小坂部姫

9話 小夜衣 三

3,509字 約7分 2012年1月28日 公開

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 双ヶ岡の(いおり)のあるじの姿は見えなかった。秋晴れのうららかな日和(ひより)にそそのかされて、遁世の法師もどこかへ浮かれ出したのであろう。竹の戸はもとより閉ざしてもないので、主従は縁先きまで入り込んで幾たびか案内を求めたが、内には何の返事もきこえなかった。中間は焦れて、裏口から廻って(くりや)らしい所を覗いたが、そこにも人のかげは見えなかった。いよいよ留守と決まったので、小坂部は中間に持たせて来た音物(いんもつ)を縁の端に置き列べさせて、自分はそっと内へあがった。かれは小机の上にある筆をとって、懐紙に「雪つもるなよ竹の」と書いて、それを丁寧にたたんで音物の上に置き添えて出た。

 なよ竹の――それは兼好が小坂部に頼まれて書いた恋歌であった。雪つもるなよ竹の――これは小坂部がその結果を兼好に報告する古歌であった。むかしの歌に「雪つもる松はぞ如何に嫋竹(なよたけ)の、おれぬ節こそ嬉しかりけれ」とある。兼好がそれを知らない筈はない。なよ竹の遂に折れなかったという報告はこれで十分であるとかれは思った。

 あるじのいない庵をあとに見て、いつものすすき原を越えて帰る途中、かの「なよ竹」も「雪つもるなよ竹」も、もう小坂部の心にはなかった。かれの心を支配しているものは、異国の眇目の男から突然に投げ付けられた一種の怪しい謎であった。勿論、彼の言うことは真面目に受け入れるべきものでは無かったかも知れなかった。大明の国使にしたがって来たなどというのは跡方もない嘘かも知れなかった。しかし小坂部の疑いは、彼が何のためにそんな嘘をつくかということであった。いわれも無くして取り留めもないことを口走ったとすれば、しょせん彼を一種の気違いと認めるのほかはなかったが、小坂部はまわりの人々とおなじように、ただ無雑作に彼を気違いと決めてしまう気にはなれなかった。仮りに気違いであるとしても、彼は普通の乱心狂気でない、おそらく何かの宗教を盲目的に信仰して、その強い信仰から他目(よそめ)には物狂わしく見えるようにもなったのであるまいか。あるいは異国の邪宗門を信仰する一種の邪教徒ではあるまいかと、小坂部は想像した。

 彼が尋ねているものは、主親(しゅうおや)のかたきでもない、家の宝物でもない。彼ははっきりとそれを明かさなかったが、彼は自分の信仰する神の指図によって、その神の前にささげる生贄を求めているらしくも思われた。そうして、その尋ねている生贄は小坂部であるらしくも思われた。彼のものすごいほどに輝いていた片眼の光りを思い出して、小坂部は言い知れない怖れを感じた。一度(みこ)んだら必ず逃がすまいとしているような、いかにも執着の強そうな眼の光りと顔の色――その印象が小坂部の胸に深く刻み付けられて、かれの恐怖はだんだんに強く大きくなって来た。

 かれは黙って俯向いて歩いた。供の者共もやはり黙って付いて来た。野路を越え、田圃みちを過ぎて、もとの四つ辻へ戻って来た時には、そこにもうかの眇目の男の姿は見えなかった。

「あの気違いの乞食め。どこへ行き居ったか。」と、中間はあたりを見廻して言った。「あのような奴めが都に徘徊するは世のためにも良うござらぬ。搦め取って繋いで置くか、追い放すか。なんとか仕置きをせねばなりますまい。」

「いや、いや、捨てて置いたがよい。きょうのことは館へ戻っても、沙汰すること無用じゃぞ。」と、小坂部はかれらに言い聞かせた。

 もう一町ばかりで堀川の館へ帰り着くというところで、足早に来る若侍に出逢った。彼は本庄采女であった。

「おお、お戻りでござりましたか。」と、采女は先ず声をかけた。

「采女、どこへ……。」と、小坂部は俯向いていた顔をあげた。

「若殿お館へ……。」

 言いかけて、彼は供の者どもの手前を憚るらしく、そっと小坂部を眼で招くと、かれは心得て摺り寄った。二人は路ばたの柳のかげに立った。

「早速ながら兼好御坊の返事は何とござりました。」と、采女は小声で訊いた。

「兼好御坊は不在であった。」

「ほう、不在……。」と、彼は美しい顔を少ししわめた。「では、かの歌の講釈、なんとも確かには相判りませぬな。」

 小坂部は無言でうなずいて見せると、采女は低い溜め息を洩らした。

「さりとは是非ない儀。実は御不在の間に大殿の御気色俄かにあしゅうならせられて……。」

「や、御病気が募られてか。」

「いや、御病気とはお見受け申されまぬが、何やら御機嫌が散々にならせられて、俄かに武者ぞろえの御用意を仰せ出されました。若殿へもそのお使いにまいりまする。」

「火急の武者揃え……。」と、小坂部もおなじく眉をよせた。「して、その敵は……。」

「判りませぬ。」

 彼は不安らしい眼をして小坂部の顔を見た。

「何かの注進でもあったのか。」と、かれはまた訊いた。

「いや、なんの注進も参ったようには存じませぬ。お前さまがお館を出られますると、やがて荏原権右衛門が大殿の御前に伺候して、何か密々に言上いたして居りましたが、それから殿の御機嫌が変わらせられて、お側の者どもを遠ざけて暫し御思案の末に、俄かに仰せ出されました武者揃え……。誰も彼も寝耳に水で、敵はいずこに居ることやら……。」

 これだけの報告では、小坂部に取っても寝耳に水で、何が何やら一向に判らなかった。この頃の世の習い、いつどこでどんな(いくさ)が始まるやら、もとより見当は付かなかったが、それにしても余りにも火急の沙汰である。四国西国の敵は遠い、北国の敵も今日あすに都に攻め上って来ようとは思われない。殊にどこからも注進をうけ取ったというでもなく、権右衛門一人の密告に因ってすぐに武者ぞろえを触れ出すというのは、どう考えても呑み込めないことである。しかしいつまでここで評議をしていても果てしがない。殊に軍陣の機密は女子(おなご)どもの知るべきことでもないので、小坂部は不安ながらに采女に別れた。

 館へ帰って、居間へ入って、かれは衣服を着換えようとしていると、侍従があわただしく(ころ)げ込んで来た。かれは侍女どもを遠ざけさせて、小坂部にささやいた。

「姫上。お前さま御不在の間に一大事が起こりました。」

「それは采女に聞きました。」と、小坂部はしずかに言った。「俄かに武者ぞろえのお触れが出たとやら。」

「そ、それでござりまする。」

「それが何とした。」

 こちらが落ち着いているほど、相手は()いた。侍従の顔には藍を染めていた。

「お聴きなされませ。権右衛門どの御前へ出まして……。」

 権右衛門が父の前に出て、いったい何を言ったのであろうか。慌てている侍従を取り鎮めて、小坂部はその子細をしずかに訊きただそうとする時に、侍女がかれを呼びに来た。

「殿が召されまする。姫上お戻りならば直ぐにまいれとの御意(ぎょい)にござりまする。」

 呼ばれて起ち上がろうとするかれの袂にしがみついて、侍従は必死の泣き声を立てた。

「一生に一度のお願い、何とぞわたくしの命乞いを……。命ばかりは……命ばかりは……お願いでござりまする。」

 小坂部は呆気(あっけ)に取られた。さっきは眇目の男といい、今は采女の使いといい、侍従のこの有様といい、何が何やら判らない出来事ばかりが繰り返されるので、かれも何だか夢のように思われたが、ともかくも侍従を好い加減になだめて、早々に父の前に出て見ると、師直の気色は想像以上に(あら)かった。彼は傷ついた虎のように(たけ)っていた。

「小坂部。遅かったぞ。兼好めは何と申した。」

「あいにくに不在でござりました。」

「物の用にも立たぬはやはり手書きじゃ。」と、師直は罵った。「不在でもよい。もう何もかもみな判った。重きが上の小夜衣は『さなきだに重きが上の小夜衣、わがつまならぬつまな重ねそ』とある、新古今十戒の歌じゃ。」

 小坂部はじっと父の顔を見直した。重きが上の小夜衣を衣小袖の所望と勘違いしているほどの父にむかって、そんな講釈を誰が教えて聞かせたのであろう。ゆうべ侍従からその歌の返しを聞いた時に自分はもう意味を覚っていたのであるが、父がそれを知ろう筈はない。知らなければこそ、自分にも問い、さらに兼好法師のもとへも問いにやったのである。その父が自分の不在の間に誰から教えられたのか。権右衛門もそんなことを決して知ろう筈はない。彼はまるで無学といってもよい位の人間である。あるいは侍従がうっかりと口を(すべ)らせて、父の憤怒を惹き起こしたのではないか。そうして、自分に救いを求めたのではないかと思いあたった。いずれにしても、父が小夜衣の歌の解釈を十分に会得(えとく)してしまった以上、小坂部は今更それを取りつくろう余地はなかった。

 師直の大きい眼も火のように(ひか)っていた。しかしそれは先刻の眇目の男のように、小坂部の胸を射透す力をもっていないらしかった。

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