5話 令嬢消失(2)
読み方を変える
これだけが山野家に起臥していた。
「で、手懸りは少しもないとおっしゃるのですか」
彼は一応夫人の話を聞いてしまってから、改めて要点を質問した。
「ハア、本当に不思議でございますわ。先程も申します通り、三千子の寝室は洋館の二階にあるのですが、その洋館には出入口が一つしかございませんし、出入口のすぐ前には私共のやすむ部屋がありまして、洋館から出て来ればじき分るはずなのでございます。よし又私共が気づきませんでも、玄関を始めすっかり内側から締りがしてありますので、抜け出る道はないはずですの」
「洋館の方の窓なんかも締りが出来ていたのですか」
「ハア、皆内側からネジが締てありました。それに窓の外の地面には、丁度雨のあとで柔かくなっていましたけれど、別に足痕もないのでございます」
「もっともお嬢さんが窓から出られるはずもありませんね。……、その前晩には何か変ったことでもなかったのですか」
「これということもございませんでした。よいの内はピアノなど鳴している様でございましたが、九時頃私が見廻りました時には、もうよく寐入っておりました。それに、丁度私の見廻ります少し前に、主人が店から帰りまして、三千子の部屋のすぐ下の書斎で、長い間調べ物をしていたのでございますから、三千子が部屋から降りて来るとか、何者かが忍び込むとかすれば、主人が気のつかないはずはございません。そして、主人がやすみます時分には、もう召使なども寝てしまいますし、すっかり戸締りが出来て、抜け出す道はなくなっていたのでございます」
「妙ですね。まさかお嬢さんが消えてしまわれた訳でもありますまい。きっとどこかに手抜かりがあったのですよ」
「でも、戸締りの方はもう間違いないのでございますが。警察でも色々調べて下すったのですけれど、刑事さんなんかも、どうも不思議だとおっしゃるばかりでございますの」
「朝の間に出て行かれた様なことはありませんか」
「それは、小間使の小松と申しますのが、朝の郵便を持って参りまして、三千子のベッドの空なことが分ったのですが、その時分はまだ表の門を開けないで、書生が玄関の所を掃いていましたし、勝手口の方もまだ締りをはずしたばかりで、女中共がずっと勝手許にいたのでございますから、とても知れぬ様に出て行くことは出来ません」
「お嬢さんが家出をされる様な原因も、別にないとおっしゃるのですね」
明智は質問を続けた。
「ハア、少しも心当りがございません。ただわたくしが継々しい仲だものですから、妙に邪推されはしないかと、それだけが辛うございますわ。ですから、わたくしの立場としましても、一日も早く三千子の安否が知りたいのでございます。こうして主人の留守中にこちらへ伺いましたのも、そんな訳で、わたくしじっとしていられなかったものですから」
山野夫人は、もう二三度もくり返した彼女の苦しい立場を、またくどくどと説明した。
「御縁談とか、外に何か恋愛という様なことはなかったのですか」
「縁談は二三あるにはあったのですけれど、どれも本人が気に染まないとか申しまして、まだ取極めてはおりませんし、外にも別に……」
夫人は何かいいしぶって見えた。
「では御主人が大阪の方へお出でになったといいますのは?」
明智は夫人の急所を突いた。
「ハア、それはあの……」夫人はどぎまぎしながら「あちらに三千子の大好きな叔母さんがいますものですから、主人はもしやそこに隠れているのではないかと申すのでございます」
然し、今山野夫人がいいしぶったのは、もっと別の事柄らしく見えた。
「伺っただけでは、随分不思議な出来事ですが」明智は考え考えいった。「今の少しも出口のない家の中で、お嬢さんの姿が消えてしまったという様なことも、実際そんなことは不可能なんですから、どっかに極くつまらない、後では笑い話になる様な思い違いがあったに相違ないのです。そして、その点が明かになれば、存外手易くお嬢さんの在家が分らないものでもありません。一度私にそのお嬢さんのお部屋を見せて頂けないでしょうか。ひょっとしたらわけなくなぞが解けるかも知れませんよ」
「エエ、それはもう。どうかお願い致しとうございますわ。では、丁度車が待たせてございますから今からお出かけ下さいませんでしょうか」
そこで、明智の着換えをするのを待って、三人は菊水旅館を出た。明智は上海から持って来た自慢の支那服を着て、合の中折をかむった。彼は数年以前に比べると、このごろではいくらか見え坊になっていた。自動車の中では、三人共余り物をいわなかった。てんでんに考え事があった。
「極くつまらないこと、素人が考えて、馬鹿馬鹿しい様なことが、謎を解く場合には随分重大な役目をつとめます。殊に犯罪には常軌を逸した馬鹿馬鹿しい事がつきものです。そういうものを馬鹿にしないことが犯罪を解く者の秘訣です。……こんなことを外国の有名な探偵家がいい遺していますよ」
明智はだれにともなく、ひとりごとをいっていた。
三人詰のクッションに、山野夫人百合枝を中にはさんで、右に明智、左に小林紋三が腰かけていた。紋三は車が揺れて山野夫人の膝が彼の膝を押すたびに、段々身をすくめて、隅の方へ小さくなって行った。それでいて、彼はこの始めての経験を、私に楽しんでもいるのだった。
車はやがて隅田川を渡り、川沿いに向島へと向った。吾妻橋を通り過ぎる時には、紋三は今朝の不愉快な一条を思い出していた。すると、又しても三千子の行方不明と例の奇怪な一寸法師の持っていた生々しい片腕とが、いまわしい聯想となって彼の頭に浮んだ。
山野氏の自宅は向島小梅町の閑静な場所にあった。自動車は威勢のいい警笛を鳴しながら、立派な冠木門を入って行った。
掃き清められた砂利道を通って、自動車は日本建の玄関に横づけされた。その和風の母屋の右側には、かぎの手になって小さなコンクリート作りの二階建洋館があり、母屋から少し離れて左側には木造のギャレージが見えていた。決して宏壮ではなかったけれど、何となく豊かな感じを与える邸だった。
玄関を上ると、山野夫人はそこに出迎えた書生に、何事か尋ねている様子だったが、やがて長い廊下を通って、二人を洋館の階下の客間へ案内した。余り広くはないけれど、壁紙、窓かけ、絨毯などの色合や調度の配列に細かい注意が行届いていて、かなり居心地のよい部屋であった。一方の隅にはピアノが置かれ、そのつやつやした面に絨毯の模様を映していた。
「履物をお検べになりましたか」
白麻で覆ったひじかけ椅子にドッカリ腰を下すと、明智はぶっきらぼうに妙なことを尋ねた。
「ハア?」
夫人は彼の頓興な口の利き方に、一寸驚いて、微笑みながら聞き返した。彼女は一度日本間の方へ立去ろうとしていたのを、明智が話しかける様子なので、思い返して椅子についた。
「家出をなすったとすれば、お嬢さんの履物が一足なくなっているはずですね」
明智が説明した。
「アア、それなれば、粗末な不断にはきますのが見えないのでございます。それと、ショールと小さい網の手提がなくなっております」
「着物はどんなのを……」
「常着のままでございます。黒っぽい銘仙なのです」
「するとつまり」明智は皮肉にいった。「一方では厳重な戸締りがあって一歩も外へ出られないはずだし、一方ではショールだとか履物だとか、家出をなすった証拠がそろっているという訳ですね」
「左様でございますの」夫人は当惑して答えた。
「じゃ、一つこの洋館の中を見せて頂きましょうか」
明智はいいながら、もう起上っていた。
階下は客間とその隣の主人の書斎との二室きりだった。明智は書斎を一渡り眺めてから、外の廊下の端の階段を上って行った。小林と山野夫人がその後に従った。二階は三室に分れていて、その全体を一人娘の三千子が占領していた。部屋の様子で三千子が余り几帳面なたちでないことが察せられた。化粧室には姿見の前に様々な化粧道具が乱雑に並んでいた。書斎では書だなや机の上が不秩序に取散らされていた。
夫人は一々戸だなや押入を開けて見せた。机の抽斗から最近の手紙類をも出して見せたが、何一つ明智の心をひくものはないのだ。
「押入などは、その朝もよく調べましたのですが、別状ございませんでした」
夫人は少しも手抜りのなかったことを示そうとした。
「だが、幽霊ででもなければ、戸締りをした部屋を抜け出すことは出来ませんね」
明智は壁紙に触ったり、窓の締りを調べたりしながらいった。
「ひょっとしたら、お嬢さんはまだ内の中にいらっしゃるのではありませんか」
それを聞くと紋三は、三千子が五日間も家の中に隠れていたとすれば彼女はとっくに死骸になっているに相違ないと思った。彼は昨夜来の悪夢の様な感じがまだ抜け切らないのだ。
一通り見てしまうと三人は元の客間へ帰った。
「お嬢さんはピアノがお好きと見えますね。奥さんはお弾きになりますか」
明智は客間の大きな立型ピアノの前に立って、鍵盤の蓋を開けながら尋ねた。
「イイエ、私は一向無調法でございますの」
「じゃ、お嬢さんの外には弾かれる方はないのですね」
夫人がそれに肯くのを見ると、明智は何を思ったのか、いきなり弾奏椅子に腰かけて、鍵盤をたたき始めた。
明智の突然の子供じみた仕草が二人を驚かせた。が、それよりも一層変なのはピアノの音であった。明智の指が鍵盤に触ると、発条のゆるんだボンボン時計の様な音が響いて来た。
「いたんでますね」
明智は手を止めて夫人の顔を見た。
「イイエ、そんなはずはございませんが。ずっと三千子が使っていたのですから」
明智は最前たたいたキイをもう一度試みたがやっぱり同じ音がした。その次のキイも喘息を病んでいた。三人はふとおしだまって顔を見合せた。彼等はある非常に不気味な予感にうたれたのだ。山野夫人は真青になって明智の目を見つめた。
「開けてもいいでしょうか」
しばらくして明智が真面目な表情で尋ねた。
「ハア、どうか」
夫人は心もち震え声で答えた。
明智は鍵盤の下部の金具を動かして、細目にふたを開き、中をのぞき込んだ。
紋三は明智のうしろから、および腰になってピアノの内部よりはむしろ明智の表情を注視した。彼はピアノの共鳴箱の空洞の中に、ある恐しいものを予期していた。腕と足とを切断された、血まみれの女の死体が、ありありと目の前に浮んだ。
だが、すっかりふたが取り去られた内部には、一見何の異状もなかった。広い空洞の奥に、縦横に交錯したスプリングが見えているばかりだった。
それを確めると、紋三はホッとして楽な姿勢に返った。そして、今の馬鹿げた空想をおかしく思った。彼は夫人と目を見合せて、一寸微笑み合った。夫人も同じ心に相違なかった。
併し、それにも拘らず、明智だけは一層厳粛な表情になってピアノの内部を一心に検べていたが、やがて立上ると、二人の方に振向いて、声を落していった。
「奥さん、これは普通の家出なんかじゃありませんよ。もっと恐しい事件ですよ。びっくりなすってはいけません。このヘヤーピンはお嬢さんのでしょうね」
明智は細い金属のヘヤーピンを示した。
「ハア、それは三千さんのかも知れません」
「これが、ピアノの中のスプリングに引かかっていたのです。それであんな音がしたのでしょう。それから、お嬢さんの髪は細くって、いくらか赤い方ではありませんか」
彼はピンの外に一本の毛髪を指にからませていた。
「マア、では……」
山野夫人は驚いて叫んだ。
「まさかお嬢さんが隠れん坊をなすった訳ではないでしょう。一人でこの中へ入ってふたをしめることは不可能です。すると、何者かがお嬢さんをここへ隠したと考える外はありません」明智は少しちゅうちょしたあとで、「これは僕の想像に過ぎませんが、その者は、一時お嬢さんを隠して、行方不明を装って置いて、皆の注意が別の方へそれた時分を見はからって、お嬢さんの身体を家の外へ運んだのではないかと思われます」
「でも、あの日は一人も来客はなかったのですし、ここは一番私共の部屋に近いのですから、だれか忍び込めばすぐ分るはずでございますが」
夫人はどうかして明智の想像を否定しようとした。
「とすると、お嬢さんはその時自由な身体であったとは考えられません」明智は構わず彼の判断を続けた。「声を立てたり身動きが出来たとすれば、だれかが気づいたでしょう。恐らくお嬢さんは動くことも叫ぶことも出来ない状態にあったのです。
妙な隠し場所ですが、咄嗟の場合外に方法がなかったのかも知れません。犯罪者というものは、一寸我々では想像出来ない様な、馬鹿げた思いつきをするものです。それが都合よくお宅に外にピアノをお弾きになる方がなかったものですから、見つからないで済んだのです。だが、お嬢さんを隠した奴は、存外冷静にふるまったようです。僕はさっきから、このふたの漆の上に指紋が残っていないかと調べて見たのですが、何もありません。綺麗にふき取ってあります」
最初は何か本当らしくない様な気がしたが、段々明智の説明を聞く内に、事件の性質がハッキリ分って来た。第一に気づかわれるのは、三千子の生命の安否であった。山野夫人は、それを口にするのが恐しい様子で、一寸もじもじしていたが、態となにげない風でいった。
「三千子は誘拐されたとおっしゃるのですか。それとも、もしやもっと恐しい事では……」
「それはまだ何ともいえませんが。この様子では楽観は出来ませんね」
「でも、三千子の身体をここへ隠したとしましても、どうしてそれを外へ運び出すことが出来たのでございましょう。昼間は私共始め大勢の目がありますし、夜分は戸締りをしてしまいますから、忍び込むにしても、外へ出るにしても、私共が気づかぬはずはございませんわ。朝になって戸締りがはずれていた様なことは一度もないのですから」
「そうです。僕も今それを考えていたのです。ここのガラス窓なんかも、毎朝締りをお調べになりますか」
「エエ、それはもう、主人が用心深いたちだものですから、女中達もよく気をつける様にいいつかってますし、それにあんなことのあったあとですから、皆一層注意しているのでございます」
「もしかお嬢さんが見えなくなってから」明智はふと気がついた様にいった。「何か大きな品物を外へ持出したことはないでしょうか。このピアノでも分る様に、お嬢さんをどうかした奴は、何だか突飛な考えを持っているのです。お嬢さんを運び出すのにも、馬鹿馬鹿しい手品を使ったかも知れません。つまりお嬢さんの身体を何かしら、まるで想像もつかない品物の中へ隠して、持出したのではないかと思うのです」
夫人は明智のこの妙な考えに一寸驚いた様に見えた。
「イイエ、別にそんな大きな品物なんか、持出したことはございませんわ」
「併し、お嬢さんがお邸にいらっしゃらないとすれば、何かの方法で外へ運び出されたに違いないのです。このピアノの様子では、お嬢さんが御自分で外出されたとは考えられませんからね」明智は一寸ためらってから、「大変御手数ですが、召使の人達をここへ御呼び下さる訳には行きますまいか。少し尋ねて見たいのですが」
「エエ、お易い御用ですわ」
そこで夫人は内中の雇人を客間に呼び集めた。何となく物々しい光景だった。五人の男女が入口のドアの前に目白押しに並んで、もじもじしていた。彼等は何者とも判断の出来ない、明智の支那服姿を、妙な目つきで眺めた。
雇人の内二人だけそろわなかった。小間使の小松は頭痛がするといって女中部屋で寝ていたし、運転手の蕗屋は二三日前から実家へ帰って不在だった。
明智はそんな風に、大勢を一室に集めて訊問の様なことをやるのは余り好まなかった。いつもの遣り口とは違っていた。だが、今彼は三千子の身体が(それは恐らく死体だったかも知れないが)どんな風にして山野邸を運び出されたか、その点だけを大急ぎで調べる必要があったのだ。
山野夫人はけげん顔の雇人達に明智小五郎を紹介して、何なりと彼の質問には、少しも遠慮せず答える様にと諭した。
「こちらのお嬢さんが行方不明になられてから、つまり四月二日ですね、あれからこっちのこのお邸に出入りした人を、出来るだけ思い出して欲しいのです」明智はすぐ様本題に入った。そして先ず玄関番の書生の方に目を向けた。
書生の山木は、ニキビ面を少し赧らめて、思い出し思い出し来訪者の名前を列挙した。そして、この男女合せて、十五六名の人達は皆長年の知合で、少しも疑うべき所はないとつけ加えた。夫人もその点は同意見だった。
「その内に、何か大きな品物をお邸から持出した人はありませんか。来客ばかりでなく家内の人でも、だれでも構わない、兎も角何か大きな物を持って門を出た人はないでしょうか」
「大きなものといってもせいぜい折かばん位のものです」書生は不思議相に答えた。「自動車や車は門を出たり入ったりしましたけれど、だれもそんな大きなものを運び出した人なんかありません」
外の雇人達もそれ以上のことは知らなかった。
「裏口の方からだれか出入りしたものはありませんか」
明智は最後に二人の下女中をとらえた。
「勝手の方は、見知り越しの御用聞き位のものですわね」
女中の一人が別の女中の方を見て同意を求める様にいった。
結局何も分らなかった。自動車の助手も、主人の外にはだれものせなかった。大きな品物なんか運んだ覚えはないと明言した。もしも彼等が何物をも見逃していなかったとすれば、この上は天井裏とか縁の下とか、邸内の隅々を探して見る外はない様に見えた。だがそれは既に山野家の人達によって一応探索し尽されていた。誠に山野三千子は煙の様に消えてしまったのであった。
「だが、そんなことは不可能です。何か見逃しているものがある。現にあなた方はこのピアノを見逃していた。もっとあなた方が注意深かったなら、運び出されない内に、お嬢さんを見つけていたかも知れないのです。何かしら分り切ったものです。ごくつまらないことを見落しているのです。今おっしゃった外に、何かいい残しているものはありませんか。例えば書生さんは郵便配達が門を出入したことをいわなかった。もっとも郵便配達がお嬢さんを運び出すことは出来ないけれど、そんな風なごくつまらないものが省かれていはしないでしょうか」
「掃除屋、衛生人夫なんかもありますね」
ふと気がついた様に紋三が横合から口を出した。
「そうだ。そんな風のものです」
「アラ、掃除屋さんといえば、ねえ君ちゃん」一人の女中が朋輩を顧みて頓興な声を出した。「丁度あのあくる日ですわね。朝早くゴミを取りに来たのは。区役所の衛生夫が参りました」
終りの方を明智にいって、小腰をかがめた。
「いつもと変ったところはなかったですか」
「いいえ、別に……、でも、何だか日取りが早い様でございました。いつもは十日目くらいなのに、今度は二三日前に来たばかりのところへ、また来たのでございます」
「ゴミ箱は勝手口にあるのですね」
「ハア、通用門の内側に置いてございます」
「その男はどんな風でした。見覚えがありましたか」
明智は一寸好奇心を起した様に見えた。
「いいえ、別に見覚えはございませんが、やっぱりいつもの様に印半纒を着た汚ない男でございました」
「その男が通用門から入ったのですね。で、ゴミを持って行く所を見ましたか」
「いいえ、ただ門の所で行違いましたばかりで、私お使があったものでございますから。お君ちゃんはどう?」
「私もよく見なかったけれど、そうそう、今考えて見ると妙なことがあったわ。前の人が持って行ってから二、三日しかならないのに、内のゴミ箱が一杯になっていたのよ。私あの朝、掃除屋さんが来る前にゴミを捨てに行って、気がついていたのだけれど」そしてお君は明智の方を向いて、「忙しくって、ついそのまま忘れてしまったのでございますわ」
「そのゴミ箱っていうのは、大きなものかい」
紋三は明智の質問が待ち切れないで聞いた。彼はこうした異様な出来事には、人一倍ひきつけられた。彼は私に三千子の行方について彼自身の判断を試みようとしているのだった。
「エエ、随分大きいのですわ」
「人間が入れる位?」
「エエ、大丈夫入られますわ」
そんな問答がくり返されたあとで明智達は勝手口のゴミ箱を調べに行った。正門とは反対の側の高いコンクリート塀に通用門が開いていて、その入ったすぐの所に、黒く塗った大型のゴミ箱が置いてあった。一応それを調べて見たけれど、ただ大型であることが、あの突飛な想像を可能ならしめる外、別段何の発見もなかった。
「ゴミ箱の中へ人間を隠して、上から汚いゴミをかぶせて置く。それを衛生夫に化けた男がゴミ車に移して、どこかへ持去る。これは非常に馬鹿げた空想です。が、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しい程、却って本当かも知れないのです。この事件には何かしら突飛な所があります。一寸常識では考えられない様な所があります。併し、犯罪者は時に非常に突飛な馬鹿馬鹿しい思いつきをするものですよ」
明智はけげん顔の山野夫人に説明した。
それから綿密な邸内の捜索が行われた。召使達も引続き取調べられた。頭痛がするといって女中部屋に寝ていた小間使の小松には、明智がその部屋へ行って色々尋ねた。
そうして山野家の空気に浸っている間に、明智は何かしら少しずつ悟る所があった。山野夫人を始め召使達の言語表情から、おぼろげな一つの判断が生れて来る様に思われた。
明智と小林とは、晩餐のもてなしを受けて、夜に入って山野家を辞した。紋三は色々言葉を設けて明智の判断を聞こうとしたけれど、明智は紋三が自動車を降りて、彼の下宿の方へ別れて行く時まで、ほとんど沈黙を続けていた。
それから二日の間は、表面何事も起らなかった。明智は彼の探偵を進めていたに相違ないし、小林紋三は小林紋三で、彼自身の判断に従って、山野家を訪問したり、浅草公園や本所の養源寺の附近をうろついて見たりしていた。山野家にも新しい出来事は起らなかった。
だが、三日目の四月十日の夜、銀座通りの有名な百貨店に、前代未聞の珍事が出来した。そして、山野三千子失踪事件が、決してありふれた家出なんかでないことが判明した。