10話 木枯の夜 一
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新古今十戒の歌の意味を誰が講釈して聞かせたか。父が自身にそれを発明しよう筈はないので、小坂部は先ず第一にその説明者のうたがいを、かの侍従の上に置いた。かれが父にきびしく責め問われて、とうとう其の歌の心を正直に白状してしまったのであろうと想像した。いずれにしても、父が小夜衣の謎を解いてしまった以上、今更なまじいにそれを包み隠すよりも、あからさまに何もかも打ち明けて、いっそ思い切らせる方がましであろうとも考えた。
「父上。」と、小坂部はしずかに言い出した。「小夜衣の歌の心、もう御承知とござりますれば諄うは申しますまい。これほどに手を換え、品を換えて、兼好の御坊にまでも頼みましたる末が、やはり小夜衣の返しとござりましては……。いかに燥っても狂うても、しょせんは望みのないものかとも存じまする。就きましては……。」
「この恋、思い切れと言うか。」と、師直はあざけるように言った。「お身に教えられるまでもなく、師直は思い切ったよ。思い切った証拠は一日か二日のうちによう判る。はは、一日か二日を過ごさぬうちじゃよ。」
今まで火のように燃え立っていた父の感情が、俄かに水のように冷えて鎮まったらしいのが、小坂部にはいよいよ不安に感じられた。一日か二日のうち――その謎をどう解いてよいかと、かれは思い煩らっていると、家来の一人が知らせて来た。
「三河守どのお越しにござりまする。」
それをしおに、小坂部は父の前を退がって来ると、長い廊下で三河守師冬に出逢った。会釈する妹を横眼にじろりと視たばかりで、師冬は無言で奥へ通って行った。彼のするどい眼がきょうは取り分けて神経質に晃っているのが小坂部の注意を惹いた。いつもの病気見舞以外に何か重大な事件が絡んでいるらしいことを、かれは早くも推量した。自分の部屋へ戻って見ると、侍従はもうそこにいなかった。使いに出た采女もまだ帰らないとのことであった。
物を書く小さい机の前に坐ったが、きょうの小坂部はいろいろ考えさせられることが多かった。途中で偶然出逢った眇目の異国の男のことも、胸の奥にしみ付いて離れなかった。塩冶の内室に対する父の心もまだ本当には覚られなかった。一日か二日のうち――その解けない謎も気がかりであった。しかも現在、かれが魂を最も強く引っ掴んでいるのは、かれと采女とのあいだに横たわっている結婚問題であった。
なよ竹の執筆を兼好法師にたのんで来て、父の機嫌のひどく好いのを窺って、かれは甘えるように父に訴えた。若い家来の本庄采女を自分の婿に決めてくれと、かれは父にねだった。この訴訟には師直も案外らしい眼を《みは》ったが、相手は自分の愛娘である。殊に場合が場合であるので、彼もさすがにそれを叱り付けることは出来なかったらしく、まずは曖昧のうちに承認の返事をあたえた。そのあいまいの口ぶりが少しおぼつかないので、小坂部は更に踏み込んで念を押すと、師直も結局たしかに承知したと言い切った。しかしそれは娘が膝づめの談判に余儀なくされたので、心の底からよろこんで承諾したのでないらしいことは、小坂部にもよく判っていたが、その以上にこの約束をたしかめる方法もないので、かれは仮りに父の詞を信用して、しばらくその成り行きを見ているよりほかはなかった。
その矢先きに小夜衣の一条が出来したのである。かれも侍従もあからさまにその意味を説明するを避けていたのであるが、師直はもうそれを覚ってしまった。物事がこう破裂して、かれが折角苦心して手に入れたこの「なよ竹」が、却って父の憤怒を増し、かえって父の感情を激させるような結果をもたらしては、それから惹いて自分たちの結婚問題の上にもどんな障碍を来たさないとも限らない。父は絶望の八つ当たりに、先夜の約束を反古にし、わが子の恋をも無二無三に踏みにじってしまうかもしれない。勿論、その場合には、自分にも相当の覚悟をもっていないではないが、小坂部も当然の人情として、自分の恋になんの邪魔をも生じないことを切に祈らない訳にはゆかなかった。
「姫上。又まいりました。」
かれの供をして双ヶ岡から戻って来た侍女の一人が、なんだか落ち着かない顔をして主人のところへ知らせに来たので、小坂部はしずかに向き直った。
「又まいったとは……。誰が……。」
「さきほど途中で行き違いました異国の眇目の男が……。」
小坂部の胸はあやしく騒いだ。
「なんという。あの異国の……あの眇目の男が……。ここの館へたずねて来たと……。」
「たずねて来たというでもござりますまいが、さっきから御門前をうろうろとさまようて、内を窺うているところを、お使いから戻られた采女どのが見咎めて……。」
彼を胡乱と見とがめて、采女は一応の詮議をすると、彼は明瞭の返答を与えない。ただ自分が年来たずねていた其の人にきょう測らずもめぐり逢って、この館の姫であることが判ったので、その跡を慕うてここへ来たというに過ぎなかった。しかも采女の疑いはまだ解けないで、更にきびしく詮議しようとしているところへ荏原権右衛門も来わせた。亀田新九郎、横井弥兵衛などという若侍も出て来た。かれらは怪しい眇目の異国人を押っ取りまいて、いよいよ厳重に詮議をはじめて、結局は敵の間者か細作のうたがいを以って彼を館の内へ無理無体に引き摺り込もうとするらしいと、侍女は小坂部にささやいた。
この報告をうけ取って、小坂部はいよいよ一種の不安を感じた。見識らない異国の眇目の男――たとい先方では何と言おうとも、こちらでは何のかかりあいのない人間である以上、彼が搦め捕られようと、拷問にかけられようと、ただその成り行きにまかせて置けばよいのである。そう思いながらも、一度彼の燃えるような片目の光りに強く射られて、自分の魂を怪しく魅せられたように感じている小坂部は、彼の運命を権右衛門らの手にゆだねて置くのが、いかにも心もとないように思われてならなかった。かれはその侍女に案内させて、すぐに館の門前へ出て見ると、眇目の男はさきの姿をそのままで、新九郎と弥兵衛の二人に両腕を取られていた。権右衛門は例の兵庫鎖の長い太刀の柄に手をかけて、何か尖った声で罵っていた。采女も白い歯で下唇を噛みながら、美しい顔を少しゆがめて、自分の足もとに引き据えられている異国の男を子細らしく睨みつめていた。
姫がここにあらわれたのを見て、四人は一度に会釈したが、それはほんの型ばかりで、彼等のするどい眼はやはりその異国の男の上にそそがれていた。
「その男が何としたのじゃ。」と、小坂部は誰に訊くともなしに声をかけた。
その涼しい声が耳にひびくと、今まで俯向いて大地を睨んでいたような男は俄かに顔をあげた。小坂部はさっきと同じように、その魚のような眇目と火のような片目とを見た。彼は侍どもに捕われている手籠めの苦痛と運命の危険とを忘れたように、さながら弥陀の来迎を仰ぐような歓喜の面をかがやかして無言にじっと小坂部の顔を瞰あげているのであった。
「こやつ、胡乱と見ましたで引っ捕え申した。」と、権右衛門は先ず答えた。「眇目の異国人が都の中にさまよう由はかねて聞き及んで居りましたが、館の御門前に立ち迷うて先刻より内を窺うは重々の不審と存じて、ともかくも取り押さえて吟味いたせど、あらぬことのみ口走りてちっとも埓あかず。さりとて彼の面付き、眼の配り、世のつねの乱心狂気ともおぼえませねば、何か子細ありげな奴、あらためて吟味いたすまでは館の内に繋ぎ置こうと存じまする。」
「それもよかろう。」と、小坂部も一応はうなずいた。「しかしその男はさきほども路で出逢うた。物狂わしい異国の人、深い子細がありそうにも思われぬ。このままに免してやってはどうであろうな。」
権右衛門も二人の若侍も無言で眼を見あわせたが、その不得心はかれらの顔の色にありありと浮かんでいた。采女も黙っていた。
「どうでも免すことはなりませぬか。」と、小坂部はまた訊いた。
「なり申すまい。」と、権右衛門は烏帽子の懸け緒を固く締めた頤を突き出した。「異国の者どもとて油断はなりませぬ。大明の使いはしばしば西国に往来して、菊池なんどの一族と好みを通ずるやにも承わる。かれらの或る者が菊池にたのまれて、間者の役目を勤むるなど、世に無いこととは申されませぬ。」
「さりとはきつい思い過ごしじゃ。」と、小坂部はほほえんだ。「いかに賢うても所詮は異国の人じゃ。物の言いようも風俗も違うた都へのぼって、何程の働きがなることぞ。まして間者とも細作とも確かに見きわめた証拠もないのに、あまりに物々しい詮議立ては、日本の侍の器量も推し測られて、異国への聞こえも恥ずかしい。のう、采女。そなたは何と思うぞ。」
わが名を指されて、采女も黙ってはいられなくなった。実をいえば、彼も他の人々とおなじようにこの怪しい異国の男をこのまま放してやるのを何やら不安に感じているのであったが、余人でない姫の意見に楯をつくほどの勇気をもたないので、彼は少しく躊躇しながら答えた。
「なにさま姫上の御意もごもっとものように存じられまする。取り留めた証拠もないに異国の人を詮議の拷問のと仰々しく立ち騒ぐは、その国への聞こえもござりまする。この上にかさねて不審の事どもがあれば格別、ともかくも今日はこのままに……。」
権右衛門の眼は妬ましげに光った。