探偵小説の「謎」

6話 探偵小説の「謎」(6)

8,693字 約17分 2017年7月28日 公開

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「もういいかい」「まあだだよ」の隠れんぼうの面白さは機智とスリルにある。私の子供のころ、名古屋地方には「ゴミ隠し」という遊びがあった。一人の子供が地面に四角な区劃を描いて、ある特定のゴミ、マッチの棒などの木や(わら)の切れっぱしだとか、小石などをその区劃の中の土に埋めて隠すと、他の子供がそれをさがし出すという、いわば「隠れんぼう」を極端に縮小したような遊びであった。私は子供のころ、この遊びに、何ともいえぬ面白さを感じたものである。

 青年時代、友達と二人で、小遣(こづかい)もなくて退屈していた時、「ゴミ隠し」を少し大きくしたような遊びを思いついて興じたことがある。私とその友だちとが交互に隠し役に廻り、たとえば一枚の名刺を、机の上のどこかへ隠すのである。机の上には本や(すずり)や煙草や灰皿やその他雑多の品がゴタゴタと並んでいる。その机上のジャングルの中へ、一枚の名刺を隠すのだが、私は当時流行していた朝日とか敷島とかいう口つきの煙草の、口の部分の(しん)になっている厚紙を抜き出して、その代りに、問題の名刺を細く巻いて入れておくというような手を用いた。また名刺一面に墨をぬって、黒い盆の裏にはりつけて隠すというような手も考え出した。この遊びで、けっこう一日の退屈をまぬがれたものである。

 探偵小説にはこの「隠し」の興味がしばしば取り入れられる。犯人が隠して、探偵が探すのである。その最もすぐれた例は、ポーの「盗まれた手紙」であろう。心理の逆をついて、隠すかわりに、わざと目の前に放り出しておくという手である。チェスタートンはこの手を人間の隠し方に応用し「見えぬ人」を書いた。郵便配達夫の職業が盲点となって、すぐ前にいてもわからないのである。それをまたクイーンが長編の「Xの悲劇」に応用した。車掌や渡し船の切符切りが、隠れ(みの)となる。いつも目の前にいるのに、まるで気がつかないのである。

 トリックといえば、すべて何事かを隠すためのトリックに相違ないが、ここでは物品を隠す場合と、人間を隠す場合の、古来用いられたトリックを、幾つか思い出してみたいと思う。隠す品物では、宝石、黄金、書類などが最も多いが、かつて私がメモをとった「トリック表」を見ると、まず宝石類の隠し場所としては犯人が自分のからだの傷の中へおしこむ、鵞鳥(がちょう)に呑ませる、犯人自身が飲みこんでしまうなどが極端なもので、普通の隠し場所としては石鹸(せっけん)の中、クリームびんのクリームの中、チューインガムに包む、ネックレスをクリスマス・ツリーの金ピカ装飾の上へ引っかけておく、というようなものがある。

 宝石を呑みこんで、あとで排泄物の中から探し出すとか、婦人が局部に隠すというのは、小説としてはかえって平凡だが、傷口に隠す手は、小さなものを隠すために、自分のからだを傷つける、または、すでにある傷をひらいておしこむという、大きな苦痛をこらえるところに、奇妙なスリルがある。私のメモにはこのトリックの作例として、ビーストンの「マイナスの夜光珠」があげてあるが、ほかにもあるだろうと思う。「血達磨(だるま)」の芝居で、土蔵の中で猛火に包まれた主人公が、お家の宝物の一軸を救うために、切腹して自分のはらわたの中に押しこむという着想は「隠す」ためではないけれども、この種のスリルの最も著しいものであろう。

 小説として奇妙な味の忘れがたいものはドイルの「六つのナポレオン」の、同じ型の石膏像が六つあって、そのうちのどれに宝石を隠したかわからなくなるという着想と、同じくドイルの「青い紅玉」の、宝石を鵞鳥に呑ませて隠したところ、どの鵞鳥だったかわからなくなるという着想である。アーサー・モリスンの長篇「十一の(かめ)」も同じ着想を使っている。

 金貨を隠すトリックでは、ロバート・バーの短篇に奇抜なのがある。老人の守銭奴が莫大な金貨を死蔵していたが、彼の死後、その金貨が行方不明になって、いくら探しても分らない。家探しをし、天井や床板までめくって見るが、出てこない。地中に埋めた様子もない。ところが、金貨は、たえず探し手の目の前にさらされていたのである。老人は生前、火炉やフイゴやカナシキなどを買入れて、何か鍛冶屋のような真似をしたことがわかるのだが、それは全部の金貨をとかして、のべ金にした上、紙のように薄くたたきのばしこれを家じゅうの壁にはりつけ、その上から普通の壁紙を貼って隠したのである。金貨を驚くべき広さにひきのばして、部屋部屋に充満させたという意表外の隠し方に興味がある。

 カーのある短篇に兇器の隠し方で面白いのがある。室内で一人の人物が鋭い短剣で殺されている。この部屋は一種の密室で、兇器は絶対に部屋から持ち出し得ないような状況なのだが、それにもかかわらず、室内をいくら探しても短剣が出てこない。不可能がなしとげられたかに見える。しかし、実はこの場合も兇器はたえず探し手の目の前にあったのである。兇器は鋭いガラスの破片であった。犯人はそれを室内に置いてあった大きな金魚鉢のようなガラスの容器の中に沈めて逃げたのである。水に入れる前に、よく血を拭ったことはいうまでもない。

 これに似たトリックで兇器を隠すのではなくて、消滅させてしまうのがある。それは鋭くした氷の破片またはツララを短剣として利用するもので、まもなくこの兇器はとけてなくなってしまう。この種のトリックについては別項「兇器としての氷」に書いてあるのでここにはくりかえさない。

 書類または紙片の隠し場所ではバイブルなどの厚い表紙をはがして、その間にはさんでおく手がしばしば用いられるが、これは平凡である。私は紙幣を植木鉢の土の中に隠させたが、これもいっそう平凡だ。しかし植木鉢の例は西洋にもあり、クロフツがある短篇に使っている。紙片の隠し場所で奇抜なのはルブランの「水晶の栓」の偽眼のうつろの中へ隠す手であろう。これと似たものでは、自殺のための毒薬の隠し場所に、フイルポッツは偽眼を使ったが、これには偽歯の使われる場合もしばしばある。

 探偵小説に現われた人間の隠れ場所にも、いろいろ奇抜なのがある。重大犯人が、別の軽い罪を犯して入牢し、牢屋そのものを隠れ場所とする手、病人を装って病院に入院して隠れる手などよく用いられる。先にしるした犯人が郵便配達や車掌に化ける手も面白い。チェスタートンは飛びきり奇抜なトリックを思いつく名人だが、この「人間隠し」の手法でも、彼の着想が最もきわ立っている。脱獄囚が逃げて行く道に大邸宅の仮装舞踏会があった。脱獄囚は例の太い縞の囚人服のまま、その中へまぎれこんで、追手の目をくらます。邸内では囚人服の仮装とは妙案妙案と拍手をあびる。

 ドイルの短篇には、警官に包囲された邸内から、ちょうどその時病死者があったのを幸い、普通より大きな棺を作らせ、死人といっしょに棺の中に横たわって邸外にかつぎ出され、警官をくらますトリックがある。クリスティーの短篇には、犯人が婦人のベッドの(すそ)へもぐりこんで、婦人のベッドには遠慮するという心理を、うまく利用するトリックがある。ラティマーも「盗まれた美女」に同じ着想を使っている。

 もっと簡単な手品では、犯人が案山子(かかし)に化けて警官の目をごまかす(チェスタートン)とか、蝋人形に化ける(カー「蝋人形館の殺人」、私の「吸血鬼」)とかがある。

 以上は生きた人間の隠し方だが、死体の隠し方トリックには、非常に多くの例がある。私の「トリック表」には、これを大別して、永久に隠すトリック一時隠すトリック死体を移動して隠すトリック顔のない死体、の四種類としている。

 の死体を永久に隠す方法では、地中埋没、水中に沈める、火災または火炉で焼却する、薬物で溶解する(日本の例では谷崎潤一郎の「白昼鬼語」)、煉瓦(れんが)またはコンクリートの壁に塗りこめる(ポーの「アモンチリャドウの樽」、私の「パノラマ島」)など、誰でも考えるような着想が多いが、ダンセニイの「二瓶の調味剤」のように、死体をたべてしまうという奇抜なものもあり、死体をこまぎれにして、ソーセージにする(ドイツの実例)とか、死体に鍍金(めっき)をして銅像のようにしてしまう(カー)とか、死蝋にする(私の「白昼夢」)とか、セメントの炉に投入してセメントの粉にしてしまう(葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」)とか、パルプにまぜて紙にしてしまう(楠田匡介「人間詩集」)とか、風船にしばりつけて空中埋葬をする(水谷準「オ・ソレ・ミオ」、島田一男にも同案があった)、死体をドライ・アイスにして粉々に割ってしまう(北洋の作)とか、枚挙にいとまがない。

 の死体を一時隠すトリックでは、クロフツの「樽」、ナイオ・マーシュの羊毛の(こり)、ニコラス・ブレイコの雪だるま(これはセクストン・ブレイクにもあり、私も「盲獣」などで使っている。他にも例は多い)、カーの蝋人形、私の生人形と菊人形、大きなゴミ箱に隠す手は私も「一寸法師」で使ったが、チェスタートンも「孔雀の家」で使っている。大下宇陀児の「紅座の庖厨」では冷蔵庫に隠す。

 チェスタートンには、戦場で将軍が私怨によって部下を殺し、その死体を隠すために、負けるときまった戦闘を開始して、味方の死体の山を築き、私怨による死体を戦死と見せかける思いきったトリックがある。たった一人のために数十人を殺戮(さつりく)するという、残虐(ざんぎゃく)と滑稽のまじりあったふしぎな味。

 の死体の移動では、カーの長篇やチェスタートンの短篇に例があるように、死体を殺人現場から全く別の場所に運び、後の場所で殺人が行われたと思いこませて、捜査を困難にするトリックが基本的なもので、これに種々奇抜な工夫がつけ加えられて、無数の型を生んでいる。

 戸外で物音をさせて、被害者を窓からのぞかせ、一階上の部屋から、輪をおろしてその首に引っかけて、つるし上げ、そのまま建物の裏側の窓からおろして、地上に待機していた共犯者に渡し、共犯者は、その綱を庭の木の枝に(くく)りつけて首つり自殺を装わせるという奇抜なトリックを、チェスタートンが案出した。

 移動トリックでは、汽車の屋根を使うものが思いもよらぬ味を持っていて最も面白い。これらの先鞭はドイルの「ブルース・パーチントン設計図」で、ブリアン・フリンという作家が長篇「途上殺人事件」で汽車を二階つきの乗合馬車に替えて同じトリックを使い、日本では私の「鬼」、横溝正史の「探偵小説」がこの着想を借りている。死体を貨物列車の屋根にのせ遠く隔ったカーヴの地点で、それが地面にふりおとされ、殺人はその地点で行われたかに見えるのである。

 もう一つ著しいものは、犯人の作為がなくて、被害者自身が歩いて移動したために、捜査を困難ならしめるという着想がある。ヴァン・ダインのある長篇では、鋭利な刃物で刺された被害者が、致命傷とも意識せず、自室まで歩いて行って、ドアに中から鍵を書け、そこで絶命したために、非常に不思議な殺人事件の外貌を呈する。落語の「首提燈」に類する話である。カーはさらに一歩を進めて、ある長篇で、屋外でピストルで頭部を撃たれた被害者が、ノコノコ歩いて家に帰ってから絶命するので、ふしぎな事件になる話を書いている。そして、そんなことができるものかという読者の非難をのがれるために、頭部を撃たれても即死しなかった犯罪史上の実例を引用している。

 カーは死体移動のいろいろな手を案出して、長篇の中心トリックとしているが、それにはまず複雑な状況を組立てておかなければならないので、簡単に説明することはむずかしいが、その極端なものは、殺した死体を廊下ごしに投げて、落下した場所で殺害された如くみせかけるのである。これを一層極端にしたのが大坪砂男の「天狗」で、石弓のしかけで死体を遠くへ投擲(とうてき)する。自ら砲弾になって大砲から発射される見世物があったが、あれを探偵小説的に使用すれば、やはり一つのトリックとなるわけで、死体投擲または死体発射は、チェスタートン風のずば抜けたユーモラスなトリックの一種に相違ない。

 これと似たものでは、いま作者の名を忘れたが探偵雑誌「ロック」の懸賞に当選した作品の中に雪除け機関車で、死体を遠くへはね飛ばして、ふしぎな状況を作る話がなかなか面白かった。

 潮流を利用して死体または死体をのせた舟を移動せしめ捜査を困難にするトリックもよく使われる。西洋では合作小説「フローティング・アドミラル」、日本では蒼井雄の「黒潮殺人事件」、飛鳥高のある作、島田一男のある作などにその例を見る。

 の「顔のない死体」トリックについては、別項に書いたので、ここにはくりかえさない。

(「探偵クラブ」昭和二十八年八月号)

7 プロバビリティーの犯罪

 確率を計算するというほどではなくても、「こうすれば相手を殺しうるかもしれない。あるいは殺し得ないかもしれない。それはその時の運命にまかせる」という手段によって人を殺す話が、探偵小説にはしばしば描かれている。むろん一種の計画的殺人であって、犯人は少しも罪に問われないという、極めてずるい方法だが、しかし、そういうやり方で人を殺した場合、法律はこれをどう取扱うのであろうか。

 西洋の探偵小説によく出てくるのに、こういう方法がある。幼児のいる家庭内のAがBに殺意をいだき、階上に寝室のあるBが、夜中階段を降りる時に、その頂上から転落させることを考える。西洋の高い階段では、うちどころが悪ければ一命を失う可能性が十分ある。その手段として、Aは幼児のおもちゃのマーブル(日本でいえばラムネの玉)を階段の上の足で踏みやすい場所においておく。Bはそのガラス玉を踏まないかもしれない。また、踏んでも一命を失うほどの大けがはしないかもしれない。しかし、目的を果たした場合も、失敗に終った場合も、Aは少しも疑われることはない。誰でも、そのガラス玉は幼児が昼間そこへ忘れておいたものと考えるにちがいないからである。

 無邪気な子供のおもちゃのガラス玉が、恐ろしい殺人の手段に使われるという対照に妙味があるせいか、西洋探偵小説にはこの手がよく使われる。最近出版されたイギリスのカリングフォードという作家の長篇探偵小説「死後」にもこの方法が出ていたので、またかとほほえましくなったほどである。

 このように、うまくいけばよし、たとえうまくいかなくても、少しも疑われる心配はなく、何度失敗しても、次々と同じような方法をくり返して、いつかは目的を達すればよいという、ずるい殺人方法を、私は「プロバビリティーの犯罪」と名づけている。「必ず」ではなく「うまくいけば」という方法だからである。これをテーマとした作品は古くからある。「一例をあげると、R・L・スティヴンスンの「殺人なりや?」という短篇には、人間の好奇心と「あまのじゃく」の心理を巧みに利用したプロバビリティーの殺人が描かれている。

 それは、ある伯爵がある男爵に復讐する話で、両人がローマ滞在中のある時、伯爵はなにげないていで、男爵に自分の見た妙な夢の話をする。「私は昨夜ふしぎな夢を見た。君の出てくる夢だ。君が私の夢の中で、ローマ郊外のある地下墓地(ローマ名物のカタコム)にはいるのを見た。私はあんな墓地があるかどうか知らないが、夢の中でそこへ行った道順や沿道の景色までハッキリ覚えている」とこれを詳しく話し、「君はそこで自動車を降りて、その地下墓地を見物するためにはいって行った。私もそのあとからついて行った。荒れはてた物凄い地下道だった。君はその暗黒の中を、懐中電燈をたよりに、ズンズン進んで行った。私は君がなんだか無限の地の底へ消えて行くような心細い気分になって、もうよしたまえ、早く帰ろうと、何度も声をかけたが、君は見向きもしないで、暗闇の奥へ奥へと進んで行った。……妙な夢を見たものだ」と印象深く話してきかせる。

 それから数日後のある日、夢物語を聞かされた男爵が、自動車で郊外をドライヴしていると、偶然、伯爵の見た夢の中の景色とそっくりの田舎道を通りかかる。探して見ると、夢と同じ地下墓地もちゃんとそこにあった。夢と現実のふしぎな一致。男爵は好奇心にひかれた、懐中電燈をつけて、その墓穴へはいってみないではいられなかった。夢と全く同じことを繰り返すという一種異様の興味が彼をそそのかしたのだ。彼は墓穴の奥へ奥へと進んで行った。そして、ハッと思うと、何かにつまずいて、突然足の下の地面がなくなり、そこにあった古井戸におちこんで行った。助けを呼んでも人はいない。男爵はついにそこで絶命してしまう。

 こうして伯爵は復讐の目的を果たした。彼の夢物語は作為のウソで、実は数日前、彼自身その墓穴を見物したことがあり、その奥の古井戸のてすりが、古くなってこわれていることをチャンと知っていたのだ。作者は「これが果たして殺人罪といえるだろうか」と、それを疑問符つきの題名としたのである。

 日本では谷崎潤一郎氏が、私のいわゆる「プロバビリティーの犯罪」に先鞭をつけている。同氏の「途上」という初期の短篇がそれだ。夫が妻を殺そうとして、全く犯罪とならぬ手段を、いろいろ考える。暖房のガス管の開閉ネジを、細君の寝室の人の足にさわりやすい所に取りつけさせ、女中がウッカリそのそばを通って、着物の裾がさわり、ネジが開くことを予期するとか、自動車が衝突した場合、右側の座席にいた人が、傷を受ける率が多いというので、いつも細君を右側に乗せるとか、これに類した一見悪意のない種々の試みをし、ついに細君を死に至らしめるという話である。私はこれを読んだとき、何が巧妙だといって、これほど巧妙な殺人はないだろうと感じ入り、その影響で、「赤い部屋」という短篇を書いた。

「赤い部屋」には「あまのじゃく」で強情ものの盲人が、「もっと左によらなければ危ない。右は地下工事の深い穴がある」と知人に声をかけられて「そんなことをいって、また、からかうのだろう」と、わざと逆に右の方により、下水の穴におちて、うちどころが悪く一命をおとすとか、夜中に、けが人を乗せた自動車の運転手に、近くの医者をたずねられ、右へ行けば上手な外科医院があるのを知りながら、左の方のへたな内科兼業の医院を教え、手当がおくれて、けが人が遂に死んでしまうとか、そういうプロバビリティーの殺人手段を五つ六つならべてある。

 西洋ではイギリスのフィルポッツが、このテーマで「極悪人の肖像」という長篇探偵小説を書いている。ある人を殺すために間接に、何の恨みもないその人の幼児を、人知れず殺す。犯人とこの幼児とは何の関係もないのだから、疑われる心配は少しもない。幼児の父は、妻は早死し、その子供が唯一の愛情の対象だったので、その愛児に先立たれて、この世に望みを失い、やけくそになって、冒険的な乗馬にふけり、山中で落馬して一命をおとす。間接殺人が効を奏したのである。また、ある気の弱い男に、犯人が医師である立場を利用して、君は不治の病にかかっているといつわり、だんだんそう思いこませて、煩悶(はんもん)の余り自殺させようとする。

 西洋の短篇ではアメリカのプリンス兄弟という合作作家の「指男」というのがある。主人公は、異常心理の犯罪者で、その男は幼児のころ、神様から、彼の好まぬ人間に神の審判を下すことを許されたと信じている。神様がおっしゃるには、「お前は人間のことだから、間違いをしないとは限らぬ。だから決定権はわしが握っていることにする。お前はただ処罰の試みをすればよいのだ」というお告げであった。そこでその男は幼年時代から今日に至るまで、その特権を行使してきた。七歳の時、嫌いな乳母を殺すためには、夜、階段の上にローラースケートを置いておけばよかった。神様が処罰が正しくないとお考えになれば、乳母はスケートに気づくであろう。処罰が正しいとおぼしめせば乳母はスケートをふんづけて転落するであろう。その乳母は頸の骨を折って死亡した。

 少女が往来で目かくし鬼の遊戯をしていた。その男はソッとマンホールの蓋を取りはずしておいて、見物していた。少女はその穴におちて死んだ。神は少女を受け入れたもうたのである。ある医者の仕事場のガス・バーナーの栓をあけておいた。医者は葉巻をふかしながらその部屋にはいった。そして火焔に包まれて死んだ。神は医者を受け入れたもうた。その男は「処罰」の手段として、地下鉄を愛した。多くの男女がそこで神に受け入れられた。ラッシュ・アワーの地下鉄のホームのはしに手鞄を放り出すと、ある女はそれにつまずいて線路に転落し、車輪に首をちぎりとられた。またその男はある鍛冶屋の仕事場にしのびこんで、大鉄槌の柄をゆるくしておいた。鍛冶屋はそれを使用して、抜けた鉄槌の頭にうたれて死んだ。等、等、等。

 引例は以上にとどめるが、この「プロバビリティーの犯罪」は、刑法学上、また、犯罪学上、深く考えれば、興味ある題目となるのではないかと思う。冗談に「医者は何十人の人を殺さねば一人前になれぬ」という。その何十人の内に入った患者こそ迷惑千万だが、そういう善意の殺人(?)は罪とならぬ。そういうものと、ハッキリした殺人罪との境界線が問題なのである。「プロバビリティーの犯罪」はこの境界線の前後にあるものと思うが、そこに確然たる一線を引くことは、非常に困難であろう。それだけに、この問題には最も深い考慮を要するのではないであろうか。

(「犯罪学雑誌」昭和二十九年二月号)

8 顔のない死体

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