2話 二(1)
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きれ長き君が眼の緑の光ぞなつかしき。
いと甘かりし君が姿もなど今日の我には苦きや。
君が情も暖かき火の辺や化粧の室も、
今のわれには海に輝く日に如かず。
さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。
恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、
又沈む日の如く束の間の優しさ忘れたまふな。
定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。
あゝ君が膝にわが額を押当てゝ、
暑くして白き夏の昔を惜しみ、
軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。
腐肉 シヤアル・ボオドレヱル
わが魂などか忘れん、凉しき夏の
晴れし朝に見たりしものを。
小径の角、砂利を褥に
みにくき屍。
毒に蒸されて血は燃ゆる
淫婦の如く脚空ざまに投出し
此れ見よがしと心憎くも
汗かく腹をひろげたり。
照付くる日の光自然を肥す
百倍のやしなひに
凡てを自然に返すべく
この屍を焼かんとす。
青空は麗しき脊髄を
咲く花かとも眺むれば、
烈しき悪臭野草の上に
人の呼吸をも止むべし。
青蠅の群翼を鳴らす腐りし腹より
蛆虫の黒きかたまり湧出でゝ、
濃き膿の如くどろ/\と
生ける襤褸をつたひて流る。
此等のもの凡て寄せては返す波にして、
鳴るや、響くや、揺めくや。
吹く風に五体はふくらみ
生き肥るかと疑まる。
流るゝ水また風に似て
天地怪しき楽をかなで、
節づく動揺に篩の中なる
穀物の粒の如くに舞狂へば、
忘られし絵絹の面に
ためらひ描く輪郭の、
絵師は唯だ記憶をたどり筆をとる、
形は消えし夢なれや。
巌の彼方に恐るゝ牝犬。
いらだつ眼に人をうかゞひ、
残せし肉を屍より
再び噛まんと待構ふ。
この不浄この腐敗にも似たらずや、
されど時として君も亦、
わが眼の星よ、わが性の日の光。
君等、わが天使、わが情熱よ。
さなり形体の美よ、そもまた此の如けん。
終焉の斎戒果てゝ、
肥えし野草のかげに君は逝き
白骨の中に苔むさば、其の時に、
あゝ美しき形体よ。接吻に、
君をば噛まん地虫に語れ。
分解されしわが愛の清き本質と形とを
われは長くも保ちたりしと。
月の悲しみ シヤアル・ボオドレヱル
月今宵いよゝ懶く夢みたり。
おびたゞしき小布団に翳す片手も力なく、
まどろみつゝもそが胸の
ふくらみ撫づる美女の如。
軟かき雪のなだれの繻子の背や、
仰向きて横はる月は吐息も長々と、
青空に真白く昇る幻影の
花の如きを眺めやりて、
懶き疲れの折々は下界の面に、
消え易き涙の玉を落す時、
眠りの仇敵、沈思の詩人は、
そが掌に猫眼石の破片ときらめく
蒼白き月の涙を摘取りて、
「太陽」の眼を忍びて胸にかくしつ。
そゞろあるき アルチユウル・ランボオ
蒼き夏の夜や
麦の香に酔ひ野草をふみて
小みちを行かば
心はゆめみ、我足さはやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴みすべし。」]
われ語らず、われ思はず、
われたゞ限りなき愛
魂の底に湧出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
ぴあの ポオル・ヴヱルレヱン
しなやかなる手にふるゝピアノ
おぼろに染まる薄薔薇色の夕に輝く。
かすかなる翼のひゞき力なくして快き
すたれし歌の一節は
たゆたひつゝも恐る恐る
美しき人の移香こめし化粧の間にさまよふ。
あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節、何をか我に思へとや。
一節毎に繰返す聞えぬ程の REFRAIN《ルフラン》 は
何をかわれに求むるよ。聴かんとすれば聴く間もなく
その歌声は小庭のかたに消えて行く、
細目にあけし窓のすきより。
ましろの月 ポオル・ヴヱルレヱン
ましろの月は
森にかゞやく。
枝々のさゝやく声は
繁のかげに
あゝ愛するものよといふ。
底なき鏡の
池水に
影いと暗き水柳。
その柳には風が泣く。
いざや夢見ん、二人して。
やさしくも、果し知られぬ
しづけさは、
月の光の色に浸む
夜の空より落ちかゝる。
あゝ、うつくしの夜や。
道行 ポオル・ヴヱルレヱン
寒くさびしき古庭に
二人の恋人通りけり。
眼おとろへ唇ゆるみ、
さゝやく話もとぎれとぎれ。
恋人去りし古庭に怪しや
昔をかたるものゝかげ。
――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。
――なぜ覚えてゐろと仰有るのです。
――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫へて、
お前の心はいつも私を夢に見るか。――いゝえ。
――あゝ私等二人唇と唇とを合した昔
危い幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。
――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。
――けれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。
烏麦繁つた間の立ちばなし、
夜より外に聞くものはなし。
夜の小鳥 ポオル・ヴヱルレヱン
鶯は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて槲の木の頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジユラツク)
霧たち籠むる河水に樹木の影は
烟の如くに消ゆ。
その時影ならぬ枝の間より何処とも知らず
夜の小鳥は泣く。
あゝ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、
青ざめし君が面を眺むらん。
いかに悲しく、溺れたる君が望みは、
高き梢に嘆くらん。
暖き火のほとり ポオル・ヴヱルレヱン
暖き火のほとり、灯火のせまきかげ、
片肱つきて頭支ふる夢心地、
愛する人と瞳子を合すその眼とその眼、
語らふ茶の時、閉せる書物、
日の暮れ感ずるやさしき思ひ。
くらきかげ、静けき夜をまつ時の
いふにいはれぬ心のつかれ、
あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。
幾週日の遣瀬無さ、
猶ひたすらに其等を追ふ。
返らぬむかし ポオル・ヴヱルレヱン
あゝ遣瀬なき追憶の是非もなや。
衰へ疲れし空に鵯の飛ぶ秋、
風戦ぎて黄ばみし林に、
ものうき日光漏れ落る時なりき。
胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃く目容は突とわが方にそゝがれて、
輝く黄金の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。
打顫ふ鈴の音のごと爽に響は深く優しき声よ。
この声に答へしは心怯れし微笑にて、
われ真心の限り白き君が手に吻づけぬ。
あゝ、咲く初花の薫りはいかに。
優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ
「然り」と頷付く初めての声。あゝ其の響はいかに。
偶成 ポオル・ヴヱルレヱン
空は屋根のかなたに
かくも静にかくも青し。
樹は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰ぐ空高く御寺の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌ふ。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来る。
君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに唯だ嘆く。
語れや、君、そもわかき折
なにをかなせし。
沼 ピエエル・ゴオチエ
茂りし林の奥深く
黒く声なく沼は眠れり。
一度も微風は水の面を拭はず、
いさゝかの波の動きも其の底より起りし事なし。
枯れたる枝の繁きがもとに
空には隠れ日に遠く、
重き月日の平和の底、
山毛欅の暗き木蔭に沼は眠れり。
秋のあらしに、影の中
衣剥がれし梢は、
濁りて曇りし鏡の上に、
冷かなる其の冠をぬぐまもあらず、
落る木の葉の一ひらごとに
皺の刻みは眠れる水にひろがりて、
凋落を迎ふる水の面に、
落る木の葉はゆるやかに流る。
一羽の小鳥も水飲まんとて来りし事なく
いかなる眼も其の水底を覗ひし事なし。
――茂りし林の奥深く
黒く声なき沼は眠れり。
池 ヱドモン・ピカアル
わが胸は湿りし土地に水は死したる古池か。
凍りし風其処に絶え間なき叫びを放つ。
恐ろしき襲撃の跡を留る落雷の木立に、
岸のながめの哀れなるかな。
忘られし恋と消失せし友の誼みと、
酷き運命のいたましき宝物は、徐ろに
黒き泥土と色さめし花と共に、
眠りたる此の花瓶の底に朽ちて行く。
陰鬱なる一隅かな。されど寂たる此深淵の中よりは、
もしそれ、吾が弱き心、測量の綱を抛ちて、
沈滞の濁水を突如として打つ時は、
震動起りて一道の光閃き渡り、
底知れぬ愁情を照す睡蓮の花の星、
数ある記憶の明るき色、水の面に浮びて来る。
音楽と色彩と匂ひの記憶 ヱミル・ヴオオケヱル
音楽と色彩と匂ひの記憶われに宿る。
逝きし日を呼び返さんとせば、
花をつみとれ。われに匂ひの記憶あり。
音楽の記憶われに宿れば、
怪しき律のうごきは
ノスタルヂヤのわが胸に昔を覚す。
花をつみとれ。楽を奏でよ。
何人か、何事か。忘れしものを思起すに、
われには色の記憶あり。
われ思出づ、紅の黄昏に、
わが恋人は打笑みわれは泣きけり……
われには色の記憶ぞ宿る。
秋のいたましき笛 アア・ヱフ・ヱロオル
秋のいたましき笛は泣く、
おだやかならぬ夕まぐれ。
空は涙を啜る時
ぬれし樹木はをのゝきぬ。
花はおもむろに枯れしぼみ、
小鳥は飛び去る彼方の野辺。
そこには四月の色もある
うれしき歌の聞ゆべし。
寒さ恐るゝ君は悲しく、
わが生命の君は小径を行く。
色蒼ざめて旅する君は
声も曇りし歌を求むる。
あゝ二人して喜び聴きし其の歌は
秋と云ひなば返り来じ。
何時の日かわれは又笑ひて眺めん、
今ははや涙となりし君が眼を。
仏蘭西の小都会 アンリイ・ド・レニエエ
起き出でゝわれ朝に街を出づれば
道の敷石に足音高くひゞきて
太陽の若き光は古びたる瓦を暖め
Lilas《リラ》 の花は家々の狭き庭に咲く。
人の歩みに先ちて足音の反響は
梢そびゆる苔の土塀の長きに伝はり、
磨り減りし敷石は白き砂道に連りて
場末の町より野辺に走れり。
やがて険しく登る山道より
日に照らされて岡のふもとに、
悄然として狭く貧しく静なる我が生れし街の
見馴れたる懐しき屋根の見ゆるかな。
長々と彼処に我が街は横はる。流るゝ河ありて、
その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ、
散歩の道に茂りし木立は街にそびゆる
鐘撞堂の石と共に古びたり。
うらゝかに澄渡りて狭霧なき空気に
わが街は太き響をわれに送り来る。
洗濯屋の杵と鍛冶屋の槌の音、
打騒ぐ幼児の甲高くやさしき叫び。
変りなきわが街の浮世には思出もあらず、
繁華光栄の美麗もなくて、
わが街はいつの世までも
今見る如く小き都に過ぎざらん。
わが街は耕せし野辺、高原、荒れし野に、
又は牧場の間に立つ数ある街の一つなれば、
何れとわかぬ小きフランスの街の名に、
旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし。
然れども朝より夕に移る散歩の
長き思ひの一日は過ぎて、
麦の畠のかなたに日はかくれ、
林に通ふ細道くれそめて、
物のあいろもわかぬ夜、
歩む足音険しき道にとゞろきて
堰越す水音遥に聞え
吹く風運河の木立に騒ぐ時、
つかれて我は帰りくる街近く
ふと仰ぐあたりの家の窓。
帷幕さへなきガラス越し、ランプの壺に
石油の黄金色なす灯火の燃ゆるを見れば、
杖にて捜る夜の道、自づと足も急がれて、
われ思ひ知る。わが墳墓の国土、
懐しき眼に闇の中よりいとも優しく
わが手をとりて引くが如しと。
葡萄 アンリイ・ド・レニエエ
死なんとばかり我は悩みし其の夢知れる恋人よ。
さま/″\のかなはぬ望みに飢ゑつかれ
葡萄の棚に熟りたる葡萄つまんと我は久しく、
種まく人の如く唯だ徒に腕を振りけり。
然るに君は優しき夢に微笑みて眠り給へる、
其の情なくも静なる眠りぞ憎くき。
爽なる朝風は爽なる朝のひゞきを伝へ
夜は紅の東雲かけて明け行けり。
いざ行かん。望の光我等を導く美しき小山の方に。
苗植ゑしわが手づからに待焦れたる果物と
うつくしき葡萄の総をわれは摘むべく。
されどもし、些かの草の芽だにもなかりせば、
待つと云ふかの禍の夢の中、いつも変らぬ
空しき夜明を眺むべく夕暮に山を下らん。
われはあゆみき アンリイ・ド・レニエエ
久しくもわれは歩みき。落ちかゝる夜に
朝見し夢のかず/\も早や既に消えんとす。
そは君ならずや。一筋道の其の端に美しき眺め横ふ
遥なる館の方にわれを導きたまひしは。
かしこには不可思議なる月の光に照されて
眠れる昔の花園の咲きて簇る花の中
屋根に鐘鳴る高楼に聳えし塔の数多く
美しき異禽を養ふ家も見えたり。
錦の小禽その棲木に居眠れば
池の底には黄金の魚のひらめきて
噴水のほとばしり切々として囁きたり。
苔を踏む君が歩みに君が裳は鳴り響きて
見えざる鍵の秘密を知れる柔かき
君が双手はわが手を取りて扶けしものを。
夕ぐれ アンリイ・ド・レニエエ
夕暮の底遠くして海のほとりに
われ嘗て都をのぞみき。
鮮かなる銀色と褪めたる紅の
夕暮の底遠くして海のおもてに
その影を流す大理石と黒鉄の
都をわれは嘗てのぞみき。
扉と家をもわれは見たりき。
(血の夕暮はその時海にあり)
風は明き煖炉の火も見ゆる
戸口の篝火をいらだゝしめ
はたとばかりに扉をとざしぬ。
「死」と「望み」とは過ぎ去りぬ。
暗き空の下、褪めたる銀色の海の面に
その影と影とは漂ひぬ。
わが身には此の時よりして
海に昇る夕暮の悲しかりけり。
秋 アンリイ・ド・レニエエ
枝より枝を渡る風は
明き夏とまた暗き日に、
黒き梟と白き鳩鳴く
老木の梢をゆする。
木の葉に滴る雨の声、
やさしくも又ものうきは
さすらふ身には一歩々々
「悲しみ」の忍び泣く音と聞かれずや。
緑より黄に、黄よりして紅に
又黄金色より黄金のいろに
木々の梢の老い行けば、われは
秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。
林は聳えたる頂よりして頂に
紅の槲と緑の松を動せども
吹く風は厳かに声を呑みたり、
かの「苦み」と「海」の如くに。
正午 アンリイ・ド・レニエエ
正午なり……真白き道は海に走れり。
明き日の光窓より入りて、
まだ暑からぬ部屋の床板に、
出入の人の歩みにつきて落散りし
乾きてかゞやく砂を照す。
日曜と夏との匂ひに空気は爽なり。
日にやけし布と松脂の薫りよ。如何となれば、
布荒き日蔽には枝に下りし
松の実の影描かれたり。
静さは其さへもいと遠く思はるゝ迄の静さに、
想は去りて心空しき折からに
しづ/\と身を動して PARESSE《ものうし》 と呼ぶ女姿は
更によく倦みし休みを味はんと、
伏目遣ひの優しき眼を閉ぢ合せ、
長々と横はる柳細工の椅子の上、
真裸の快さ、人目に触れぬ嬉しさに窃とほゝゑむ。
告白 アンリイ・ド・レニエエ
まことの賢人は永遠の時の間には
一切の事凡て空しく愛と雖も猶
空の色風の戦ぎの如く消ゆべきを知りて
砂上に家を建つる人なり。
されば賢人は焔の燃え輝き消るが如くに、
開きては又散る薔薇の花を眺め
殊更に冷静沈着の美貌を粧ひて
浮世の人と物とに対す。
疎懶の手は暁の焔と
夕炎の火をあふらざれば
夕暮は賢者に取りて傷しき灰ならず
明け行く其の日は待つ日なり。
移行くもの消行くものゝ中にありて
我若し過ぎ行く季節に咲く花の枯死すは、
これそが定命とのみ観じ得なば
亦我も賢者の厳粛にや倣ひけん。
然るに纏綿たる哀傷の心切にして
われは悔いと望みと悲しみに
又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて
わが身を挫ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。
いかにとや。砂上の薔薇の香気も
吹く風の爽さ、美しき空の眺めさへ
永遠の時の間にも一切の事凡て空しからずと、
我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。
庭 アンリイ・ド・レニエエ
庭に来よ。黄昏は庭に木の葉と
土と花、潤ふ影との薫る時なり。
揃ひし黄楊の並木の蔭、狭き小径は行く程に
いよ狭くいよ安らかに君が歩みを導かん。
庭の外なる野や道や危き辻や、
鏡なす池の水とて何かあらん。
やがて萎れん其の茎にあか/\と咲く薔薇のみ
唯わづかあぢきなき君が浮世の形見なり。
ありとあらゆる「過ぎし日」は活ける夜につれ
庭の中にぞ蘇る。敵意ある群集は
肥えし野草や濡れし道暗き林にはびこるを、
こゝのみは静けく優しき庭の隅。
土塀に添へる果樹の列、黒き腕長く差伸べて
君をば守る此処ばかり心安けく歩めかし。
アンリイ・ド・レニエエ
沈黙の碑、美の墳墓よ。
「悲しみ」は其の《かめ》に灰となりにし
夏の果実と秋の葡萄を収めたる
この懐しき重荷のために声を呑みたり。
消えし時間と死したる季節と、
一度は酔ひつ栄えつ、烈しく強く豊なる
薫をかぎしさま/″\の思ひ出、
猶其の底に残りてあれば、そがために
君は夏の形見の灰を収めし黄金の《かめ》を携へて
いと暗き青春に彷徨ふ。あゝ「悲しみ」と呼ぶ君、
道行く女姿よ。われ君を迎ふるも亦此れが為め。
沈黙の碑よ、美の墳墓よ。
年の行く夜 アンリイ・ド・レニエエ
丈の高いランプが
私のうつむいた机の上
開いた書物の間に突立つて
音もなく燃えてゐる。
何かぢつと見詰めてゐるやうな
物哀れな老耄した「月日」が
書斎の中をあちこち彷徨ひ歩く
其の足音ももう聞えない。
低くかざす其手を暖めやうと
明い煖炉の傍に坐りかける老耄した「月日」は、
着てゐる冬と云ふ灰色の着物の為めに、
何となく謙遜らしく我慢づよく
而も又真面目らしく見えた。
丁度私が想の底を過ぎて
其の灰の上を歩くやうに思はれる軽い足音に、
老耄した「月日」の姿は
何となく優しく又何となく厳格にも見える。
夏と秋との手籠は
向うの壁の上に掛けられてあるが、
時々に其の籠を編む柳の枝の弾けて破れ、
茎も葉も枯れてしまつた花瓶の
蘆をば風がゆすぶる。
其の度々に私ははつと思つて
耳を澄まして」]
老耄した「月日」の顔を眺めると、
彼の老女は灰色の着物を着たまゝ身動きもせず、
真直に伸びて鞭のやうに閃く
柔かな柳の若枝の一条々々折りまげて、
笑つた夏の日
花籠を編みながら歌つた
その忘れた昔の歌をうたひもせぬ。