11話 疑惑(2)
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どう見直してもこれ以上は分らなかった。
「昨夕の君の行先を当たのは、この郷表うんぬんの文句からだ。六三とあるのは番地としか考えられないから、上の郷表に相当する町名は、東京中に中之郷O町の外にない。僕は早速あすこへ行って見た。そして、訳なく中村寓と表札の出た小さな門のある家を発見した。中へ入って聾の婆さんにも逢った。主人は勤め人らしいことをいっていたけれど本当かどうか分らない。中村という人物はまるで姿を見せなかったが、僕はあの家そのものについて研究した。そして色々悟る所もあった。若し僕の想像が確だとすると、この事件には実に恐しい人物が介在している。そいつの呪が事件全体を非常に複雑なものにしている。だがそいつは恐く殺人犯人ではない、犯人はもっと別の所にいるのだ。だから、真犯人が見つかるまでは、残念だけれど、その悪魔の正体をあばく訳には行かない。僕は本当の犯人を逃してしまうことを恐れているのだ」
紋三は明智の廻りくどい話し方をもどかしく思った。明智のいっているのは昨夕山野夫人をつれ出した人物に相違ない。あの怪しげな男が夫人を脅迫していることは明白だ。だが、あの男が犯人でないとすれば、脅迫されている方の、三千子にとっては継母の百合枝夫人こそ、恐しい殺人者なのではあるまいか。彼はその外に考え様がない様に思った。明智も山野夫人を疑っているには相違ないのだが、果して彼女を犯人だと思っているかどうかは不明だった。
「ですが、この紙切れはどこから見つけ出したのです」
紋三はその点を明かにすれば、何か分り相な気がしたのだ。
「僕の腹心のお雪が拾ってくれたのだ。手紙の受取主は山野の奥さんだ。奥さんがここの文句にある通り、読んでしまってから細かく切り裂いて、丸めて、台所の七輪の中へくべたのを、お雪がそっと拾ったのだ。幸い七輪の火が少かったので、奥さんは焼けてしまったと思ったのが、中の方がこれだけ残っていた。封筒がすっかり灰になったのは残念だけれど、併しこれだけでも随分手がかりにはなる」
紋三はそれだけ聞くと、いよいよ彼の疑いを確めることが出来た様に思った。
「では、手紙の受取人が奥さんだとすると、この(御依頼により)というのは、奥さんの御依頼によりですね。(埋葬)というのは三千子さんの死体をどっかへ埋たことかも知れませんね。それから、この(と小生と蕗屋の三人のみ)の前には奥さんの名前がある訳ですね」
彼は矢つぎ早に想像を進めて行った。そして、実はビクビクしながら明智の表情をうかがった。
「そういう風にも考えられる、併し断定は出来ない。断定すれば犯人は山野夫人と極ってしまって、世話はないのだけれど」
明智はニヤニヤ奥底の知れない笑い方をした。
「でも外に考え様がないじゃありませんか」
と紋三は明智に本音は吐かせないでは置かぬ意気込みだった。
「奥さんを疑おうとすれば、まだほかにも材料があるよ」明智は落つき払っていた。「このショールと手提と、それからこの手文庫の中の草履だ。これはみんな三千子さんが家出の時、身につけていたといわれている品だが、僕のお雪はこの三品を山野夫人の部屋の押入れの隅から見つけ出してくれたのだよ」
「つまり山野夫人が三千子さんを家出と見せかけるために、その品々を隠して置いた訳ですね。そうだとすれば、なおさら夫人が疑わしいじゃありませんか」
紋三はこの新しい証拠品にギックリしながら、しかし一層烈しく突っ込んで行った。
「疑わしいだけで、まだ夫人が犯人だなんて極める訳には行かないよ」明智は軽く受流した。「君がそんなに夫人を疑うなら、試みにその反対の見方をして見ようか。まず第一は夫人が進んで僕に事件を依頼したこと、これは前にもいった通り犯罪者の高を括った大胆なお芝居だとしても、手紙が十分焼けてしまうまで見極めずに立去ったことだとか、大切な証拠品を自分の部屋の押入れの隅などへ、一寸探せばすぐ分る所などへ入れて置いたことだとかは、ピアノの指紋を消したり、死体をゴミ箱へ隠したりした手際とは雲泥の相違だ。犯罪者は往々下らない過失をやるものだけれど、これは少し馬鹿馬鹿し過ぎるかも知れない。とも考えられるじゃないか」
明智は態とらしく曖昧ないい方をして、暫く紋三の顔を眺めていたが、やがて、又しても意外なことをいい出した。
「だが夫人には、不利な証拠が次から次へと出て来るのだ。これなどもその一つだがね」
彼は卓上の妙な石膏のかけらを、指紋をつけない様に注意してつまみ上げた。
「これがやっぱり、夫人の部屋の押入れの奥から出て来たのだ。ショールなんかにくるんで小箪笥のうしろに隠してあったのだ。もっともこれは破片を一つだけ持って来たので、高さ一尺ばかりの石膏像のこわれたものが、すっくりそこにあったのだがね」
紋三は困った様な顔をして、明智を見た。
「イヤこういったばかりでは分るまいが、それについては先ずこのヘヤーピンを研究して置く必要がある」明智は曾てピアノの中から発見した、束髪針を取上げた。「探偵小説のソーンダイク博士ではないが、こいつには顕微鏡的検査が必要だった。僕はそういうことは一向不得手なので、友人の医者に頼んで見てもらったのだが、このピンの頭がひどくゆがんでいる。何か角のあるものでたたきつけた跡だ。で、僕は家へ持帰って明るい所でよく検べて見たところが、折れ曲った部分に白い粉がついている。なおよく見ると、生地が黒いのでよく分らないけれど、何だか血痕らしいものも附着している。それは今でもよく見れば残っているがね。その粉と血痕を削り取って顕微鏡で見てもらった結果は、粉の方は石膏と何か染料が混っているらしい。どうもブロンズに塗った石膏細工の粉だろうというのだ。血痕の方は人間の血に相違ないことが分った。そこで、山野の邸にブロンズの石膏像があったかどうかを調べる必要が生じた。だがこれはやっぱりお雪の証言によって苦もなく分った。三千子さんの書斎の棚の上に、首だけの青い像がのっていたというのだ。それには厚い台座がついていたので、投げつければ、当り所が悪ければ、人を気絶させることも、場合によっては殺すことも出来るだろう。山野夫人の部屋の押入れから出た石膏のかけらには、恐しく血痕がついていたのだから、台座の角が頭に当って、被害者は脳震盪を起したものに相違ない。そういう訳で、夫人の部屋で発見されたこの石膏のかけらは、いわば今度の殺人事件の兇器に相当するのだよ」
「それだけ証拠がそろっていても夫人が下手人でないというのですか」
「ないとはいわない。断言するのは少し早計だと思うのだ。この事件は見かけは簡単の様だけれど、その実かなりこみ入っている。先にいった怪物が関係しているだけでも、かなり特異な事件だ。一寸法師が生々しい片腕を持歩いたり、百貨店の飾り人形に死人の腕が生えたり、妙に常軌を逸した、人間らしくない所がある。それは兎も角、今もいう様に兇器が石膏像であったこと、死体をピアノの中へ隠したことなどから考えると、この殺人は決して準備されたものではない。恐らく犯人にとっても思いがけない出来事なんだ。まさか殺すつもりではなかったのが、ついこんな大事件になってしまった形だ。だが、それだから一層探偵の方は面倒なんだ。準備された犯罪は、どこかに計画の跡がある。その跡をたどって行けば、何かをつかむことが出来る。今度のはそれがまるでないのだからね」
「でも証拠という証拠が皆山野夫人を指さしているじゃありませんか」
「まあ待ち給え、まだ少し残っている。議論はあとにして兎も角一応説明してしまおう。僕もまだ忙しい身体なんだ。次はこの三通の手紙だ。これが又色々なことを教えてくれるのだよ。封筒が二つ、葉書が一つ、差出人は表にはどれもKとあるばかりだが、こちらの封筒の中味には北島春雄という本名が記してある。気味の悪い前科者が又一人事件に加わって来た訳だ。この北島というのはつい十日ばかり前に刑務所を出たばかりの前科者なんだよ。君は三千子さんをよく知っているのだろうが、随分だらしのない娘だね。親父は一人娘で甘いのだし、お母さんは継しい仲で、十分しつけが出来ないのだから、無理もないけれど、三千子さんという人は、恐らく生れつきの淫婦ではないかと思うね。
これは山野夫人からもらって来た、三千子さんの最近の写真なんだが、この写真を見ても、三千子さんの性質が想像出来る」
明智は卓上の大型の写真を取って、つくづく眺めながらいった。それは山野の家族一同がそろって撮したもので、大五郎氏を中心にして召使などもすっかり顔を並べていた。
「僕は三千子さんばかりでなく、運転手の蕗屋の顔が知りたくて態とこの大勢で撮ったのをもらって来たのだよ。そこにある破れた手紙によると、蕗屋がこの事件に何かのかかわりを持っていることは確だからね」明智は一寸説明を加えた。「僕は人間の顔を見ることが好きだ。じっと相手の顔を見つめていると、そこから何かしらわいて来るものがある。その人物の過去のあらゆる物語が小さな顔面に結晶している様な気がする。それを一つ一つほぐして行くのは非常に面白い。この三千子さんの表情なんかも色々なことを語っている。第一に来るのは人工という感じだ。作りものという感じだ。髪の結い方、化粧の仕方、洋服の着こなし、これだけを見ても、どんなに技巧のうまい女だか分る。それにこの巧な表情を見るがいい、これは決して生地のままの三千子さんじゃない。舞台に上った役者の顔だ。丁度隣に小間使の小松が竝んでいるが、面白い対照だね。この方は正反対に無技巧だ。着物から頭から、無表情な顔つきまで、すっかり昔流の日本娘だ。だが、こういうおとなし相な女は、思い込むと随分突飛なことをやり兼ねない。近眼と見えて眼鏡をかけている。それに眉が見えない。眉をそっているのは妙だね。生れつき薄い眉を隠すためなんだそうだが、何だか嫁入をした女の様な感じだね。薄い眉、アア僕は薄い眉を持った女を知っているよ。そいつは思い出しても恐しい奴だった」
明智は段々雄弁になって行った。何か非常にうれしいことでもある様子だった。併し、聞者の紋三は相手の饒舌が何を意味するものか、一寸見当がつかないのだ。彼は北島春雄という男から三千子に当てた三通の手紙をおもちゃにしながら、ふと小松の不思議な失踪について考えた。そして、話の様子では、もしや明智は小松を疑っているのではあるまいかと思った。
「小松がいなくなったことは知っているのですか」
「山野の奥さんから聞いた。僕は今それについて一つの考えが浮んで来たのだ。ひょっとしたら、この事件の中心人物はあの女かも知れないのだ」
明智は頭の毛を指でかき回しながらいった。彼は妙に興奮していた。紋三はやっぱり小松を疑っているなと思った。三千子に取っては恋敵の小松なのだから、若しあんなおとなしやかな娘でなかったら、彼女こそまっ先に疑わるべき人物だった。だが、紋三のこの推察は、少しばかり見当違いであったことが、後に到って分った。
「その手紙の話をしていたんだね」明智はふと気がついた様に話を元に戻した。「僕はそれを三千子さんの書斎のイスのクッションの中から見つけ出した。最初三千子さんの机なんかを調べた時に、手紙の束を見たけれど、妙に当り前のものばかりで、興味をひかなんだ。若い女の所にはもっとはなやかな手紙があってもいいと思った。で、次に行った時には、どこか秘密の隠し場所でもないかと綿密に探して見た。本棚なんかも調べた。すると、この令嬢が案外にも探偵小説の愛読者だったことを発見した。内外の探偵本がそこにずらりと並んでいたのだ。くすぐったい気持だ。三千子さんが探偵趣味家だとすると、いささか捜査方針を替えなければいけないと思った。そこで今度は探偵好きの隠し相な場所を探した。そして、最初に気づいたのがイスのクッションだった」
明智はおかし相に笑った。
「ところが、驚いたのは、クッションの中に隠されていた艶書の分量だ。父親の監督不行届と、母親の遠慮勝ちだったことが一つはいけないのだが、娘自身生れつきの淫婦でなくては、あれだけのふしだらが出来るものでない。しかも両親は少しも知らないでいるのだ。日付にして二年ばかりの間に、七人の男と艶書のやりとりをしている。それが皆相当深い関係まで進んでいたらしい文面なんだ。その七人目が運転手の蕗屋だ。これは寧ろ三千子さんの方から打込んでいたらしい。写真で見ても女に好かれ相な男だ。蕗屋の方もかなり真剣な手紙を書いている。だが一方に小松との関係があるので、それを三千子さんが責める。併し蕗屋としてはそうむごいことも出来ないといった立場らしかった。蕗屋の前にもう一人男があって、この北島春雄とはその前の関係だ。手紙を読めば分るが、自業自得とはいえ、この男は可哀相なんだ。三千子さんのために牢にまで入っている。それを両親に少しも気づかれない様に秘しかくしていたのだから、三千子さんも恐しい女だ。まずその封筒の方のを読んで見給え」
手紙の日付は両方とも――年二月となっていた。つまり約一ヶ年以前に書かれたものだ。
……己は貴様をのろう。貴様の歓心を買うために己がどんな苦労をしたか。とうとう己は泥坊とまでなり下った。貴様とつき合って行くためには、貴様に軽蔑されないためには己はその外に方法がなかったのだ。詐欺で訴えられて、己は今ひかれて行くのだ。いつか貴様に金策を頼んだことを覚えているか。あの時に何とかしてくれたらこんなことにならないで済んだのだ。併し貴様は、とっくに変心していた。もう一人の男の所へ行くのを急いで、己のいうことなんか聞きもしなかった。あの時の己の心持が想像出来るか。恋の恨みと罪の恐れだ。己はもう半分気違いだった。己は幾度も短刀を懐にして貴様の邸のまわりをうろついた。だがどうしても機会がなかった。己はこの怨みをはらすまでは、警察の手を逃れたいと、下宿に帰らないで木賃宿に泊っていた。貴様のすべっこい頬っぺたに、短刀を突込んで、グリグリかき回してやることばかり考えていた。だがもう駄目だ。己はとうとうつかまってしまった。刑事に泣きついてやっとこの手紙を書く暇をもらった。いいたいことは山程もあるが、もう時間がない。ただ一つ約束して置くことがある。己は何年食い込むか知らぬが、牢を出たら誓って復讐してやる。己は今からその日を楽しみにしている。貴様も首を洗って待っているがいい。……
もう一つの封書は、その十日程前に書かれたもので、それにはたった一度でいいから逢ってくれという、哀訴歎願の言葉が綿々と書きつらねてあった。
葉書には三月二十七日の日付があった。三千子変死の一両日前に届いたものだ。恐らく彼は刑務所を放免されると、その足で郵便局に立寄ったのであろう。鉛筆の走り書きで、当事者にしか分らない簡単な、併し恐るべき文句が認めてあった。
お喜び下さい。やっとお目にかかれる様になりました。近日中に是非お目にかかってお約束を果すつもりです。例のお約束を。K
「こんな葉書を受取って黙っていたのですね。怖くなかったのでしょうか」
紋三は読み終って不審をはさんだ。
「僕もそれを考えたのだが、ひょっとしたら山野さんには打開けてあったかも知れない。僕は実はまだ一度も山野さんに逢っていないのだよ、熱がひどいらしいので。だが警察の保護なんか願っていないことは確だ。それをやるのは随分恥さらしだからね。三千子さんも蕗屋を憚って打開け兼ねていたのかも知れない。恋人にそういう前科を知られるのはつらいことだから」
「それだと、今度の事件は、この執念深い失恋者の復讐だったかも知れない訳ですね」
紋三は次々と現れて来た証拠品に面食った形だった。彼は今日この菊水旅館に来るまでは、幾分事件の真相をつかんだ気持でいたのが、明智の話を聞いている内に段々自信を失って行った。これらの証拠品が一体何を指し示しているのだか、明智がどんな判断を下しているのだか少しも分らない。不思議なことには証拠が一つ現れる度毎に、事件の真相が明かにはならないで、反対に益々ややこしく不明瞭なものになって行く様に思われるのだ。
「サア、その点も今のところ確なことはいえないが、もしこの男が下手人だとすると、色々つじつまの合わぬところが出来て来る。第一あの晩には外部から人の入った形跡が少しもないのだからね。といって丁度この男が出獄した時に、三千子さんが殺されたというのは、偶然にしては一致し過ぎている様にも思われる。北島は一年の間牢の中で復讐のことばかり考えていたに相違ないのだから、どんな巧妙な手段を考え出していたか分らない。その上失恋と前科の為に半気違いになった捨て身の仕事だし、彼が下手人でないとは容易に断言出来ないよ」
紋三は、明智が態と曖昧ないい方をして彼をじらしているのではないかと思った。同時にふと例の一寸法師の醜い姿が浮んだ。彼はこの頃何か不可解な事実にぶっつかると、すぐあの畸形児を思い出す様になっていた。
「この北島の行方は分っているのですか」
「今のところ分っていない。だがこれが警察の手に渡れば、前科者でもあるし、そう骨折らないで探し出せるだろう。それは兎も角、ここにまだ少しばかり証拠品が残っていた」明智は卓上の化粧品類と吸取紙を目で示して、「君はもう夫人から聞いて知っているだろうが、例の百貨店の片腕と、それから昨日山野氏にあてて郵送して来たもう一つの片腕の指紋を取って、三千子さんの指紋がそれに一致するかどうかを調べて見たのだ。そして、不幸にして僕の推察が当ったのだが、その証拠がこれだ」
明智は大切相に麻のハンカチを解いて、色々な形の瓶だとか、ニッケル製の容器だとかを、そこに並べた。それらの滑かな表面には沢山の黒い斑紋が現れていた。指紋をはっきりさせるために黒い粉をふりかけてあったのだ。
「三千子さんは随分おしゃれだったと見えて、化粧品の種類は驚く程あった。手の化粧品や爪磨き粉、やすり、バッファーなんかも一通りそろっていた。だがその中で、指紋のよく出ているのはこれだけで、あとは容器の表面がザラザラしていたり、紙製だったり、滑かなものでも、大部分は指紋がちっとも残っていないので役に立たない。鏡の表面だとか抽斗の金具も調べたけれど、掃除してしまったあとだった。だがこれだけあれば証拠品としては十分過ぎる位だ」
明智は容器を一つ一つ、つまみ上げて、大切相に並べ替えて行った。
「過酸化水素キュカンバー、緑の水白粉、練白粉、花椿香油、過酸化水素クリーム……みんな平凡だな、和製の余りお高くない品ばかりだ。それに三千子さんはどうも無定見に手当り次第の化粧品を集めている。上品な趣味じゃないね。だが、こいつはポンピアンの舶来だ。といって大して高級品でもないけれど、脂肪の強いクリームだな」
明智はその最後の品を、何か楽しげにいつまでも玩んでいた。
「それだけは指紋がついてない様ですね」
紋三はふと気がついて尋ねた。
「外側はふいた様に綺麗になっているがね、ソラ御覧、中のクリームに、こんな完全な指の跡がついているから」
明智はそういって、いたずら小僧みたいなズル相な表情をした。
最後の一品は桃色の吸取紙であったが、それには三千子の指紋がある外には、別に注意すべき点もなかった。沢山の文字を吸取った跡が、重なり合ってついていたけれど、皆不明瞭で、とても読みとることは出来なんだ。
「サア、これで僕の発見しただけのものは、すっかり御目にかけた。今度は君の方の話を聞こうじゃないか、昨夜の話を」
明智は卓上の品々を手文庫の中へしまいながら紋三を促した。
「イヤ駄目ですよ」紋三は頭をかいた。「あなたが知っている以上のことは何もないのです」
彼は昨夜山野夫人達がいつの間にか内の中から消えてしまったことを手短に話した。
明智はその不思議な事実を、一向驚きもしないで、興味のない顔で聞き流した。そして、ふと何か思いついた様に、突然まるで違ったことを尋ねた。
「三千子さんは血色のいい方だったかい。写真ではよく分らないが、どっちかといえば赤味がかったつやつやした顔じゃなかったの?」
「イヤ、その正反対ですよ。別に身体が弱かった様にも聞きませんが、どっか病的なすさんだ感じで、顔なんかも青白い方でした。それをお化粧と表情の技巧で巧に隠していました。僕は以前から、何だか処女という感じがしなかったのですよ」
紋三は変な顔をして明智を見た。明智はしきりと例の頭の毛をかき回す癖を始めていた。
やがて明智はしゃべるだけしゃべってしまうと、相手がまだ何か聞きたそうにしているのも構わず、もう用事が済んだという調子で、女中を呼んでお茶を命じた。
間もなく紋三は暇を告げて菊水旅館を出た。彼は歩きながらも、電車に乗ってからも、明智に見せてもらった証拠品と、次々に現れて来た疑わしい人物のことで頭が一杯だった。
「あの中で、化粧品と吸取紙は三千子さんの指紋を確めるだけのものだから別として、椅子のクッションから出た手紙によって北島春雄を疑えば疑い得る外には、ヘヤーピンにしろ、石膏像にしろ、ショールにしろ、手提にしろ、フェルト草履にしろ、ことごとく山野夫人に不利な証拠ばかりだ。その上夫人は怪しい手紙を七輪にくべたり、不思議な男と密会したりしている。たれが考えたって、夫人こそ第一の嫌疑者に相違ない」
紋三は明智の弁護があったにも拘らず、どうしてもこの考えを捨てることは出来なかった。彼は又、今までに現れた疑わしい人物と、想像し得べき殺人の動機について考えて見た。
「何等かの意味で疑うべき人物が六人ある。その内一寸法師と昨夜山野夫人を連れ出した男とは、まるでえたいが知れない。運転手の蕗屋は、丁度事件のすぐあとで国に帰ったこと、先程の焼残った手紙の中に彼の名前が記されていたことなど、十分疑うべき所はある。だが、この三人は、どうも直接の加害者でなさそうだ。今の所何等疑うべき動機がないし、前後の事情を考えても、そんな風に思われる。それに反して山野夫人、北島春雄、小松の三人にはそれぞれ三千子を殺し兼ねない動機がある。夫人は三千子の継母で、あの我まま娘と仲のよくなかったことは確だし、北島は失恋の恨みで気違いの様になっていたのだし、小松は蕗屋との恋を奪われた深い恨みがあったのだ。ところで、この三人の内、もし北島が加害者だとすると、当夜外から人の入った形跡のなかったこと、予め兇器を用意しないで三千子の部屋の石膏像なんかを使用したこと、三千子の死体を一度隠してあとになって持出したことなどが、一寸つじつまが合わぬ様に思われる。小松は元来おとなしい女で、あんな恐しいことは出来相もないし、もし彼女が犯人だったとすれば、なぜ昨夜まで逃亡を躊躇していたかが疑問だ。結局最も疑わしいのは山野夫人ではあるまいか」
紋三の考えはどうしてもそこへ落ちて行った。彼はまだ生々しい昨夜の奇怪な経験を忘れることが出来ないのだ。