の客間へ通つた。

「アヒサンをやつたのぢやアありませんか?」

「えツ、そんな毒藥を!」主人はびツくりした聲を擧げると同時に、胸を()らせて左の手を輕く後ろの疊へ突き、そツちへ引ツ張れたやうに眼と口とを傾けた。そして下くちびるを少し受け口にして見せたが、直ぐもとの顏に直つて、「わたしは、また、御酒をめしあがり過ぎたのかと思ひましたが――」

「まだ醫者に見せませんか?」義雄は氣が氣で無かつた。

「いや」と、主人は渠の樣子を見て、わざとらしい落ち付きを見せて、「御心配にやア及びません――もう、一時間も前に來ましたから。然し、そばに一升徳利が出てゐたので――」

「ありやア、醤油入れでした。」

「それに、大層吐きましたから、な――多分、酒を飮み過ぎたのだらうツて、醫者は下劑をかけて歸りました。」

「そりやア、丁度いい思ひ付きでしたらう。」義雄はかう云つて、この、想像には描いてゐたが、いよ/\事實と聽いては一たび突然に驚かれた事實を、まだ物足りないやうな氣がした。

 これまでにも、かの女の留守、留守に、度々かの女の荷物を探して見た。一つは、他の男からの手紙でも來てゐはしないかと思つてだが、次ぎに、それよりも重大な理由は、國を出る時用意してゐると云ふこの毒藥の有無であつた。どうしても見付からないので、うそを云つてるのだとも思つた。また知り合ひの醫者などに、それと無く、これを飮むとどんなきき目があるか、どんな結果を呈するか、など云ふことを聽いてゐたのだ。

「分量が多過ぎて、却つて吐いてしまつたから、助かつたのでせう。あの藥は死ぬにも度合があつて、多いと吐きますから――また少しづつなら、健康劑になつて外國婦人などにはこれをわざわざ、使用するものがあつて、たとへば、宴會とか舞踏會とかへ行きます、ね、少しづつやつてゐると、そのききめがいつか現はれて、ぼうツとその顏がほんのり櫻色になるさうです。」

「道理で」と、主人は、はたと膝を打ち、「眞ツ赤にのぼせてゐました。酒の醉ひだと思ひ違へたのも、無理はないでせう。(さい)が氷をかいてゐましたら、どんと倒れたやうな音がして、二階でうん/\うめく聲がしたと御らうじろ。わたしがあがつて見ると、それでせう――うちのものまでが皆七顛八倒でしたぜ。」

「そりやア」と、義雄は微笑にまぎらせて、「おさわがせしました、ね。」

「全體、あの方はどうした人です」と、主人に尋ねられ、

「實は」これ/\と、義雄はそこの老母も出て來た前でありの儘をぶちまけ、「かうなつちやア、僕が少くともそれが直るまでは、看てやらなけりやアなりますまいよ。」

「人助けでさア、ね。」主人はまた胸を反らすやうにした。「加集さんには御名刺は戴きましたが、何だかちやらツぽこばかり云つて――あんな人は」と、鼻をつまむ眞似をして顏をしかめた。

「いや、さうまで薄情でも無いでせうが、ね。」

「それが、あなた」と、うち消すやうに首を一つ(やは)らかにまはして、襟を拔け衣紋(えもん)にして、「御失敗のもとぢやアありませんか?」

 その樣子も聲も、丸で、女がお客にあまえてゐるやうだ。

「なアに、失敗と云ふわけでもないのでせう、ね、ただ僕がまだあの子に愛情が殘つてゐて思ひ切れなかつたのが惡いのでした。」

「それもさうでせうが、な、女なんかいくらもありまさア――わたしのうちのでも、抛り出しさへすりやア、直ぐあとが二人も三人も待つてまさア。」

「これは惡くもない家柄ですが、ねえ」と、老母がそばから、

「道樂の爲めに、好きでこんな商賣をしてゐますんで――」

「百面相ツて、どう云ふことをするのです?」

「なアに、わけアないもんですが、な。」かう云つて、主人は次ぎの間から古行李を引きずつて來て、その中からいろんな(めん)やら道具やらを見せ、何でも手早く早變りをして、一人でいろんな人物になつて見せるのが藝だなどと説明する間にも、素顏にちよツと物を當てると、ひよツとこになつたり、おかめになつたりした。

「ただの鼠ぢやアあるめい」と、いつの間にか男之助になつたかと思ふと、面をちよツと裏返して、仁木彈正になり、卷き物を喰はへ、「ふ、ふ、ふ、ふ」と笑つた。そして、「これが○○の宮さん、○○○の宮さんのお氣に入りだから、ありがてい――どうか、あなたも御吹聽を願ひます。」

 馬鹿にされたやうな氣をして、その室を出て、義雄は二階へ行くと、お鳥はあたまだけ、枕の上に、こちらに向けて、氣だるさうに、

「來たの」と云つた。

「たうとうやツつけた、ね!」

「‥‥」かの女は顏をそむけた。涙聲で「どうせ生きてゐられへん!」

「おれに棄てられてか?」渠は冷然とそのそばに坐つた。

「‥‥」向う向きにただ(うなづ)いた。

「そして又加集に棄てられてだらう――?」

「‥‥」何の返事もなかつた。が、やがて獨り言のやうに、「死にさへすりやええのぢや!」

「さうだ、死にさへすりやア、おれが加集をも呼び付けて、墓地の奔走をさせ、おれも尋常に見送つてやつたのだが、ね、死にそくなつちやアまた問題が起るぞ。」

「起るも起らんも無い――あいつは、あたいが、わざと、世話が出けるか云うて念を押してやつたら、返事が出けなかつたさかい、追ひ返してやつた。」

「それ見ろ――誰れにだツて見限られらア、ね。」渠はかの女の精神が、もう、大丈夫正氣になつてゐることを認めた、で、語法を一歩進めて、「おれだツて、もう友人の手を付けたものを二度とは、可愛がれないよ――たとひ、お前の決心は精神に於いてお前を(きよ)めたものと許してやつても、ね。」

「可愛がつてなど貰はんでもええ!」

「うん、さう諦めてゐさへすりやア、おれはまた一肌拔いで、お前の處分を付けてやつてから出發するよ。」

 かの女は向うを向きツ切りであつた。なんにも喰べたくないと云ふ上に、からだの自由が利かなかつた。

 渠はかの女の便器を求めに行つたり、自分の食物を用意したりして、ゆふ方になつた頃、加集がのツそりやつて來た。

「また君ア來てるか?」ぶりりとして立つてゐる。

「君こそ來るに及ばないんだらう!」義雄は、火鉢にかけた物の下をあふぎながら、横ざまにねめ付けた。

「君も男子だらう――あれだけはツきりと僕に委託して置いて!」

「そりやアおれから云ふことだぞ――どうして君アおれのその委託を正直に實行しない? この本人の樣子を見ろ!」義雄は顎でお鳥の方を示して、「毒をあふいで死にそくなつてるぢやアないか?」

「‥‥」加集もかの女の寢姿を見やつて、ぎツくりと來たやうであつたが、見る/\惡人のやうな相を顏に描いて、立つてるからだを固めた。「貴さまアこれツ切りおれをあの女に近よせないつもりだ、な?」

「さうだ――君自身がその權利を、けさ、抛棄したのだ!」

「おれだツて、若しやとおもてやつて來たのぢや、人情は持つてらア――この二三日、大事な時間を棒にふらせやがつて!」

「口錢が欲しけりやア金でやる――友人呼ばはりするな!」

「畜生!」かう叫んで、加集は義雄の横ツ腹を蹴つた。

「なに、くそ!」義雄は立ちあがつて、加集を力一杯に壁の美人へ突き飛ばした。みしりと云つて、張り子板の音がしたので渠は下の人々に氣がねする氣になり、――また横たはつてゐる女の爲めをも思つた。

 で、勢ひを盛り返して來た加集の爲めに、義雄は組み敷かれて、また二三度方々を蹴られたが、こちらの手出しはさし控へた。

「壯士を二三人つれて來て、おれは貴さまとあの女とにあやまらせてやるぞ! 待つてやがれ!」

 加集はこちらを尻目にかけて、はしごを下り始めた時、義雄は言葉で追ツかけた――

「貴さまのやうな奴が、ね、自分の色女をおしまひにやア賣り飛ばすのだぞ!」

「賣り飛ばされるやうな女ぢや!」

「弱蟲!」かう云つて、お鳥は加集が行つてしまつてから、顏だけをこちらに向けた、「あたいが起きてたら、あいつを締めあげてやるのに!」

「‥‥」お前の爲めを思つて負けてゐたのだとは、心で云つたが、義雄には正直に發言出來なかつた。

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