珊瑚集 仏蘭西近代抒情詩選

3話 二(2)

7,165字 約14分 2021年12月3日 公開

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然(しか)しその糸車ばかりは

何処(どこ)かで蜂の鳴くやうに、

高く低く遠く近く

呟(つぶや)き唸(うな)つて

恰(あたか)も黄昏(たそがれ)の糸をつむぐがやう。

高い処にかゝつてゐる時計は

鱗形(うろこがた)の彫(ほり)をした黄楊(つげ)の箱から、

消え行く時間に又一時間を加へ、

夜半(よわ)の十二時になるまで

時は次第々々に進んで行く。

すると桃色と灰色の着物きて

煖炉の傍に黙つて坐つてゐた「月日」は

立上つて消えた火を掻(か)き起す。

希望の焔(ほのお)はパツと燃え上つて、

黒ずんだ敷瓦(しきがわら)を赤く色付け、

凍(こご)えた「月日」の手先をあたゝめた。

私は早くも這入(はい)つて来る「時」の入口から、

「月日」の新しい顔が私の思想に向つて、

微笑んでゐるやうな心持がした。

暮方の食事  シヤアル・ゲラン

 歌ひながらに恋人は、飛ぶ蜂の翅(つばさ)きらめく光のかげ、暮方の食事にと、庭の垣根の果実(くだもの)と、白きパン、牛の乳とを準(ととの)へ置きて、いざや、寄(より)添ひて坐らんと、わが身のほとりに進み来ぬ。

 雨は晴れたり。空気はうるほひ、木立の匂(にお)ひはみなぎりて、明け放ちたる窓の外、木葉(このは)に滴る雫(しずく)の音は、室(へや)のすみ、いづこと知らず啼(な)きいづる、虫の調(しらべ)にまじりたり。

 食卓に肱(ひじ)つきて、さゝやかなる料理の皿もその儘(まま)に、二人ともども思ひに沈めば、言葉もなく唯(た)だ折々に、恋人は、吹く風の冷き吐息に打顫(うちふる)ふ、あらはなる其(そ)の腕を、わが唇の上によこたへき。

 くもりなき水晶の花瓶(はながめ)や、可笑(おか)しげにふくらみて、二人の顔のうつりたる、円(まろ)き其(その)横腹の面(おもて)には、窓なる額縁に限られて、森の茂りと、古里(ふるさと)の空の画(え)こそ描(えが)かれたれ。

 かしこにぞ、秋の空は紅(くれない)に悲しめる。あゝ、長閑(のどか)なるなつかしき此(こ)の恋の一刻(いっこく)よ。いつしかに黄昏(たそがれ)は、花瓶の面(おもて)にうつる空の色、二人が瞳子(ひとみ)をくもらして、さゝやかの二人が世界の、物の彩色(あいろ)を消して行(ゆ)く。

 わが顔押あてし、恋人の胸はとゞろけり。吹く風ぬれたる木立を動かせば、想(おもい)に沈める二人は共に突(つ)とさめて、木(こ)の実(み)の庭に、落(おつ)る響(ひびき)に耳を澄ます。

 かくて、吾等(われら)二人は、過来(すぎこ)し方(かた)をふりかへる旅人か。また暮れ行(ゆ)く今日の一日(ひとひ)を思ひ返して、燃え出(いず)る同じ心の祈祷(きとう)と共に、その手、その声、その魂を結びあはしつ。

道のはづれに  シヤアル・ゲラン

道のはづれに

日はしづむ。

手を取らん、

接吻(くちづけ)せしめよ。

疑へる心の如(ごと)く

この泉は濁りたり。

渇けるわれに

君が涙をのましめよ。

日は暮れたり。

鐘が鳴る。

われにあたへよ、

君が胸打ふるふ其(その)恋を。

道はくだる。

幾里と長き真白の帯。

青き小山(こやま)の

坂道つきぬ。

たゝずまん。行手(ゆくて)なる

森をながめよ。

屋根はかすみて

村は夢む。

わが眠らんとするは

彼処(かしこ)なり。扉(とぼそ)のかげ、

落(おつ)る木(こ)の葉(は)に埋(うずも)るゝ

君が黒髪に抱(いだ)かれて。

ありやなしや  シヤアル・ゲラン

よしや反響のきかれずとも、物には凡(すべ)て随(したが)ふ影あり。

夜(よる)来(きた)れば泉は星の鏡となり、

貧しきものも人の恵(めぐみ)に逢ひぬべし。

澄みて悲しき笛の音(ね)に土墻(ついじ)は立ちて反響を伝へ、

歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、

蘆(あし)の葉は蘆の葉にゆすられて打顫(うちふる)ふ。

憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心(ひとごころ)、

あゝ、そはありやなしや。

四月  ギユスタアヴ・カン

あゝ花開くうつくしき四月よ。

されど若(も)し我が恋人われより遠く、

北の国なる霧の中にあらば、

何かせん、四月の新しき歌、

四月の白きリラの花、野ばらの花も、

梢(こずえ)を縫ひて黄金(こがね)と開く四月の日光(ひかげ)も。

あゝ花開くうつくしき四月よ、

わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。

あゝ花開くうつくしき四月よ。

恋人来れり。

四月のリラの花、黄金なす四月の日光。

始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。

あゝ花開くうつくしき四月よ。

ロマンチツクの夕  伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユ

 夏よ久しかりけり。われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵(こよい)は遂(つい)に打ち負けて、身中(みうち)つかるゝまでの快(こころよ)さ。

 われ小暗(おぐら)きリラの花近く、やさしき橡(とち)の木蔭(こかげ)に行(ゆ)けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如(ごと)し。

 よろづの物われを惑(まどわ)しわれを疲らす。行(ゆ)く雲軽く打顫(うちふる)ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来(きた)る。

 列車は過ぎたり。燃(もゆ)るよろこびよ。その響(ひびき)空気をつんざく。神経は破れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。

 あゝわれ此宵(こよい)、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチツクなる事柳(やなぎ)のかげにも優りたる吾(わが)心の懶(ものう)き疲れを、かの人は吸ふべきに。

 われ彼(か)の人に、「誘(いざな)ひしは君ならず。そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如(ごと)くにふくれしむ。

 されど君はあまりに若ければ、黄金(こがね)の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん夜(よる)にのみ。

 あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜(すす)り泣きの声、烟(けむ)りし空に上(のぼ)り行けり。

 うるはしき夜のみ眺めて語りたまふな。傷(いたま)しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん唇に、消えも失せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯(ただ)泣きたまへ。」と語るべし。

九月の果樹園  伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユ

 炎暑は地平線をくもらしたり。夏のあつさ。やはらかき毛織物。空気は重く閉(とざ)して隙間(すきま)もなし。いさましく機織(はたお)る響の如(ごと)く、蜜蜂(みつばち)の群は果実(くだもの)の匂(にお)ひに喧(かしま)しくも喜び叫ぶ。われその蒸暑き庭の小径(こみち)を去れば、緑なす若き葡萄(ぶどう)の畠中(はたなか)の、こゝは曲りし道の果(はて)。家の戸口は開かれて、鍬(くわ)、鋤(すき)、如露(じょうろ)なぞは、黄(きいろ)き日光(ひかげ)に照されし貧しき住居(すまい)の門の前、色づく夕暮の中(うち)に横(よこた)はりたり。

 われ、凉しき隠家(かくれが)の中(うち)に進み入れば、果実の匂(におい)のいかに清凉なる。思はずためらひて、耳を澄す。ひやゝかなる円天井(まるてんじょう)の陰には、そよとの風もなく、あたり蕭条(しめやか)に、心自(おのずか)ら長閑(のどか)なれば、屋根低く凉しき尼寺か。夏の匂の漲(みなぎ)り流るゝ、幽暗なる地下室にも譬(たと)ふべけん。庭と水との吐く熱気は、こゝに閉されて休み息(いこ)へり。あゝ。寺院の静寂、清浄の安眠よ。

 新しき梨(なし)と林檎(りんご)の実とは、果樹園の群を去りて家の棚の上、空しき影の中(うち)に熟してあり。その酸(す)くして甘き味(あじわ)ひは滴(したた)り、香気は池の水の如(ごと)くに沈みて動かず。鳴きつかれし細腰蜂(ゲエプ)の唯(ただ)一つ、物音遠く静かなる、狭き硝子窓(ガラスまど)の四角なる面(おもて)に、黒き点を描(えが)きたり。

 おびたゞしき果実の匂ひかな。この匂は藍色(あいいろ)の大空(おおぞら)と、薔薇色(ばらいろ)の土とを以(も)て、暑き夏の造り醸(かも)せしものなれば、うつくしき果実の肉の中(うち)には、明け行く大空の色こそ含まれたれ。心も清く気も新なる歓(よろこ)びのその匂、その光、その流れ、大気と土壌の戯(たわむ)れより生れたる濃厚の液汁、溶けたる砂糖。手桶の底に生れたる君こそは、冷たき藁(わら)の上なる小さき神なれ。木の樽(たる)と鉄の鋤(すき)、緑色なる如露の友よ。いざ、深密なる君が匂ひの舞踊(まいおど)る、甘き輪舞(ロンド)の列にわれを取巻け。

 あゝ、日毎(ひごと)暮るればこゝに来て、庭造る愛らしき器物(うつわもの)、手籠(てかご)、如露の傍(そば)近(ちか)く、空想に耽(ふけ)れば、あゝわが若(わか)かりし折の思出(おもいいで)。幸福を歌ふ啜(すす)り泣(なき)は、心の底より迸(ほとばし)り出づ。われは静寂の来りて宿る果樹園の、うつくしく穏かなる生活を、今ぞ見たり、今ぞ知りたり、悟りたり。わが生命(いのち)、そが為(た)めに焼(やか)れたるおそろしき思ひを、いざ抛(なげう)たん。

 慾望よ、われを去れ。われは十二の月々に、鶯(うぐいす)と駒鳥(こまどり)と、大麦の冠つけし神々と、額(ひたい)緑(みどり)の夕蝉(ゆうせみ)と、いと高くいと優しく、また美しく静かなる、女神 Pomone《ポモン》 の御手(みて)によりて、匂はされたる大空の見渡す晴光(はれ)と、共に踊らん。

西班牙を望み見て  伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユ

 乾きし庭の面(おもて)に日は照りて、夕立にうたれたるダリヤの初花(はつはな)は、緑なす長き茎をば白き家の壁に倚(よ)せかけたり。海はとゞろきわたりて、若き牧神(フォーン)の如(ごと)く吹く風は、其手(そのて)に押(おさ)ゆる衣(ころも)を剥(は)ぎて、路上に若き女を辱(はずかし)めんとす。あたゝかく、うつら/\と暮れて行く Basque《バスク》 の里の夕まぐれ。われは彼方(かなた)に、忽如(こつじょ)として入日に染(そま)りかがやける、怪異なる西班牙(エスパンユ)をこそ望み見たれ。

 地平線の上に腕(かいな)を長くさしのべなば、われは燃(もゆ)るかの土と紅色(くれない)の石榴(ざくろ)とに触れもやせん。金光(きんこう)燦爛(さんらん)たる国土かな。鳥飛ばず、曇りもえせず、色もあせざる空の下。乾きて黄(きいろ)き Toboso《トボソ》 の谷の、身も焼けぬべきそゞろ歩きよ。唐辛(とうがらし)の紅色と、黄橙(おらんじ)の焔(ほのお)の色に、絹の衣裳(いしょう)を染めなして、音(おと)騒がしき西班牙(エスパンユ)の、いらだつ舞ひのとゞろきや。又われは聞かずや。血まぶれの Tourbadour《トルバドル》 華美(はで)ないさみの若者が、屠(ほふ)る牡牛(おうし)に 〔Are`nne〕《アレエヌ》 の桟敷(さじき)も崩れん叫び声。

 〔Tole`de Andalousie〕(トレド アンダルジイ) の国々よ。燃上る其(そ)の声もなき狂熱を、君いづこよりか齎(もたら)せし。おそろしき痴情(ちじょう)の狂ひかな。いとし男(お)の血に渇きたる 〔Pasiphae'〕《パヂファエ》 は、命あらばさぞと覚ゆる壮漢(ますらお)が、刺されて流す血に酔(え)ひて、情慾と恐怖の身ぶるひに、快楽と敬神の念(おも)ひを合せ味(あじわ)ひしが、

 わが身はこゝに仏蘭西(フランス)の、やさしき大気の中(うち)につゝまれて、心おどろき胸重し。ほゝゑめる静けき Basque《バスク》 の山と水。雲は集りて、〔Gue'thary〕《ゲタリー》 のいたゞきに息(いこ)へり。われ Rodrigue《ロドリグ》 を思ひ、聖女 〔The're`se〕《テレズ》 を思ふ。さはやかなる匂を帯びて夕暮は、影と光に色ある砂を混ずる時、甘きタマリの一株毎(ごと)に並びたる、けはしき山のうしろより、Irun《イラン》 をさして行く汽車の笛の響の聞えたり。

 神聖なる西班牙(エスパンユ)。あゝ今宵(こよい)われ、君得(え)まく思ふ心の乱れに堪へぬかな。

菊花の歌  シヤアル・グランムウラン

だりやの花萎(しお)れ葡萄畠(ぶどうばたけ)の取入れ終りて、

餌(え)にあかぬ鴫(しぎ)の鳴く音も絶えにけり。

さま/″\なる果実(このみ)こと/″\く熟し

木苺(きいちご)の実摘尽(つみつく)されて花園今はあれにけり。

空かきくもりて霧立ちまよへば、

かの暮方の懐しさと寂しさとは夜明の空にも漂ひ

黄ばみし芝生に薔薇(そうび)は落ちて

その花びらの跡だにもなし。

さりながらこの揺落(ようらく)とこの風と、

またこの悲しき日かげに灰色したる空こそよけれ。

菊の花にはいとはしき蠅(はえ)と、

蛾(が)の接吻(くちづけ)もなければ。

霜枯れし叢(くさむら)にそもこの花のひらめき出(いず)る

清くも澄みし黄色(こうしょく)と橙紅色(とうこうしょく)の目ざましや。

その中に東雲(しののめ)の霞(かすみ)とばかり

垂れて緋総(ひぶさ)に似るもあり。

さればや君が襟元(えりもと)黒髪にたばさむ花も

野路(のじ)の菊花のあざやかに色もさま/″\めづらしければ、

よしや手づから恋しき人の捧げて来つる花束とても、

かの有りふれし巷の花にてあらば何かせん。

誇顔(ほこりがお)なる百合(ゆり)の花、冷(ひややか)に造りしやうなる椿(つばき)の花束、

何となく恐しき罪の戯れいざなふを、

野にさく菊の花束は露持(も)つ冷き風にゆらめきて、

蒸暑き夜宴(やえん)の都には因縁(ちなみ)なし。

都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、

去りて跡なき荘園のしづけき小径(こみち)、

風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、

この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。

そは唯(ただ)詩人のみ。十一月葡萄の畑(はた)も牛飼ふ野辺も黄ばむ時、

静(しずか)に来りて菊の花打眺(うちながむ)るは唯詩人のみ。

心なき世(よ)の交(まじわり)を忌みおそれ

胸打明けし友の庵(いおり)をたづぬる如(ごと)く。

あまりに泣きぬ若き時  フヱルナン・グレヱ

わけなき事にも若き日は唯(ただ)ひた泣きに泣きしかど、

その「哀傷」何事ぞ今はよそ/\しくぞなりにける。

哀傷の姫は妙なる言葉にわれをよび、

小暗(おぐら)きかげにわれを招ぐもあだなれや。

わがまなこ、涙は枯れて乾きたり。

なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。」]

折もしあらば語らひやしけん辻君(つじぎみ)の

寄りそひ来ても迎へねば

わかれし後(のち)は見も知らず。

何事もわかき日ぞかし。心と心今は通(かよ)はず。

沈みし鐘  スチユアル・メリル

われは過ぎ去りし太古の世の君王(くんおう)にやあらむ。

其国(そのくに)の都は海の底に沈みて音もなし。

黒がねの声なき鐘も過ぎにし世には幾たびか

響も高く幾代(いくよ)の春を告げわたりしに。

われは幾代のむかし消え失せし

あまたの妃の名をも知りたりけむ。

そは静けき夜半(よわ)に散り失せし

萎(しお)れたる花にも似たりけり。

わが尊き宝を積み載せし重き船

沈みて行(ゆ)きし果(はて)はいづこぞ。

その時よりして我は波の底深く宝を探る

狂へる人とこそはなりにけれ。

そのむかし我に従ひし夥多(あまた)の蛮民

空高くわが勝利を叫びてわが為に黒き喪の旗を、

都に立てし其(そ)の過ぎし世の光栄を、

何故にわれは今また見むことを願へるや。

今われは冷(ひややか)なる眼(まなこ)に、

月の光を望みて、剣(つるぎ)を片手に、

大空(おおぞら)に我名(わがな)をしるし留(とど)めむものと、

次の世の来(きた)るを待ちつゝあるか。

さはさりながら勝利の望み、

今わが胸は幽憤の思(おもい)にふさがれたり。

移(うつ)り行く代(よ)々の勝利。我は既にいくたびか、

あらしに消ゆる喇叭(ラッパ)の声を聞かざりしか。

過ぎにし幾代の春を告げたりし黒がねの鐘の声。

今その鐘は沈みていづこに在りや。

我こそは実(げ)に、その国の都は海の底に沈みて声もなき

過ぎにし太古の代(よ)の君王なりけれ。

夏の夜の井戸  スチユアル・メリル

寐入りし少女(おとめ)の夢さへ覚ます月の光に

吠(ほ)ゆる飼犬はたゞ真青(まっさお)な影かとばかり。

焔(ほのお)の雫(しずく)の小さな星一ツ

旅籠屋(はたごや)の井戸の底に落ちたのを、

恋知りそめた子供のやうに

私等二人は眺めてゐた時。

お前の髪を解きほごす素早い私の指先から、

長いお前の髪毛(かみのけ)は

旅籠屋の井戸の中へと流れ込んだ。

忘れはせまい。蟋蟀(こおろぎ)は庭の小高い処(ところ)から、

綱に引き掛(か)けた洗濯物の

風にも動かず干されてある

河辺の方(ほう)まで啼(な)きしきつてゐた。

「恐れ」がさまよひ歩くと云はれた

向うの小山の森はいとも静けく

夜の暗さにつゝまれて

酒場で酒呑む人の高声(たかごえ)も

しんとした冬の夜(よ)のやうに

錫(すず)の器や瀬戸物や

硝子(ガラス)の盃(さかずき)照す灯火(あかり)と共に消えてゐた。

お前は何やら小声にさゝやいたが、

私は其(そ)の囁(ささや)きをお前の唇の、

この六月に咲く赤い花弁(はなびら)の上に押潰(おしつぶ)して、

顫(ふる)へるお前の両手をばお前の胸から引取つて、

私も同じやう何やらお前に云つたのだけれど、

今は早(はや)何と云つたのか覚えてはゐない。

あらはなるお前の腕(かいな)に

私は抱かれてゐる間もなく

森に通ふ街道に、それは宛(さなが)ら

沈黙と血の中に揉(も)み消したいと思ふやうな

物狂はしい思出(おもいいで)の夢かとばかり、

突然聞える酔払つた人達の騒ぐ声。

お前と私は、それなり、別れてしまつたのだ。

星の雫の降りそゝぐ井戸のほとりに。

奢侈  アルベヱル・サマン

奢侈(おごり)は生命(いのち)の樹になる死の果実。

羨望(うらやみ)の歯の根を動(うごか)す禁制の果実。

倦怠(けんたい)の沙漠(さばく)に坐せる黄金(こがね)の怪獣(シメール)。

老いにし「慾情」と「夜(よる)」より生(うま)るゝ汚(けが)れし女。

七重(ななえ)なる綾羅(うすもの)の下にちりばめし「悪徳」の金剛石。

火の火。血の血。骨の中なる髄(ずい)の髄。

地の底の魔薬を持てる浮浪の魔女。

脳漿(のうしょう)を吸ひ取り精気を挫(ひし)ぐ魔女。

斯(か)くぞ譬(たと)へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。

あゝ偉(い)なる哉(かな)、暗黒(やみ)の宮殿(みやい)のこの「奢侈」。

奢侈は荘麗の位に即(つ)く肉感の祭典。

耻辱の冠。汚濁の肩衣(かたぎぬ)。

裸形(ニュージテエ)。紅色(くれない)の気高き女体美の庭。

霊魂をむせび泣かしむる肉の天国。

駘蕩(たいとう)たる夜気を動(うごか)す千丈の髪。

暗澹(あんたん)たる香気の妖術。黒き薫り。

滔(とう)々たる血の流れの歌。酔倒の欷歔(すすりなき)。

快感の身顫(みぶるい)。柔(やわらか)き接触の弥増(いやまさ)る緩き波動。

神経を痺(しび)らす柔き接触……終(おわり)知られぬ柔き接触。

眼光(まなこ)に溢(あふ)るゝ柔き接触……魂も消え入(い)る柔き接触。

堪へぬ甘味(あまさ)の花蔭より奏(かなず)る楽の音……消え行く心。

響なき絃(いと)を弾ずる歓喜(よろこび)の撥(ばち)の疲労(つかれ)。

あゝ唇よ唇よ。消え行く接吻(くちづけ)。歯に噛む接吻。

痴情の寝屋(ねや)の死の如(ごと)くに深き唇。

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。

あゝ偉なる哉。哀傷の空の赤き星なるこの「奢侈」。

奢侈は人骨の裏に潜(ひそ)める細き毒蛇。

鋏(はさみ)の尖(さき)のごとくにとがりし慾望。

不吉の時を歌ふ酔へる警鐘(はやがね)。

清浄を嫉視(しっし)する夜陰(やいん)の尼なる魔界の天使。

覚醒(かくせい)に憤(いきどお)る不眠症の荊棘(いばら)。

睡眠の高き壁に蠢(うごめ)く悪魔が夜宴の大壁画。

乱れ打つ四竹(よつだけ)の拍子につれて少しく開く綾羅(りょうら)の帷(とばり)。

羨望(うらやみ)の神タンタルを驚(おどろか)す空虚の盃(さかずき)。

燃(もゆ)る氷塊。凍る焔(ほのお)。

歓楽の野獣眠るむさくろしき厩(うまや)。

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。

あゝ偉なる哉。《みひら》きて浮世を目戍(みまも)る貪婪(どんらん)の眼の「奢侈」。

奢侈は熱帯の激烈なる幻想。

羽毛の飾と槍とを連ねし蛮土の王侯。

驚くべき GANGES 河(ガンジュが)の畔(ほとり)なる翡翠(ひすい)の宮殿。

広大なる庭園。香気の湖水。埋(うずも)れし黄金(こがね)。

酷熱の赤道の恐るべき芽生月(めばえづき)。

群飛ぶ甲虫(こがねむし)の金色(こんじき)なす寂寞(せきばく)。

羊毛と鋭き香気の眩暈(げんうん)と。

緑なす毒の沼池を照す血色(ちいろ)の月。

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。あゝ偉なる哉。

恐怖すべき暗黒の偶像なるこの「奢侈」。

奢侈は面(おもて)蒼白(あおじろ)き狂乱の帝王が頭(かしら)の飾。

髪赤く丈高き娼婦の頸(くび)かざり。

節奏(リトム)と舞踊(ダンス)と擬容劇(ミイム)の女王。

黄金(こがね)にて築く 〔DE'CADANCE〕《デカダンス》 の凱旋門(がいせんもん)。

雄々しき虎(とら)と大理石とに取巻れし、

淫楽の皇帝のおそろしき夢。

潤(うるお)へる血の花。快楽と哀傷と。

花のうてなに甘さの限りを吸ひたる「死」。

炎々たる焔の中なる楽器のさま/″\。

墳墓の緑色なす灯火(ともしび)に親しむ「死」。

日輪の国の滅亡。無上の尊称。

偉大なる昂奮(こうふん)刺戟(しげき)の宗教。

燐光の技術(たくみ)によりて閃(ひらめ)き出(いで)し瞬間(つかのま)の、

最終(いまわ)の遊宴……最終の呼吸……糸の如(ごと)き臨終(いまわ)の喘咽(あえぎ)。

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。あゝ偉なる哉。

癩病(らいびょう)の崩れの金光燦爛(さんらん)たるこの「奢侈」。

奢侈は肉慾の胸より吐出(はきいだ)さるゝ熱き呼吸。

欲求と呼ばれし轟(とどろ)く身顫(みぶるい)の赤き海。

快感の葡萄園(ぶどうえん)。熟して重き葡萄の総(ふさ)。稀有(けう)の珍味。

相俟(あいま)つて互(たがい)の性慾を狂奔せしむる性慾の酒。

恋愛の痛(いたみ)を鎮(しずむ)る妙薬。怨恨(えんこん)を激する昂奮剤。

心の旅路に彷徨(さまよ)ふ巡礼者の泊り宿。

瞬間によりて生じたる永遠の衝動。

幻想の怪獣走りつゝ水を飲む溢(あふ)るゝ噴井戸(ふきいど)。

世捨し人々の心を澄す処。懼(おそ)るゝものゝ懼れぬ心。

奴隷の鴉片(あへん)。癩病者の牝犬(めいぬ)。

渇ける唇に触れて離れぬ曇りなき水瓶(みずがめ)。

強者の弱点。弱者の強所。

悔恨を殺す夜半の毒草。

死者の口をも開(ひらか)しむべき胡蘆(ふくべ)の水入(みずいれ)。

暴飲の海に帆を揚げて漕(こ)ぎ出(いず)る

漠々たる郷愁(ノスタルヂイ)の楼船(やかたぶね)。

鼻孔を開き毛を逆立て、

虚無に向ひて突進する騎士の牝馬(めうま)。

彼方(かなた)遥けく燃残る GOMORRHE《ゴモル》 の塔と、

SODOME《ソドム》 の庭の焔(ほのお)を望む硫黄(いおう)の湖水(みずうみ)。

この身の終(おわり)を覚悟して見上(みあぐ)る苦悩の大空(おおぞら)。

殉教者。苛(さいな)まれし心に満る歓喜の涙。

火焔(かえん)の中(うち)に坐して汚(けが)れし祭典(まつり)する悪魔の王が、

永劫(えいごう)無窮(むきゅう)の祈願を凝らす闇の塔。

死を致す涜罪(とくざい)の食慾。渇きと饑(うえ)。

底なき淵(ふち)。影なき日輪。端(はてし)なき渦巻。

神経の神経、酸素の酸素なる「奢侈(おごり)」。

呪はれし自滅の恋なる終の「奢侈」。

渾然を望む痙攣(けいれん)。絶対の中(うち)なる饗宴。

世界の最後。天体回転の終局なる「奢侈(おごり)」。

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