一寸法師

14話 誤解

7,206字 約14分 2017年10月28日 公開

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 小林紋三は明智の指図に従い、表の方の窓を開いて、大声に怒鳴った。そしてそこに見張りをしていた刑事が駈出すのを見送ると、一瞬間、ぼんやりと突っ立っていた。明智の跡を追って屋根に上ったものか、ここに(とど)まって山野夫人の介抱(かいほう)をしたものかと迷ったのだ。夫人は彼の足許にうつ()して死んだ様に身動きもしない。よく見れば細かく肩をふるわせて泣き入っていた。(えり)が乱れて乳色の首筋が背中の方までむき出しになり、その上を(おびただ)しいおくれ毛が這廻(はいまわ)っている。

 屋根の上の騒ぎも段々遠ざかり、階下の老婆はどうしたのか姿を見せず、そのさ中に、異様な静寂が来た。世界が切離された感じだった。

「奥さん」

 紋三は夫人の肩に手をかけて低い声で呼んだ。すると突然夫人が、起き上って叫び出した。

「私です。三千子を殺したのは私です。お巡りさんにそういって下さい。小林さん、お巡りさんの所へ連れて行って下さい」

 青ざめた顔が涙にぬれて、脣が醜く痙攣(けいれん)した。

「イエ、その前に、(うち)へ連れて行って下さい。私は家へ帰らなければならないんです。サア、早く早く、小林さん」

 彼女は紋三の腕にすがる様にしてわめいた。充血した目が人の来るのを恐れて、キョトキョトあたりを見廻した。

 紋三も興奮のために青ざめていた。不思議な戦慄が背中をはった。なめてもなめても脣が(かわ)いた。

「奥さん逃げましょう」

 彼の声はかすれ震えていた。

「早く、家へつれて行って」

「僕と、僕と一緒に、逃げましょう」

 百合枝は激情の為に立上る力もなかった。紋三の肩に(すが)りついては、くずおれた。彼は夫人の狭い胸を(いだ)く様にして、やっと階段を降りることが出来た。降りたところに耳の遠い老婆がポカンと立っていた。彼女は何かしら騒動が起ったことを感じて、やっとそこまで出て来たところだった。

 紋三は老婆をつきのけて入口へ走った。そこにあり合せた下駄を(つっ)かけて門の外へ出た。見張りの刑事は一寸法師の方へ行って誰もいない。彼等はもう暗くなり始めた町を、人通の少い方へ少い方へと、よろめきもつれて走った。幸い誰も見咎(みとが)める者はなかった。

 電車通りも無難に越して、彼等はいつか隅田川の(つつみ)へ出ていた。その(ほか)に逃げ道はなかったのだ。夫人は息切れがしてしばしば倒れ相になった。紋三の肩に縋った夫人の手が、キュッキュッと彼の首をしめた。冷たい乱れ髪が彼の耳をなぶった。やがて彼等は山野邸への曲り道までたどりついた。

「そちらへ行くんじゃありません、今(うち)へ行ったらつかまるばかりです。サア、もっと走るんです」

「イイエ、私はどうしても、一度家へ帰らなければならない。離して、離して」

 夫人はか弱い力をふり絞って、邸の方へ曲ろうとしたが、紋三がしっかり抱き込んで、そうはさせなかった。

「心配しないだっていいです。僕はどこまでもあなたと一緒に行きます。サア、愚図愚図(ぐずぐず)している時じゃありません。逃げましょう。逃げられる所まで逃げましょう」

 紋三は夫人を引ずりながら、上ずった声でいった。それでも彼女は暫くの間、紋三の腕の中でもがいていたが、やがて力がつきた。紋三は夫人の身体が突然しっとりと柔かく、重くなったのを感じた。彼女は身も心も疲れ果てて、あらがう気力も()せたのだ。

 紋三は殆ど夫人を(いだ)き上げる様にして、堤を北へ北へと走った。行くに従って人家がまばらになり、夕暗は一層色濃く迫って来た。幾町走ったであろうか、ふと見れば、堤の右手に当って真暗に茂った深い森があった。

 紋三の足は二人分の重味の為にもういうことを聞かなくなっていた。息切れがして胸がはじけ相だった。丁度その時休み場所には屈強(くっきょう)の森が見つかった。彼は倒れ込む様にその中へ入って行った。殆ど気を失った夫人の身体を大樹の蔭の草の上に寝かせて置いて、堤に引返すと、彼は川の所まで(はい)おりて、汚い水をすくって飲んだ。そうして少しばかり咽喉(のど)が楽になると、今度はハンカチに水を含ませてそれを持って森の中へ入って行った。

 百合枝は元のままの姿勢でそこに仰臥していた。顔だけがクッキリと浮び、(みだら)がわしくとりみだした風情(ふぜい)は、薄暗の中に溶け込んで、夢の様な美しさを(かも)し出した。

 紋三は濡れたハンカチを片手にボンヤリとその美しい姿を眺めた。昨日までは愛すればこそ、一種の恐れをさえ抱いていたこの人と、今駈落(かけおち)をしているのだと思うと、悲壮な様な、甘い様な、名状(めいじょう)出来ない感じで胸が痛くなった。

 彼はそこに膝をついて、百合枝の首を抱き上げると、彼女の脣へ、濡れたハンカチの代りに、いきなり自分の脣を持って行った。そして、彼がまだ小さい子供だった時分、隣に眠っていた従妹(いとこ)にした様に、彼女の接吻(せっぷん)を盗むのだった。

「アラ、私どうしたのでしょう」

 やがて、接吻の雨の下から、百合枝の脣がいった。

 彼の余りの激情が彼女の眠りをさましたのか、それとも彼女は凡てを知っていて、態と今気のついた(てい)を装っているのか、紋三は疑わないではいられなかった。それ程百合枝のさめ方は不自然で、それにさめたあとでも、彼女の首をまいた紋三の腕を(こば)もうともしないのが変だった。満更気のせいばかりでないと思うと、紋三は目の中が熱くなった。

「どうです、歩けますか」彼はさっきのハンカチを百合枝の口に当てがって「もう少しの我慢です。この辺を右に折れて行けば、曳舟(ひきふね)の停車場があるはずです。そこから汽車にのりましょう。そしてどっか遠いところへ行きましょう」

「イエ、もう駄目ですわ。逃げたって駄目ですわ。あいつがもうすっかり白状してしまったに違いないのですもの」

「何をいうのです。だから逃げるんじゃありませんか。それともあなたが、とても逃げおおせないと思うのだったら」彼は殉情(じゅんじょう)に目を光らせて、芝居のせりふめいた声を出した。「僕は命なんかちっとも(おし)くないのです。あなたと一緒に死ぬんだったら、命なんかちっとも惜かないのです。僕を一緒に死なせて下さいますか」

「マア、あなたは……どうして死ぬことなんかおっしゃるのです」

「だって、あなたは絞首台が怖くないのですか。無論僕だって逃げられるだけは逃げた方がいいと思うのだけれど、でもいよいよ逃げられなくなった時は、死ぬ外ないじゃありませんか」

「それはそうですけど。……」

 百合枝はそういったまま、暗の中に坐って、長い間黙っていた。紋三も彼女の一方の手を握り(しめ)て物をいわなかった。

「あなた、どこまでも私の味方になって下さるわね」

「どうしてそんなこと聞くのです。分りませんか」

「分ってますわ。でも、私が今まで通り山野の貞淑(ていしゅく)な妻であっても」

「エエ」

「どんなことがあっても?」

「誓います」

「じゃいいますが、三千子を殺したのは私ではないのです。外に下手人がいるのです」

「エ、それは一体だれです」

 紋三はびっくりして尋ねた。

「山野です。私の夫の山野です。ですから、私は一刻も早く家に帰って、あの人を逃さなければなりません」

「だって、山野さんは三千子さんの実の親じゃありませんか。そんな馬鹿なことがあるもんですか。よし又そうとした所で、逃すなんて、あの大病人をどうしようというのです。それに、お邸には今頃はもう警察の手が廻っているに相違ないのですよ」

「アア、やっぱり駄目ですわね。でもひょっとしてあの不具者がうまく逃げてくれたら、そうすれば秘密がばれないで済むかも知れないのです」

「あいつですか。あいつが秘密の鍵を握っているのですか。それで、あなたはあんな奴の命令に従っていたのですね。御主人の罪を隠したいばかりに」

「その外に私に出来ることはなかったのです」百合枝は涙声になった。「そのことが分った時から、私は山野の家名と主人の安全のために、命を捨てても尽さなければならないと決心したのです。それが私のなくなったお母さまの教えなのです」

「…………」紋三はボンヤリして相手の激情を眺めていた。

「あなたは主人と私との関係をよく御存じないでしょうが、私の家にとっては山野家は大切な恩人なのです。私がひどく年の違う主人にとついだのも、主人のために犠牲になる決心をしたのも、皆私のなくなった両親の志をついだのです。私の気性としてそうしないではいられなかったのです」

「ですが、それにしても僕には分らないことがあります」紋三はやっと気を取り直していった。「あなたは焼き捨てたと思っているでしょうが、あなたの受取った変な手紙が明智さんの手に入ったのです。例の不具者があなたをO町の家へ呼び出す為に書いた手紙です。それには確か、御依頼の三千子さんの死体を(うず)めた、このことはだれそれと私と蕗屋の三人しか知らないという意味が書いてありました。一人の名前だけ焼けていて分らないのですが、それが手紙の受取人のあなたでなくて誰でしょう。その外色々な証拠があるのです。例えばあの日に三千子さんが持って出たというショールだとか手提だとかがあなたの部屋の押入に隠してあったじゃありませんか。それだけじゃない。三千子さんの頭を()ったと想像される石膏像まであなたの部屋にあったのだ。僕があなたを疑ったのは無理じゃないでしょう」

 紋三は照れ隠しに、様々の証拠を並べ立てた。

「マア、そんなものが私の部屋にあったなんて、ちっとも知りません。明智さんが見つけなすったのですか」

「イイエ、小間使のお雪です。あれが明智さんに買収されていたのですよ」

 美しい夢を台なしにされた紋三は、自棄(やけ)気味になっていた。

「マア、そうですの。でもそれはちっとも知りませんわ。さっきおっしゃった手紙なら覚えがありますけれど、あれまで明智さんの手に這入っているのですか。……あの手紙なんです。私が初めて本当の下手人を知ったのは。不具者が山野の頼みで死骸の始末をしたことを打明けて、私を脅迫して来たのです。私と主人の関係や私の気性をよく知っているものだから、その弱味につけ込んで、私を思う様にしようと企らんだのです。あの手紙は一番最初明智さんがいらしったあのあとで受取ったのですよ。あの時まで三千子が死んだことさえ半信半疑でした。でなければ、私が三千子をどうかしたのだったら、何で明智さんなんかお願いするものですか」

 紋三は余りにことが意外なのと、飛んだ思い違いをして、夫人と一緒に死のうとまでいい出した恥かしさ、この納まりをどうつけていいのだか、見当がつかなくなってしまった。

 すっかり秘密を打開けてしまった百合枝は、もう何も()もおしまいだという(てい)で、がっかりうなだれていたし、美しい夢の国から現実界へつき落された紋三は馬鹿馬鹿しさと恥かしさに、咄嗟にいうべき言葉もなくぼんやりそこに坐っていた。長い間気まずい沈黙が続いた。

「では、あの手紙に書いてあった三人の内の不明な一人は」やっとしてから、紋三はいやに事務的な調子に変って尋ねた。「山野さんだったのですか。つまりあの不具者が山野さんの頼みを引受けて死体を埋めた訳ですね」

「そうですの」夫人は答えは答えたけれど、もうどうでもいいという様な、なげやりな調子だった。

「それがうそでないことは、丁度三千子がいなくなってから、主人は店のお金を随分持ちだしているのです。支配人が心配して私に話してくれたのですが、主人にそんな大金の入用があったとは思えないのです。私はあの手紙を見ると、すぐそこへ気がつきましたの。そしてそのお金はもしかしたら、半分は運転手にやったのかも知れません。主人があの男を態々大阪まで追っかけて行ったのは、三千子を誘拐したのを、取戻すためだといってましたけれど、あとでは秘密を口外させないために、お金をやりにいったのだと分りました。でも私は主人を疑う様な素振(そぶり)は、これっぽっちも見せないでいました。ああして病気までしているのを見ると、気の毒で仕様がなかったのです」

「蕗屋がどうかして秘密を知ったのですね」

「エエ、はっきりしたことはいえないんだけれど、あのゴミ車を()いたのが蕗屋じゃなかったかと思うのです。だって、まさか山野自身がそんな真似はしまいし、養源寺さんは、あの不具者でしょう。外に三千子の死骸を(はこ)ぶ様な人がありませんもの。しかし、そんなことを今更詮索(せんさく)して見たって始まらないわ。小林さん、あたしどうすればいいんでしょうね」

「兎も角御邸へ帰って見ようじゃありませんか。まさかさっきの様に僕と駈落して下さいとはいえませんからね」紋三は(あか)くなってぎこちなく冗談みたいなことをいった。「うまく彼奴(あいつ)が逃げてくれるか、一層(いっそ)屋根から落ちて死にでもしたら、又善後策のほどこし様もありましょうが、しかしこうなったらどっちみち覚悟しなきゃなりますまい。この先とも僕はあなたの味方になって出来るだけのことはやって見ますよ。それはお許し下さるでしょう」

「私こそお願いしますわ」

 夫人が他意なく縋ってくるのを見ると、(おろか)なる紋三は、又少しうれしくなった。

 やがて二人は森を出て堤の上を山野家の方へ歩いていた。

「ですが、分らないのは山野さんの心持です。全体どうして、実の娘さんを殺す気になったのでしょう」

「山野は商売人にも似合わない堅苦しい男ですの、そしてカッとなると、随分思い切ったことをやるたちですから、多分三千子のふしだらを感づいて折檻(せっかん)でもするつもりだったのがつい激した余り、あんなことになったのではないかと思いますわ。それにはね、また色々な事情がありますの、召使たちにも隠してあったのですが、あの逃げて行った小間使の小松というのは、本当は主人の隠し子なんですの。堅い人ですけれど若い時分にはやっぱりしくじりがあったのですわ。それを普通なら娘として(うち)へ入れる所を、主人が今いう頑固者(がんこもの)だものですから、娘のしつけや、親戚の手前不都合だといって、それは蔭になって目はかけていましたけれど、表面は小間使ということにしていましたの」

「それじゃ、三千子さんと小松とは姉妹(きょうだい)なんですね」

 紋三は非常に意外な気がした。

「そうですのよ。姉妹でいて、二人はまるで気質が違うのです。三千子さんは大のおてんば、小松の方は商売人の腹に出来た子に似合わない、それはそれはよく出来た、おとなしい娘です」

 もうすっかり暗くなった堤の上を、二人はとぼとぼと歩いた。一つは身も心も疲れていたせいもあるが、一つは早く帰って真実に直面するのが恐しく、自然歩みが(のろ)くなったのだ。そして、何か(しゃ)べらなくては淋しくてたまらなかった。

「その実の娘同志が」夫人は語り続けた。「一人の男を、相手もあろうに運転手なんかを、争っているのを知れば、ああした山野のことですから、カッとせずにはいられなかったのでしょう。その心持はよく察しられますわ。地獄の様な気がしたに違いありません。そのふしだらな娘の一人が、やっぱり御自分のふしだらが生んだ罪の子だと思うと、たまらなかったのですわ。考えて見ると山野は本当に気の毒なんです」

「なぜ自首して(しま)われなかったのでしょうね。そんな過失だったら、大した罪にもならないでしょうに」

「だって、人一人殺したんですもの、仮令罪は軽くても、世間に顔向けが出来ませんわ。人一倍世間を気にする主人が、何とかして隠してしまおうとしたのは、ちっとも無理ではないのです。山野自身の安全だけでなくて、家名という様なものを心配したのですわ。なぜといって、もしこのことがパッとすれば、山野のふしだらから、娘達の醜い争いがすっかり知れ渡ってしまうのですから」

「三千子さんだけを折檻なすったのは、どういう訳でしょうか」

「それは公然の娘ですもの、主人はそんなことまで、几帳面に考える様なたちですの。それに、主人の愛が、どっちかといえば、不幸な小松の方へ傾いていたことも考えて見なければなりません。おてんば娘は主人の気風に合わないのですわ」

「奥さん、一寸黙ってごらんなさい」突然紋三が夫人を制した。「うしろからだれかついてくる奴があります」

 話をやめて、耳をすますと、確に人の気勢がした。それが尾行者に相違ないことは、こちらが足を止めると、向うもピッタリと立止まってしまうのだ。(やみ)をすかして見ると、すぐ側の木立の蔭に何者かが忍んでいた。

「誰です。私達に御用でもおありなんですか」

 紋三が虚勢を張って大きな声を出した。

「小林さん、私ですよ」

 すると、その男はノコノコ物蔭から出て、心安い調子でいうのだ。

「とうとう見つかっちゃった。O町から()けていたんだけれども、あなた方すっかり興奮して了って、ちょっとも気がつきませんでしたね。私ですか、明智さんの御手伝いをしている平田(ひらた)ってものです。一二度菊水館でお見かけしたんだけれど、御存じありますまいね」

 それを聞くと紋三は重ね重ねの醜態にカッとなった。さっきの森の中のことまで、この男の口から明智に伝わるのかと思うと、いい様のない浅間(あさま)しさに、いきなり相手に(つか)みかかりたい気持だった。

「何だってあとを尾けたんです」

「ごめん下さい。明智さんのいいつけなんです。私はあのO町の家の前に、あなた方の出ていらっしゃるのを、待っている役目だったのです」

「すると、僕等が逃げ出すことが、ちゃんと分っていたのですか」

「そうの様です。あなた方のあとを尾けて、もしお邸へお入りになればいいけれど、そうでなかったら、どこまでも尾行して、お二人の話なんかも詳しく聴取(ききと)れということでした。そして、もしお二人の身に(あやう)い様なことが起ったら、お救い申せと……」

「じゃなんだね。明智さんはあの家に奥さんのいることを知っていて、態と僕をつれ込んだ訳だね。そして、二人が逃げ出して、色々なことを話し合うのを立聞きさせようという手はずだったのだね」

「万一の場合なんですよ、万一そんなことが起ったら、こうしろという命令だったのですよ。何でも奥さんが飛んだ誤解をしていらっしゃるから、もしものことがあってはいけないということでした」

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