20話 天主閣 二
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追っ手がこれほどに撃ち悩まされている間に、眇目の男は采女を自分の肩に引っかけて、片手に小坂部の手をひいて、暗い沼のほとりを足早に立ち退いた。采女の息づかいが何とも心もとないので、小坂部は暗い中で訊いた。
「采女。怪我はなかったか。」
「叱っ。」と、男は叱るように制した。
采女は答えなかった。それがいよいよ小坂部の不安を募らせたが、何分にも自分たちのうしろには追っ手を控えているので、かれはいたずらに不安の胸をかかえながら、暗闇を迷って行くよりほかはなかった。沼のほとりを行き過ぎて、小高い丘をあえぎながら登ってゆくと、ここにも黒い社のようなものが立っていた。やしろの前には池があった。ここまで来て、男は初めて立ち停まった。
「もういい。落ち着いてお休みなされ。」と、彼はしずかに言った。そうして肩にかけている采女を土におろした。
それを待ちかねたように、小坂部は探り寄った。かれは暗いなかで男の名を呼んだ。
「采女……采女……。」
呼んでも返事がないので、小坂部は探りながらに這い寄って、男の身体を膝の上に抱え起こすと、かれの手先きに触れた男の頬には少しの温か味もなかった。口や鼻に手をあてて窺うと、微かな息もかよっていないらしかった。なまぐさい血の匂いがかれの鼻にしみた。
「もし、異国のお人……。采女はもう……。」と、小坂部は声をふるわせて言った。
「もう息はござらぬか。」と、男はやはりしずかに言った。「深手のようには思うたが、ここまで担いで来る途中で息が絶えたと見えまする。」
「采女……采女……。」
小坂部は男の耳に口をよせて呼びつづけたが、采女はなんとも答えなかった。何をいうにも漆のような深い闇があたりを一面にとざしているので、かれは自分がしっかり抱えている男がどんなむごたらしい姿になっているのかを知ることも出来なかった。
「もし、早く燈火を……。焚火をしてくださりませ。」
「焚火はならぬ。燧石をどこやらで落としてしまいました。」と、男は暗いなかで冷やかに答えた。
小坂部は失望した。かれはふるえる手先きで采女の顔や身体を撫で廻すと、その髪は顔や襟に乱れかかっていた。小袖もところどころ斬り裂かれて、肩や胸のあたりには生々しい血汐がねばり着いているらしかった。大勢の敵を相手にして、彼は数ヵ所の深手を負ったのであろうと想像しながらも、小坂部はそのほんとうの姿を見定めることの出来ないのをもどかしく思った。
「燧石はなくとも、何か火を焚くすべは……。」
「さあ。」と、男はやはり冷やかに答えた。
いよいよもどかしくなって、小坂部は起ちあがった。この社のような建物の中に燈明か燈籠のたぐいはあるまいかと、かれは伸び上がって覗いて見たが、闇は奥までも沁み込んで、そこには秋の蛍ほどの光りも見えなかった。小坂部はまた失望して、くずれるように男の死骸のそばに坐ってしまった。しょせん生かす術はないと知りながら、かれは男の死に顔をしみじみと覗きたかった。
眇目の男に誘われて、采女と一緒に都をぬけ出した――今から思えば、それがもう夢のようであった。それから方角も判らぬところを迷いあるいて、侍従はまず川の底に沈んでしまった。つづいて今夜は塩冶の人々のほろびる姿を見せられた。それがやがて我が身の上になって、采女ともこうして永久に別れることになってしまった。何事も夢である。思えば思うほど怖ろしい悪夢である。自分はやはり堀川の屋形に住んでいて、こんな悪夢に魘われているのではないかと、小坂部は疑った。
かれの眼の前は俄かに明かるくなって、そこには林をなした桜が美しく咲き乱れていた。春らしい日の光りがうららかに輝いて、どこからで小鳥の歌う声もきこえた。桜の梢を越えて、うす緑の山が幾重にも重なっているのが遠く仰がれた。交野か、嵯峨か、なんでも一度ならず見たことのある景色だとは思いながら、小坂部はそこが何処であるかをはっきりと思い出すことが出来なかった。あるいは今日の昼にたどって来た路ではないかなどとも考えているうちに、桜の間をくぐって若い美しい侍の姿があらわれた。このごろ都で流行るだんだら染めの薄小袖――それが采女であると知った時に、かれは魂がとろけるほどに嬉しかった。かれは軽い袂を胡蝶のようにひるがえして、男のあとを追って行った。袖と袖とが摺り合うように近付いた時に、二人の手はいつか握り交わされていた。二人は眼と眼で笑ったばかりで、なんとも言わずに列んであるいた。去年か今年か、なんでも曽てこんな楽しい記憶があったように思いながら、小坂部はそれが何時のことであったかを、はっきりと思い出すことが出来なかった。
さみだれらしい雨がしとしとと降っていて、夜は蛙の声に静かに更けてゆくらしかった。経脚のような小机に倚りかかって、何かの歌集を読んでいる若い女の姿が小坂部の眼の前に浮き出した。縁をたどって来る足音が軽くきこえて、明かり障子の前にとまると、女は読みさしの歌集をかいやって、表の方に眼をくばった。燈台の灯に照らされたその女の顔は、かれ自身であることを小坂部は初めて知った。それと同時に、若い男――桜の林の中で見いだした若い美しい男の顔が、ほの暗い燈台の前にまぼろしのようにあらわれた。二人はここでもやはりなんにも口を利かなかった。どこかの隙きから洩れて来る夜風に燈台の弱い灯はゆらゆらと顫えて、人を酔わすような空の匂いが部屋いっぱいに薫っていた。
まぼろしの絵巻はそれからそれへと繰りひろげられて、小坂部は夢のなかで夢を見ているようにも思った。そのまぼろしの影がだんだんに薄れてゆくと共に、かれの魂もだんだんに消えて、自分のからだが空洞になってゆくかとも思われた。かれはそのまぼろしを追い捉えようとする気力もなしに、うつろのからだをかかえてそこに俯伏してしまった。
かれの魂がもとのからだに戻った時に、小坂部は小さい田舎家の奥に寝かされていることを発見した。床には荒筵を敷いて、棚には素焼の壺などが二つ三つ乗せてあった。土間には炉を切って生木がいぶりながら薄紅く燃えていた。表はもう暮れかかっているらしかった。
誰かがここまで運び込んで、かれを横たえて行ったに相違ない。かれの耳の下には痛い木枕があてがわれていた。まだ本当に夢からは醒め切らないような心持で、小坂部は半身を起こしながらあたりをうかがうと、そこらに人の影は見えなかった。軽い熱でもあるように、小坂部は頭が痛んで喉が渇いた。かれは鈍いような手足を無理に働かせて、床から土間へそっと這い降りて、何か飲むものはあるまいかと透かして覗ると、土間の隅には大きい甕のようなものが据えてあった。立ち寄って覗くとその甕の内には七分目ほどの水が汲み込んであるので、かれは両手に掬ってしたたかに飲んだ。飲んで少しはさわやかな気分になると、かれはからだの疲れが一度に発したように、よろよろと立ち戻って床に腰をおろした。
ここが何処であるか、どうしてここまで運ばれて来たのか、かれには無論に判らなかった。かれは痛む頭をかたむけて、努めて自分の記憶を喚び起こそうとしたが、采女の死――それから後のことはどう考えても思い出せなかった。自分をここへ連れて来たのは、おそらくかの眇目の男であろうと推量しているものの、その男は自分をここへ置き捨てて何処へ立ち去ってしまったのか。ここは何者の住家であるのか。小坂部にはなんにも想像が付かなかった。からだはいよいよ熱って来て、熬つくように喉が渇くので、かれはよろめく足を踏みしめながら、ふたたび水甕のそばへ歩み寄ろうとする時に、暮れかかる表から一人の男が影のように入って来た。
「おお、醒められたか、お気合いはどうでござります。」
それは眇目の男であった。それに答える前に、小坂部はまず甕の水を幾たびか掬って飲んだ。男は黙ってそれを眺めていたが、やがて土間の隅から枯枝をかかえ出して炉に押し込んだ。
「ここはなんという所でござりまする」と、小坂部は息をつきながら訊いた。
「ここは播磨路……姫山でござります。」
姫山は今日の姫路である。ここが姫路と呼び換えられたのは豊臣時代からのことで、南北朝時代には姫山と呼ばれていた。播磨路――姫山――それを聞かされて、小坂部は少しく驚かされた。
「おお、いつの間にか播磨路まで……して、采女は……。」
「亡き人を伴うては道中の難儀、かしこに埋めてまいりました。」
「かしことは……。」
「采女殿の討たれた場所から程遠からぬ丘の上、古い社の池のほとりに……。」
「その時、わたしはなんにも知らなんだであろうか。」
「ただ夢見る人のようでござりました。」
と、眇目の男はほほえんだ。「それからわたくしが肩にかけ又ある時には路ゆく百姓の馬の背を借りて、ようようこれまで御案内申しました。」
それで自分がここまで運ばれて来た子細はたいてい呑み込めたが、采女に別れて自分ひとりがここへ送られて来てなんとなる。その時に自分が正気であったらば、こんなところへ連れて来られるのを無論に拒んだに相違ない。采女の亡骸をしっかりと抱えて、自分も生きながらに一つ穴へ葬られることを願ったに相違ない。采女と離れまいと思えばこそ、都を立ち退いて行くえも知れぬ旅をつづけているのであって、自分ひとりが何をめあてに、何を楽しみに、こうして生きているのであろう。それを考えると、小坂部は遠い此処までわざわざ自分を送って来た異国の男を却って怨めしいようにも思われて来た。
「異国のお人、わたしはこなたに頼みがある。どうぞわたしを送り戻してくだされ。」
「京へ戻らるるか。」と、男はしずかに言った。
「いや、京までは戻りませぬ。今も言うた采女の死に場所、その亡骸を埋めたところまで……。」
「戻ってなんとせられます。」
「戻って……ともかくも一度戻った上で……。」
「戻った上で。」と、男は鸚鵡返しに言った。「折角ここまで落ち延びましたに、再びもと来た路へ引っ返して、二度の追っ手に出逢うたらなんとなさる。采女殿の亡骸はわたくしが確かに埋めてまいりました。御懸念は無用じゃ。」
「でもあろうが、ともかくも……。」と、小坂部はせがむように言った。「采女に離れて、これから何処へ行きましょうぞ。」
「いや、ゆく先きはある。」
眇目の男は力強い声でおごそかに言った。