17話 十七
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心配してゐるほどでもなく、加集は押し寄せても來なかつた。然し義雄は下の家族にも注意を與へて再び渠が來ても、あがらせるなと命じた。
室の入口なる半間のひらき戸へ、うち側から輪かぎがかかるやうにして、義雄は毎日、毎夜かの女の看護をした。そしてその傍らで書きかけの原稿を書き終つたし、また或新聞社へ行つて、樺太からあちらの通信をすることを引き受ける相談をも整へた。
二三日のうちに、お鳥のからだも段々自由が利くやうになつて、これまでとは打つて變り、義雄に對する情が忠實でこまやかになつた。そして、質物を出す話を渠がし出した時、
「あんな物はいつでもええ」と云つた。
義雄はまたかの女に對して、まだ望みありさうにそツとして置いたかの女優志願は、その實駄目であつたのだからとうち明け、かの女が近頃になつて寫眞屋になりたいと云ひ出した志望を容れ、その方の學校へ入れてやる手續きなどをした。
「これで、兎に角、お前との最初の約束は實行出來る、ね。」
「學校がきまつても、金がつづかにや駄目ぢや――」かの女は下のかみさんを思ひ出したかして、「下のはな、色女であつたのが、かみさんを追ひ出して這入つたんやさうや。」
「お前も、どこかそんないい口を見付けろよ。」
「あたい、そんなことせんでもええ!」
「獨りで立つて行けるかい?」
「その學校さへ卒業すりや――」
「あやしいもの、さ、ね。」
その月の末日になつて、加集がまたやつて來たが、今度は、いよ/\鶴田から借りる金が出來たと云ふ報告をしに來たのであつた。
義雄と鶴田とは、後者の家で、加集の立ち會ひで、貸借の手續きを完了し、その歸りに、義雄は立會人に正式以上の口錢をやつて、
「以後清水のゐるところへ往つてはならないぞ」と、命じた。
「君のいつか云うた通り、あいつは夜になると美人に見えるが、なア――僕だツて、あんな臭い女はいやぢや」と、加集は答へた。
このたツた一つの返事が、義雄のまだのぼせてゐた心とからだとに、ずツぷりと冷水をあびせかけた。
「アスタツマテ」と云ふ電報を、入院中だと云ふ弟をもはげますつもりで、樺太へ打つたのは、六月の一日であつた。そしてお鳥へは渠の歸京まで豫定三ヶ月の維持費を渡した。
二日の正午頃、お鳥だけが義雄を上野へ見送りに來た。かの女は、手切れの用意とはその時夢にも知らず買つて貰つたかのセルの衣物に、竹に雁を書いた羽二重の夏帶を締めてゐた。考へ込んでばかりゐて、口數を利かなかつた。
いよ/\乘り込むとなつて、停車場のプラトフオムを人通りのちよツと絶えたところへ來た時、かの女は低い聲でとぎれ/\に、
「あたい、もう、あんたばかりおもてます依つて、な、早う歸つて來てよ。」
「ああ――」と返事はしたが、義雄の心には、音信不通になるなら、これが一番いい時機だと云ふ考へが往來してゐた。そしてその方がかの女將來の一轉化にも爲めにならう、と。
然し窓のうちそとで向ひ合つてから、渠は右の手をかの女にさし延ばした、かの女は自分の左の方にゐる人々の樣子をじろりと見てから、目を下に向けて、そツと自分も右の手を出した。「三ヶ月素直に待つてゐられる女だらうか知らん」と疑ひながら、渠は握つた手を一つ振つてから、それを放した。そして、「あの八丁堀の家は、おれの云つた通り、きツとよすだらう、ね、加集に知れないやうに」と、念を押した。
「そんな心配は入らん!」
この優しいやうな、また強いやうな反抗の言葉が、この二十二の女の誠意に出たのか、それともこちらをいつも通り頼りない所帶持ちあつかひにした意なのか、――孰れとも義雄の胸で取れたり、うち消されたりしてゐる間に、汽車出發の汽笛が鳴つた。