探偵小説の「謎」

8話 探偵小説の「謎」(8)

8,917字 約18分 2017年7月28日 公開

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 私は人間が書物、本ですね、本に化ける話を書きたいと思ったことがある。しかし、大人の読む短篇にならなくて、いつか少年読物の中へ、ちょっと使ったことがある。どういうことかというと、西洋の大きな辞典、ブリタニカとかセンチュリー、あるいは、日本の平凡社の百科事典でもいい、あれの背表紙だけを、つなぎ合せたようなものを専門家に造らせて、それを亀の甲のように背中につける。そして、大きな本棚の中に、背中をそとに向けて、手足をちぢめて、横たわる。そとからは、そこに大きな辞典が並んでいるように見えるが、実は、人間が息を殺して隠れている。実にバカバカしい着想だが、怪奇小説というものは、こういうバカバカしいところから、だんだん物になって行くことがある。

 私は昔、人間が椅子になる話を書いたことがある。これなんかも、着想は実にバカバカしいのだが、人間が椅子に化けられたら面白かろうという一点の着想から、だんだん考えを進め、尾ひれをつけて「人間椅子」という小説ができた。そして当時はなかなか好評だった。

 人間は、あるがままの自分に満足していない。美男の王さまや、騎士になりたいとか、美しいお姫さまになりたいというのは、最も平凡な願望だが、美男美女英雄豪傑の出てくる通俗小説というものは、そういう願望を満足させるために書かれたといってもよい。

 子供の夢は、もっと放胆である。現今の童話は遺憾ながら、そうでないが、昔の童話には魔法使いの魔力によって人間が石像になったり、けものになったり、鳥になったりする話が、たくさんあった。何かそういう、ほかのものになって見たいのである。

 ほんとうに一寸(いっすん)ぐらいの大きさの人間になれたら面白かろうという空想は、昔から行われた。お伽噺(とぎばなし)の「一寸法師」は縫い針を刀にして、お椀の舟に乗る。江戸時代のエロ本に「豆男もの」というものがある。仙術によってからだが一寸ぐらいになり、人の目につかないので、美女のふところにかくれたり、遊蕩児の(たもと)にすべりこんだりして、少しも相手に気づかれることなく、さまざまの情事を見聞する。西洋エロ本のノミの話は、同工異曲だがいっそう自由自在である。大山脈の如き人間のからだのあらゆる部分を、つぶさに踏査することができる。

「板になりたや、湯舟の板に、好きなあの子の肌にふれたや」という古代ギリシアの諧謔(かいぎゃく)詩がある。日本にも似たような歌があったと思う。人間はある場合には、浴槽の板にさえなりたいのである。

 もっと尊い方面では、神仏の化身というのがある。神さまは何にでもお化けなさる。全身におできだらけの乞食に化けて、人間がそれを親切にするかどうかをためし、親切にしたものには大なる福をお授けになる。鳥にでも、けだものにでも、さかなにでも、何にでもお化けなさる。神さまというものは、人間の理想を象徴するのだから、この変身化身の衆も、人間の最も願望するところの一つの理想の境地に相違ない。いかに人間が「化ける」ことを好むかの一証である。

 それゆえにこそ、世界の文学をさかのぼってみると、大昔から「変形譚」の系列がある。これを歴史的に調べると面白いと思うが、いま私にはその智識がない。ごく近年のもので、この一年ほどのあいだに、私は二つの現代的変形譚を、たいへん面白く読んだ。一つはカフカの「変身」一つはフランス現代作家マルセル・エイメの「第二の顔」。しかし、この二作は、いずれも化ける願望そのものでなく、望まずして化けたがゆえの悲惨を取り扱っている。化ける願望の裏がえしである。

 前者は周知だから、後者について一言する。このエイメの作はごく新しい。一九五一年ガリマール初版である。私はハーパー社版の英訳で読んだ。一冊の本にまとまっているが、長篇というよりは中篇である。

 妻子ある中年の商人が、ある時、突然、二十代の美青年に変身する。何かの証明書をもらおうとして官庁の窓口で、自分の写真をさし出すと、役人が変な顔をするのである。

「誰かの写真を取りちがえて持って来たのではありませんか」「いいえ、それは私の写真です」役人は気ちがいだと思う。写真は、五六十歳の頭のうすくなった、皮膚のたるんだ、平凡な男。本人は二十代のハツラツとした美青年。役人をからかっているのか、気ちがいか、どっちかだ。役人は後者と判断し、いたわって帰らせる。男は、少しもわけがわからない。帰りがけに、ふとショーウィンドウに写った自分の姿を見てあっけにとられる。目がどうかしているのだろうと、いろいろにためしてみるが、自分にちがいない。似ても似つかぬ美青年に生れ変ったのである。「化ける願望」からいえば、この男は、ここで大いに喜ぶべきであるが、金もあり、地位もあり、愛妻もあり、愛児もある普通人だから、かえって喜ばない。ただ不安になるばかりだ。天涯孤独のニヒリストか、犯罪性のある人物なら狂喜するのだが、現実化の社会人には喜べない。家へ帰るのが恐ろしい。到底細君が認めてくれそうもないからである。

 仕方がないので、まず親友のところへ行って、事の次第をうちあけるが、親友は信じない。この現実世界に、童話めいた変身などということが、あり得るはずはないからである。親友はかえって疑問をいだく。そんなことをいって、この男は金持ちの商人をどこかに監禁し、あるいは殺害して、商人になりすまし、財産を奪おうとしているのではないかと疑う。この親友は詩人なので、二人一役の犯罪トリックはよく知っている。

 ここで、ちょっと探偵小説の話になるが、エイメは探偵作家ではないけれども、その作には、探偵小説的要素が多い。谷崎潤一郎の「友田と松永の話」や、もっと手近なところでいえば、私の短篇「一人二役」を裏返すと、このエイメの着想になる。

 変身男は、どうにも身のふりかたがつかない。誰にも知られぬ戸籍のない一美青年として、人生を出なおす勇気はない。財産も惜しいし、妻子も惜しいのである。そこで窮余の一策を思いつく。前身の商人として住んでいたフラットのある同じ建物の一室を借りて、別の名でそこに住み、自分の細君を恋仕掛けでわがものにしようとする。自分の前身、つまり細君の夫は、この世に存在しないのだから、文句をいわれる心配はない。結局は結婚して、もとの自分の家庭におさまるという計画である。どう考えてみても、そのほかに、仕様も模様もないのである。

 そこで、自分自身の妻に、別人として、再度の恋愛をするという、奇怪な境涯(きょうがい)に入る。これがやはり、旧作「一人二役」や「石榴(ざくろ)」において、私が最も興味を持った境涯なのである。彼の細君は美人で、少々浮気者だったので、この計画は意外にたやすく成功する。成功したときの何ともいえない変な気持。自分の妻が不義をしている。しかも、その相手が自分自身なのである。美青年としての喜びと、五十歳であった前夫としての(いきどお)りとが混淆(こんこう)するのである。

 この不義の恋愛は、子供や隣人の前では、やれないので、自然二人は申し合せて外出する。それが度重なるうちに、ある日、親友の詩人に、二人が手を組んで歩いているところを見られてしまう。詩人のこの時の表情がすべてを語っていた。彼は美青年の悪計が、いよいよ熟して、ついに細君を手に入れたと考えたに相違ない。親友の財産と妻を盗もうとしている。これは捨てておけない。しかも、その親友は、行方不明になったまま、一週間たっても、十日たっても帰って来ない。いよいよただごとではないぞ、あの顔の美しいヨタ者め、おれの親友を殺したにちがいない。このまま放ってはおけない。警察に知らせて調べてもらうほかはない。詩人がそう考えたにちがいないと、変身男は直感したのである。

 とつおいつ思案のすえ、変身男は、細君と遠方へ駈けおちすることを考える。それにはいろいろ、うまい理由をこしらえなければならないが、ともかくも、細君を納得させることができそうである。その、せっぱつまった状態になったとき、まるで悪夢が()めるように、変身が元にもどることになる。食堂でうたたねをして、ふと目覚めると、自分はもとの五十歳の中年商人に戻っていたのである。やれやれという安堵(あんど)と共に、折角の冒険が惜しいような、異様な気持である。

 彼は、元の商人として家に帰る。不在の理由は、突然商売上の急用ができて、外国へ旅をしたといえばすむのだ。そして、美青年は行方不明となり、もと通りの夫婦生活がはじまる。ところで、ここにいま一つの、奇妙な心理が描かれる。それは、もとの中年商人に戻ったこの男は、妻の不義を、身をもって知っているという、どうにもおさまりのつかない心理である。妻は口をぬぐって、何喰わぬ顔をしている。一度も他の男を知らない貞節なる妻の如くふるまっている。それを、こちらも何喰わぬ顔で観察している気持は、憎しみよりも、(あわ)れみである。姦夫が自分自身なのだから、腹も立たない。むしろ異様な興味さえ覚える。変身という虚構によって、始めて生じた一種異様の心理状態である。私はかかる虚構の物語を愛する。

 エイメの作は、もう一つ英語で読んだが、これも面白かった。平凡な勤め人の頭の上に突然、後光ができる。神々の頭の上にある、あの光った輪のようなものである。それは信仰厚い勤め人を神がよみしたまうたからなのだが、勤め人は大いに迷惑する。町も歩けない。人が指さし笑うからである。一応は大きな帽子で隠す。会社の事務所でも帽子をかぶったままでいる。しかしそんなごまかしは長つづきしない。いたる所で嘲笑(ちょうしょう)され、細君には罵倒(ばとう)され、神の栄光を呪いに呪い、ついに窮余の一策、後光の消失を願うのあまり、神の怒りを買うことを考える。つまり罪悪を行うのである。嘘をつくことからはじめて、だんだん重い罪へと進むが、後光は消え失せない。もっと重い罪を、もっと重い罪を、これでもか、これでもかと、おそろしい罪悪を重ねて行くという話。……この人の小説はもっと読みたいと思っている。

 話がわき道にそれたが、エイメの「第二の顔」は変身願望の裏返しだが、上記の荒筋ではわからぬけれども、変身の魅力についても語っている。裏返しにせよ、変身願望と無縁の作者には、こういう小説は書けないわけである。

 化けたい望み。それがいかに普遍的のものであるかは、化粧という一事を考えてもわかる。化粧とはすなわち軽微なる変身だからである。私は少年時代、友達とお芝居ごっこをして遊んだが、女の着物を借り、鏡の前で、化粧するときの、一種異様の楽しさに、驚異をすら感じた経験がある。俳優というものは、この変身願望を職業化している。一日中に幾たりの別人に生れ変ることであろう。

 探偵小説の変装というものが、やはり、この変身願望を満足させる役割を果たしている。トリックとしての変装は、今日ではもうほとんど興味がなくなっているが、変装それ自体には、やはり魅力がある。変装小説の頂点をなすものは、整形外科による完全な変貌を取扱った作品であろう。その代表的作品は、戦前アントニー・アボットが提唱して「大統領探偵小説」と銘うって出版したあの合作小説だ。これについては、本書一三二頁以降にくわしく書いてあるからくりかえさぬが、整形外科によって別人になる可能性は充分考えられる。これは、現代の忍術であり、現代の隠れ(みの)であろう。この意味で、変身願望はまた「隠れ簔願望」にもつながるものである。

(「探偵クラブ」昭和二十八年二月特別号)

10 異様な犯罪動機

 探偵小説において、犯罪の動機というものは非常に重要な題目に相違ない。探偵小説では、真の動機がわかれば、したがって犯人も判明する場合が多いのだから、作者は動機を隠すために、古来いろいろな工夫をこらしてきた。ちょっと常人には想像もつかないような動機を創案した作者も少なくない。普通の意味のトリックのほかに、動機そのもののトリックがあり得るわけである。

 セイヤーズ、ヴァン・ダイン、トムスン、ヘイクラフトなどの探偵小説論には、不思議にも動機のことを特別に抜き出して書いてはいない。わずかにカロライン・ウェルズとフランソア・フォスカの著書が、簡単ながら特別に動機の問題に触れている。ウェルズの「探偵小説の技巧」(一九二九年改訂版)第二十三章が「動機」という見出しになっているが、その分量はわずかに二頁余りで、きわめて簡略なものである。その一部を抜萃する。

『最も興味ある動機はいうまでもなく「金銭」「恋愛」および「復讐」である。これを細別すれば、憎悪、嫉妬、貪慾(どんよく)、自己保全、功名心、遺産問題、その他多くの項目になる。つまり、人間感情のすべてのカテゴリーがこれに含まれる。

(まれ)には異常な動機というべきものが用いられる場合がある。たとえば Henry Kitchell Webster の「囁く人」における殺人狂、ザングウィルの「ビッグ・ボウ事件」における奇妙な動機の如きこれである。しかし、これらは例外的な作品であって、何人も直ちに納得できるような動機を最上とする。そして、単純な動機ほど納得しやすいことはいうまでもない。殺人というものは、人間の最も原始的な衝動から起るものだから、小説そのもののプロットは如何(いか)に複雑微妙であっても、動機はできるかぎり単純明瞭で力強いものを選ぶのが、かしこいやり方である。

『プロットが許すならば、動機を余り遠い過去に持って行かない方がよい。ドイルの「緋色の研究」や、グリーンの Hand and Ring のように、長い小説を読まされたあとで、その犯罪動機の説明が三十年も四十年も昔にさかのぼるのでは、やりきれない。この二つの作品は他の点では実に立派な探偵小説だけれども、読者にとうてい推察できぬような動機が最後に説明されることが、大きな欠点となっている。』

 私も従来は大体ウェルズと同じように考えていた。トリックのメモをとる時、動機をおろそかにしたのもここから来ている。しかし、普通の意味のトリックの創意がだんだんむずかしくなってきたために、探偵作家は動機そのもののトリックを考案するようになった。古い作家ではチェスタートンとクリスティーが、この動機の創意に最も力を入れているように思われるが、近年は犯人を探すのではなく、動機を探す探偵小説さえ生れ、動機というものは探偵小説の最も重要な題目となりつつある。

 さて、右の引用文でウェルズは「金銭」「恋愛」「復讐」の三項をあげているが、これでは不充分なので、次にフランソア・フォスカの「探偵小説の歴史と技巧」(長崎八郎訳、昭和十三年、育生社発行)第九章の冒頭に掲げた動機の表を次に転記してみる。(フォスカの本には、「動機」という章があるわけではなく、ただ第九章の文中にこの表が掲げられているにすぎない。別段の説明もついていない)。

一、情熱犯罪(恋愛、嫉妬、憎悪、復讐)

二、利慾犯罪(貪慾、野心、利己的安定)

三、狂的犯罪(殺人狂、変態性慾者)

 ウェルズはこの第三の項目は重視しなかったけれども、案外多くの作家が使用しているので、ぬかすことはできないのである。右の第二のカッコ内の「利己的安定」という訳語は意味がわからない。原著を持たぬので推察にすぎないけれども、おそらくはこれは「自己の安全」すなわち防衛の意味であろう。自分の過去の犯罪を知っている人間を殺してしまうとか、悪人の陰謀に先手を打って逆に相手を殺すとかいうような場合を指すのであろう。

 私は以下の記述の便宜のために、この表を次のように増補したい。

一、感情の犯罪(恋愛、怨恨(えんこん)、復讐、優越感、劣等感、逃避、利他)

二、利慾の犯罪(物慾、遺産問題、自己保全、秘密保持)

三、異常心理の犯罪(殺人狂、変態心理、犯罪のための犯罪、遊戯的犯罪)

四、信念の犯罪(思想、政治、宗教などの信念にもとづく犯罪、迷信による犯罪)

 フォスカの表の第一項は「情熱犯罪」と訳されているが、当然この項目に属すべきものに、冷血無情な計画復讐の如きものもあるのだから、この用語は強すぎる。単に「感情の犯罪」としたほうが包括的であろう。また、私はフォスカの表のほかに、第四の「信念の犯罪」という一項をつけ加えた。政治犯とか、狂信者の犯罪とか、その他特殊の信念にもとづく犯罪は、一から三までのどの項目にも含ませにくい動機なので、別に、一項をもうけたわけである。この項目の一部である政治、宗教などの秘密結社員による殺人は、スパイ小説その他に属するもので、古来探偵小説にはあまり歓迎されない動機なのだが(ヴァン・ダインは「探偵小説二十則」第十三条で秘密結社の犯罪を排除している)しかし、探偵小説にもそういう作例は少なくないのだし、またもう一つの迷信による犯罪というものはしばしば探偵小説に取り入れられているのだから、いろいろな意味で、この第四項目はやはり必要なのである。

 右の四項目のうち、第一項目の優越感、劣等感、逃避の三つの実例が面白いので、それを次に記してみる。

優越感と劣等感の動機

 著名な作品にしばしば使われている非常に大きな感情上の動機がある。それは、自己の優越を証明するための犯罪と、逆に自分の持つ劣等感に対して復讐するための犯罪である。

 優越感と劣等感は(たて)の両面であって、自己の優越を証明しなければ承知ができないということは、意識下に劣等感があるからこそだともいえる。その劣等感を征服するための優越慾なのである。スタンダールの「赤と黒」やブールジェの「弟子」の主人公の、あの優越慾と自負心の裏には、社会的に下層の家に生れたという劣等感が伏在している。そういうような盾の両面ではあるが、探偵小説には、優越慾の方を表に出したものと、劣等感の方を表に出したものと二様の例がある。前者の適例はシムノンの「或る男の首」の犯人の心理であろう。あの犯罪は貧困と不治の病の絶望からきた富裕階級への嘲笑として行われたもので、そこには劣等感と優越慾とが、みごとに織りまぜられている。また、ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」の犯人も憎悪や利慾では説明のつかない、優越感そのもののために多数の人を殺すが、彼の劣等感は老齢のために学問研究の能力を失ったことにある。もう一つは、フィルポッツの「赤毛のレドメイン一家」の犯人で、彼の場合はむろん利慾を伴っているけれども、社会生活の弱者が犯罪の世界において傲然(ごうぜん)として自己の優越を証明せんとする心理が多分に働いている。

 これとは逆に、劣等感の方に重点をおいた作例はクイーンの「Yの悲劇」であろう。妻にしいたげられつづけた夫が巧みな手段によって妻を殺す夢を、小説の筋として書き残したのを、彼の死後、無心の幼児が書かれた筋のまま実行するのであるが、表面上は死後の夫が妻に復讐する形だけれども、心理的には自己の劣等感への復讐であって、しかもそれを自から実行する力はなく、小説に書き現わしてわずかに慰めていたのである。

 もう一つの例をあげると、イギリスの長篇に何十年来の親友で、ただの一度もいさかいをしたことのない一方の男が、ひそかに計画して他方を殺すというのがある。普通の意味の復讐の動機はなにもない。二人は青年時代から同じ境遇に育ちながら、何をやっても被害者の方が一枚うわ手で、犯人はたえずその驥尾(きび)に付していなければならなかった。中年の現在となっては、被害者の方は大金持となって社会的地位も高く、犯人は何不自由ない暮らしはしているけれども、何から何まで相手にけおされ、住居も相手の貸家を好意的に安く貸してもらっているという有様。銃猟その他のスポーツに至るまで、いつも仲よく一緒に出かけるのだが、とても相手には太刀討ちできない。いつも主人と家来のような圧迫を感じている。この長年の劣等感そのものが、唯一の殺人の動機となったのである。彼は巧妙なトリックによってアリバイを作り、少しも疑われることなく殺人をなしとげる。犯人と被害者とは人もうらやむ親友であり、一方が死んでも他方に物質上の利益があるわけではなく、友の死を発見して最も悲しんでいたその男が、実は真犯人であろうなどとは、誰一人想像するものもない。これも意外な動機そのものをトリックの一つとした作品である。

 また、アメリカの著名な文学作家の書いた短篇探偵小説に、こういうのがある。ある実業家の秘書をしている青年が、主人が自分をあくまで雇人として機械のようにあしらい、人間として親しみを示してくれないところから、劣等感が鬱積(うっせき)して、そのことだけのために、ついに殺意を抱き、大胆不敵のアリバイ・トリックを案出して、殺人罪を犯すのである。物慾ではむろんない。普通の意味の復讐とも違う。この種の犯罪は劣等感と優越感をもってこなくては説明ができないのである。

 イギリスのさして著名でない作家の短篇に「動機のない殺人」という風変わりな作品がある。動機がないのではない。常識をこえた動機なのである。文学者的な性格の貧乏貴族が、隣人の富豪にそそのかされて、一青年の発明を盗む。そして、その発明品の製造によって大金持となる。その貴族が老年に至って、だんだん隣人の富豪を憎悪しはじめる。相手は全く好意でやってくれたことである。そそのかしに乗った自分が悪いことはよくわかっている。それにもかかわらず、あの男があんなことさえいわなかったら、自分はこうして一生涯精神上の負担に苦しまなくてもすんだのにと思うと、相手が憎くて仕方がない。その憎悪が積り積って、ある日、親しい友人として富豪の部屋に入った時、突然、衝動的にピストルを発射して相手を殺してしまう。手掛りは何も残さない。前の例と同じように、口喧嘩一つしたことのない間柄なので、疑うべき動機が皆無なために、難事件となる。この犯人の心理は劣等感というよりも、極端な利己主義と解すべきであろうか。自責の念を他人に転嫁し、その他人を殺すことによって、自責の念が消滅するかの如く、妄想するという、手におえない利己主義と解すべきであろうか。

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