11話 アル中種々相 結論(2)
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「私のアイスアックスはチューリッヒのフリッシ製」……と書き出すと、如何にも「マッタアホーン征服の前日ツェルマットで買った」とか、「アルバータを下りて来た槙さんが記念としてくれた」とかいうことになりそうであるが、何もそんな大した物ではなく、実をいうと数年前の夏、大阪は淀屋橋筋の運動具店で、貰ったばかりのボーナス袋から十七円をぬき出して買ったという、甚だ不景気な、ロマンティックでない品なのである。だが、フリッシ製であることだけは本当で、持って見ると中々バランスがよく取れている。その夏、真新しくて羞しくもあり、また、如何に勇気凜々としていたとは言え、アイスアックスをかついで大阪から汽車に乗りこむわけにも行かないので、新聞紙に包んで信州大町まで持って行った。この時は針ノ木峠から鹿島槍まで、尾根を伝うのだから大した雪がある筈は無く、真田紐で頭を縛って偃松の中や岩の上をガランガラン引きずって歩いたもんだから、石突きの金員や、その上五、六寸ばかりのところがザラザラになって了った。
この年から大正十五年の六月まで、私のアイスアックスは大町の対山館に居候をしていた。居候と言っても只安逸な日を送っていたのではなく、何度か対山館のM氏に伴われて山に行った筈である。今年六月、まる二年振りで対山館へ行って見たら、土間の天井に近い傘のせ棚に、大分黒くなった長い身体を横たえていた。即ちこれを取り下ろし、大町から針ノ木峠、平、刈安峠、五色ヶ原、立山温泉、富山という旅行に使用した。非常な雪で、また大町――富山の大正十五年度最初の旅行だったので、アイスアックスが大いに役に立った。
富山から同行者二人は長野経由で大町へ帰り、私は直接大阪へ帰ることになった。従ってアイスアックスも大阪へ帰って来たが、何もすることがない。戸棚の隅でゴロゴロしているだけである。時々令夫人が石突きで石油の缶をあけたり、立てつけの悪い襖をアックスを用いてこじあけたりする。山ですべてを意味するアイスアックスも、大阪郊外の住宅地では、かくの如く虐待されている。
ところで、私はアイスアックスが非常に好きである。時々酔っぱらうと戸棚から出して来て愛撫したりする。アイスアックスが登山のシンボルであるような気がするからである。元来私が、氷河の無い日本の山を、而も夏に限って登るのに(将来あるいは冬登るかもしれないが)大して必要でないばかりか、ある時には却って邪魔になるアイスアックスなんぞ買い込んだ理由は、実にこれなのであった。刀剣の好きな人が、日本刀に大和魂を見るように、私はアイスアックスに登山者の魂を見出す。それにまた、冬の夜長など、心しきりに山を思う時、取り出して愛撫する品としては、アイスアックス以外に何も無い。
登山者としての私は、道具音痴ではないから、あまり色々な物を持っていはしないが、それにしても若干ある登山具を、一つ一つ考えて見る、座敷に持ち込んで愛撫し得るものは、アイスアックスだけである。登山靴――これはツーグスピッツェの麓なるパルテンキルヘンで買った本場物には相違ないが、酒盃片手に泥靴を撫で廻すことは出来まい。ルックサック――これも登山にはつきものであるが、空の頭陀袋を前に置いた所で、何の感興も起らぬ。たかだか山寺の和尚さんみたいに、猫でも押し込んでポンと蹴る位が関の山であろう。飯盒――飯盒はいたる処で、私の為にふっくらした飯を提供してくれたが、さりとて食卓の上にのせて見ると、どうもしようがない。お箸でたたくとカチンカチン音を立てるから、赤ン坊はよろこぶが、一家の主人として威厳を保つ必要がある身分として、そんなことは出来ない。然らばロープか。ロープは一昨年の春、大阪の人西岡氏がいろいろ考えたあげくつくったものを百呎ばかり、使って見てくれとて持って来られたのがある。ロープこそはアルプスのシンボルと言えよう。登山、ことにロック・クライミングには必要欠くべからざる品である。現にアブラハム氏の「コムプリート・マウンテニヤ]の第三章「登山具」を読むと、第一に登山靴、第二にロープ、次でアイスアックス、ルックサックなる順序に説明してある。また、かの有名なるウインパアが、マッタアホーン登攀に成功した話、下山の途中起った悲劇、それらに関してロープが如何に重大な役目をつとめているかと思えば、これこそ登山具中の王者とも言うべきである。だが不幸にして私は本式のロック・クライミングをやったこともなければ、実際ロープを必要とするような山を登ったこともない。その上、如何に山を思えばとて、直径五、六分もある太い縄を百呎、座敷へかつぎ込んだ日には、井戸替え屋の新年宴会みたいで、面白くも何ともない。
そこでいよいよアイスアックスが出て来る。アックスは鋼鉄を冠った鍛鉄である。柄はグレインの通ったアッシで出来ている。長さ三尺、重量は手頃と来ているから、よしんば振り廻しても大したことはない。右手に持ち、左手に持ち、あるいは柄の木理を研究し、アックスをカチカチ爪でたたいて盃の数を重ねて行けば、いつか四畳半の茶の間も見えなくなり、白皚々たる雪を踏んで大雪原に立つ気になったりする。寒風身にしみて嚏をし、気がついたらうたた寝をしていたなどというのでは困るが、とにかくアイスアックスは、我をして山を思わしめ、山を思えば私はアイスアックスを取り出して愛撫する。
一九〇二年のことである。モン・ブランの頂上から四人の登山者が下りて来た。内二人はスイスのガイドであった。グラン・プラトーと呼ばれる地点まで来た時、突然物凄い雪嵐が一行を襲い、進むことも退くことも出来なくなって了った。止むを得ず、アイスアックスで雪に穴を掘り、四人がかたまって一夜をあかすことにしたが、気温は下降する一方で、ついに暁近く二人は凍死した。
翌日はうららかに晴れ渡った。残った二人は、とにかく急いで下山することにしたが、あまり急いだので、その中の一人が深いクレヴァスに落ちて了った。クレヴァスとは氷河や雪田に出来る裂目である。深いのも浅いのもあるが、この男の落ちたのは二百尺近くもあったという。そんな処に落ち込めば、命は無いものであるが、この人は不思議に、大した怪我もせずにいた。
一行四人が、今はたった一人になった。この最後の一人は、これは大変だ、どうしたろうと、しきりにクレヴァスをのぞいている内に足をすべらして、自分もまた同じクレヴァスに落ち込んだ。同じクレヴァスと言ったところで万古の堅氷に、電光のように切れ込む裂目である。もちろん前に落ちた男は、自分の仲間がクレヴァスに落ちて即死したとは知る由も無い。どっちを見ても氷ばかりの狭い場所で、早くあいつが麓に着いて、救援隊をよこしてくれればいいとばかり思いつづけた。だがその、救援隊を求むべき人は、今はもう死んでいるのである。これほど頼り無い、心細い話は無い。
ところでその地点から一万尺下に、シャモニの町がある。この町には非常に強力な望遠鏡が据えつけてあり、この日もある人が晴れ渡ったモン・ブランを山嶺から山麓まで、しきりに観察していると、ふとレンズに入ったグラン・プラトーの人の姿。どうやらクレヴァスを覗き込んでいるらしい。はてな、今頃たった一人で、何をしているんだろう、と思った次の瞬間、もう黒い姿は、どこをさがしても見えない。
グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちた。すぐ救助に行かなくてはならぬ。この叫び声によって救援隊は立ちどころに組織された。選りぬきのガイド達、手足まといの登山客がいないだけに足が早い。羚羊のように岩を飛び雪を踏んで、遮二無二に急ぐ。
一方、グラン・プラトーの上方に五、六人のガイドが、無事に前夜を送った登山者達と一緒に休んでいたが、ふと気がつくと麓から一群の人々が登って来る。只登って来るのなら何の不思議もないが、恐ろしく足が早い。とても普通の登山ではない。何か起ったに相違ない。応援に行こう、とばかり山を下りかけた。
数時間の後、救援隊とガイド達とは落ち合った。グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちたと言う。それでは一緒にさがして見ようということになって、さてグラン・プラトーに来て見はしたものの、果たしてどのクレヴァスのどの辺に落ちたのかハッキリしない。あちらこちら覗き込んでは呶鳴って見ても、一向返事がない。さては死んで了ったのか、さっき望遠鏡で見た時から、七時間余も経っている。よしんば即死しなかったにしても、もう死んだのだろう。仕方がない、帰ろう……と話し合っていると、どこか変なところで変な声がする。まだ生きている! と一同急に元気を出して、又、あちらこちらと覗いては呶鳴り、呶鳴っては覗くうちに、とうとう落ちている場所を発見した。そら、ここにいる。縄を下ろせ。だが、どのくらい深いところにいるのか判らぬ。一番長い奴を下ろせ。かくて百五十呎が、スルスルと氷の裂目に呑まれて行った。すると下から声がする――まだ四十呎ばかり足りないと言う。そこで五十呎のをつぎ足した。都合二百呎である。
「よし、引っ張ってくれろ!」という声を聞いて、一同は力を合せて縄を引いた。二百呎の氷の裂目を、ブランブランと上るのは、危険至極である。氷の壁にたたきつけられたら、頭を割るか、足を折るか、とにかく碌なことは無い。だが、どこ迄も運のいいこの男は、無事に表面まで出て来た。
前夜、すくなくとも十時間は雪に埋った穴の中で凍え、二人に死なれ、たった一人でクレヴァスにうずくまること八時間、たいていの人間なら、もう山は沢山、ガイドなんぞするよりは、山麓のホテルで門番でもした方がいいと思うであろうが、この男はどこからどこ迄アルプスのガイドに出来上っていた。もう弱り切って、ヒョロヒョロしているにもかかわらず、「誠に申訳ないが、もう一度縄でしばって、クレヴァスに降してくれ」という。救援隊の声を聞いた悦しさに、つい夢中になって、アイスアックスをクレヴァスの底に忘れて来て了ったのである。懇望するままに、また二百呎の縄を彼の胴に縛りつけて、クレヴァスに降してやる。後生大事にアイスアックスをかかえ込んだ男が、再びクレヴァスの口に顔をだしたのは、それからしばらく経ってのことである。
この話はコリンスという人の書いた「マウンテン・クライミング」なる本に出ている。アルプスのガイド達は登山中如何なる事情があってもアイスアックスを置きざりにしてはならぬという不文律を、固く守るのだそうである。ちょっと面白い話だから、うそか本当か知らないが――まさかうそではあるまいけれど、コリンス先生の著述目録を見るとカメラ、ワイヤレス、飛行機、山、等、いろいろな物に関して本を出しているので、いささか当世流行の大衆向きライタアらしく、従って面白く書くことを目的としているから、ひょっとしたらこの話も又聞きぐらいかも知れぬ。――アイスアックスの話のついでに紹介する。
広い世間には一を読んで十を考える人が随分いるらしい。私がパイプの話を書くと、私なる者は朝から晩までパイプを啣えっきりにしているに違いないと思ったり、酒が好きだとどこかに書いたのを読んで、私のことを年がら年中酒ばかり飲んでいる野郎と思い込んだりする。このような人がどうにかして、私が山に登ることを知ると、「お前のように酒をのんでも山に登れるかい」なんて質問をする。
山登りばかりでなく、如何なる運動にも、酒のよくないことは判っている。私とてもちろん登山の最中に酒をのみはしない。一日の行程を終えて山の小屋なり野営地なりに着いた時、若し酒があれば極めて小量を摂取するだけである。それにしても山と酒……但し私ひとりの経験にとどまるが……という問題を考え出すと、かなりいろいろなことがある。
そもそも私が一番最初に山に持って入った酒はウイスキーであった。そのウイスキーが何であったかを覚えていない。これは出発に際して父がいわゆる気つけとして、小さな平瓶にいれてくれたものである。
気つけとしてウイスキーなりブランデーなりを山に持って行くことは、合理的であり、且つ必要である。水にあたって急に腹が痛くなったりした時、シャツであろうと手拭であろうとルックサックであろうと、何でもかでも腹にまきつけ、そして熱い湯をわったウイスキーかブランデーをグッと飲むと、たいていは治る。
この故を以て十数年前、仙台の第二高等学校で第一回山岳部講演会兼展覧会をやった時、展覧会場の一隅にしつらえた「登山必要品」の中には、片パンやウェーファースやコールゲートの練歯磨と共にウイスキーの平瓶が一つ置かれた。片パン及びウェーファースには、およそ山に入っている間は、いつ、どんなことで、連れとわかれるかも知れぬ、たった一人で深山幽谷を迷って歩くような場合に陥るかも知れぬ、かかる時取り出して食うためで、決しておやつの代りにがりがり噛るべきものではないという説明書を、つけたような気がする。噛るといえば鰹節も同じ意味で必要品に加えたように記憶する。コールゲートの練歯磨に至っては、実にびっくりすべきもので、その当時誰だったか日本山岳会の一員が、甲州の山で路に迷い、流れに従って下れば必ず里に出るとの信念を以て、ある渓流に添うて下るうち、一日二日三日と、ビスケットも食っちまい、ドロップスもしゃぶり尽し、ヘトヘトになった時、ルックサックの底にコールゲートの練歯磨が入っているのを発見、これを舐めては水を飲み、水を飲んではこれを舐め、ついに命を全うして里に着いたという話が伝わっていた。我々二高の山岳部幹事は、いたくこの話に感激し、さてこそ練歯磨のチューブを陳列したものである。
ところでウイスキーの話に立ちかえると、この展覧会非常な大盛況で、二日だか三日だか続いたが、これでいよいよお了いという時、ウイスキーの瓶を見ると、大分内容が減っているばかりでなく、変なあぶくが浮いている。誰か見物人が……恐らく二高の生徒であろう……そっと手をのばして喇叭をやったに違いない。会が済んだら飲んでやろうと、実は心まちに待っていた我々幹事は、大いに憤慨した。飲んだ奴が判っていれば弁償させるなり何なり方法もあるが、それは判らず、第一きたないや、なんて言っていたが、その内に誰がのむともなく飲み始めて、とうとう空にして了ったことがある。
今年(大正十五年)の六月、百瀬慎太郎氏と二人、案内者北沢清志をつれて大町から富山へぬけた時、二人とも至って酒が好きなくせに、およそアルコール分を含んだものとては一滴も持たずに出かけたものである。何故またそんな真似をしたのかというと、すくなくとも私自身は、それまでさんざん酒をのんで、詰らない、下らない日を送っていたのだから、せめて山の中では酒精分は一切口に入れまいと思った。
これは誠にいい決心であったが、さて大沢の小舎に着いて炉で火が燃え、鍋で白い飯がフツフツいい出すと一杯やりたくなる。どこかに残っていやあしないかと、心は同じ両人が薄暗い蝋燭の光をたよりに、鼠の糞や埃で一杯の小舎の内をゴソゴソかき廻して、樽という樽、缶という缶をゆすぶって見たが、コトンともドブンとも音を立てぬ。泥まみれの瓶を見つけ出して、やああったぞとばかり、苦心惨憺、栓をぬいて嗅ぐと醤油だったりした。仕方がない、あしたは平で、日電の小舎には屹度酒があるだろうと、その日はそのまま寝て了い、さてその翌日、針ノ木峠から蓮華の裏の大雪渓を通って平に着く。日が暮れて路が判らず、東信の空小舎を借りて一泊するのにも、若しやどこかに酒がありはしまいかと、キョロキョロした。次の日は対岸の日本電力の出張所で、手あつい歓待を受け、岩魚や熊の肉の晩飯となる。一行三人、キチンと坐ると出張所長の宮本さんが、お酒を上げたいがあいにく切らして……と言われる。いいえ、一向不調法でして……と言いはしたものの、また実際酒があった所で、とても恐縮でそう呑めはしないにきまっているものの、とにかく世界中にこんな美味いものはあるまいと迄伝えられる黒部川の岩魚が、ジジリ、ジジリと焼けて、その香が鼻を打つと、家にしあれば一升瓶だが、あの徳利にコクコクと移して銅壺につける。北ではあすこの酒場のおやじが、松竹梅、白鷹、菊正宗、都菊とそろえているのを、私が行けばむろん「菊」。徳利を持ち上げて、如何にももっともらしく底にさわって見る。南のあの家では桜正宗、青磁色の猪口で……と、実に意地のきたない話ながら大阪の酒が目の前にチラチラして、今頃酒をのんでいるであろうところの、日本国中の何十万人かが、皆不倶戴天の仇のような気がして来た。
その次の日は立山温泉どまり。刈安峠から尾根をつたって五色ヶ原、佐良峠、一日中雪の上ばかり歩いていた。そしてはるか下に温泉の低い屋根を見た時、我々は今夜こそ酒がのめるぞ! と口に出して言った。若しまだ番人が来ていなかったら、錠前をねじ切って倉庫に入っても酒をのんでやろう等と、物騒な考えを起したりした。
温泉には番人と若い男と二人いた。だが、まだ時期が早いので、何の準備も出来ていない。ヘトヘトに疲れて口をきく気もしない身体を炉のわきに横たえながらも「おじさん、酒はあるかね」と聞いたものである。さあ、あるか無いか、蔵へ行って見なくては判らないという心細い返事に、済みませんが行って見ておくんなさい、若しあったら二合瓶を二本ばかり頼みますと言っておいて、ようやく掃除の出来た部屋へ行く。そこへ、温泉に入りに入った北沢が二合瓶を二本さげて帰ってきた。温泉というのが野天で、あつくて什方がねえからスコップで雪を三杯たたき込んだという素晴らしいもの。(もっともこれは、まだ温泉場を開いていなかったからの話で、本式に始めればここから湯を引いた立派な浴場が出来る。立山温泉の名誉のために、一言弁じておく。)それはともかく、そら酒が来たというので急に元気づいて、見ればそのレッテルの色もあざやかな桜正宗である。早速燗をして飲んで見ると、うまくも何ともない。苦くって、ピリピリして、猫いらずを溶いた水を飲んでいるような気がする。三人かかってやっと二合瓶を一本あけた頃には、頭がガンガンして来た。二本目は封を切っただけで、番人たちに贈呈して了った。
あんなに飲みたかった酒が、どうして飲めないのだろう――我々は不思議に思った。だが考えて見ると相当な理由がある。第一桜正宗が非常にいい酒であるとしても、二合瓶につめられて大阪から富山へ送られ、それから何里かの山路を立山温泉まで持って来られる内には、多少どうかするに決っている。つづいて冬、どんな倉庫だか知らないが、いずれ雪に埋って一冬を送るのだから、酒の味それ自体もすこしは変ろう。だがそれ以外に、私たちの身体の状態が、どんな酒を飲んでもうまいとは感じないようになっていたのではあるまいか。
要するに日本酒は浅酌低唱というところ、小さな猪口を口にふくんで、気長にチビリチビリやるべき性質の飲料である。盃洗でひっかけたり、デカンショに合わせてあおったりするのは邪道である。衣食足って――礼節の方は知らぬが――銀行に特別当座預金でもあろうという泰平の逸民が、四畳半の投げ入れを見ながら、一杯一杯、「河豚汁や」を考えて、頭からピシャピシャやって飲むべきものである。
かくの如き日本酒を、立山温泉で飲んだ我々は、一体どんな「我々」だったろう。三日も四日も激しい労働をやって、而も紫外線の多いという高山の日光と雪の照りかえしとで、手や顔の皮がむける程まっ黒になっていた。自然のぼせる。唇には縦に罅が入って、笑ったり、欠伸をしたりすると血が吹き出す。口腔はネチネチして、いくら水やお茶を飲んでも平常状態にならぬ。両眼は雪眼鏡をかけていたにもかかわらず、やはり充血している。歯はみがかず鬚は生えっぱなし。こんな野蛮人にでくわしては、酒の方から忌避しても、一向不思議でない。
過激な筋肉労働をする人々が、一日の仕事を終えると、電気ブランとか焼酎とかいう強烈な酒を呑むのには、あるいはこれらの酒が日本酒に比べると安価で、早く酔いがまわるという原因もあるであろう。だが、あるいはそれ以外に、肉体の疲労が甚だしい時には、燗をした日本酒のチビチビ飲みが、何等の快楽を持ち来たさぬというような理由も存在するのかも知れぬ。
大正十三年の夏、黒岩直吉の兄弟と、針ノ木から鹿島槍まで行った時には、ウイスキーを一瓶持って行った。大瓶一本、山ではかなりの荷物になる。やめようかとも思ったが、何、俺が持ってゆくというので黒岩に頼んだ。第一夜大沢。天幕も張れ、飯も出来たという時コルクをぬいて、氷のような水に割って一息に飲んだ。冷たい水が胃の腑に達すると同時に、ふーっと、何とも言えぬ酔が出て来て、疲れが一時に消えて行く。飯もうまければ元気も出る。その後マヤクボ、棒小舎の乗越し、冷ノ池と三個所で野営するごとに皆で――と言って、主に黒岩と私だが――一杯ずつやり、とうとう一本空にして了った。棒小舎乗越のウイスキーは、もう二年半になる今日、まだ忘れられぬくらいうまかった。元来、前夜はマヤクボで野営する筈ではなかったのに、雨が降って来たため急に予定を変更したのである。従って乗越に着いた時は、まだ日が高かった。早速天幕を張る。いつでも寝られるようにしておく。塹壕のような形をした窪地に火を焚いて、その上に太い枝をさしかける。黒岩の兄は近くの水溜りへ米を洗いに行った。同行者のT君は、如何にも光線が面白いからというので、写真器を持って天幕のまわりをウロウロしている。私はウイスキーの瓶と瀬戸引のコップとをさげて、黒岩の横に腰を下した。
コップを差出しながら「直吉さん、どうだね、一杯」と言うと、びっくりしたような顔をして、「そうかね、えれえ済まねえな」といいながら、底に一寸ばかり受ける。そいつをキュッ! 「うめえね」と手の甲で口を拭く。
私も一息にやってから、コロリと草の上に長くなった。この辺の草はまことに短く、そして柔かい。風もなければ鳥も鳴かぬ日暮れ時。足のさきでパチパチはねる枯枝の音を聴きながら、ウイスキーの酔が、適度につかれた身体中の筋肉を一つ一つ、ほぐして行くのを感じる。山に登るたのしみ! 私は前人未踏の所謂処女峰を征服しようも思わないし、エヴェレストの絶頂に日章旗を押し立てようとも望まない。かくの如き草の柔かい場所にねころがって、野営地をさがす心配もなく、飯をたく水に不自由もせず、ウイスキーの軽い酔を感じていさえすれば、私は満足する。
酒の話のすぐ次に、女の話が出て来ると、すこし、よろしくないようだが、婦人と登山とについて心に浮ぶままを、ボツリボツリ書いて見ようかと思うのである。
「婦人と登山」と言えば日本体育叢書の第十五篇「登山」において、著者田中薫君は「婦人の登山者の為に」なる見出しの下に、詳細に服装のことを書いている。どうもブラウスとかナイトキャップとかワンピースとか富士絹とか、いやにくわしいと思っていたら、今年の夏は婦人同伴鹿島槍に登っている。これではくわしいのがあたり前である。
閑話休題――と言ったところで私の話、ことごとく閑話ならざるはなしだが――ここに英国ケジックの住人、ジョージ・アブラハム氏の著『コムプリート・マウンテニヤ』は、日本にも沢山来ているから、たいていの登山家は知っているであろうが、一九〇七年の十一月に第一版を出し、翌年二月、ただちに第二版を出した。飛んで一九二三年に改訂第三版が出たことは、著者自身も書いているように、一般向きとは言えぬ登山なるスポーツ界ではエポックとも考えるべきである。然し別の考えようをすれば、この『コムプリート・マウンテニヤ』は、山登りの技術だけを書いた本なのではなく、いろいろなアネクドートや、エピソードが沢山入っているので、いわゆる読物としても面白く、従ってよく売れたのであろう。
それはとにかく、『コムプリート・マウンテニヤ』を開くと、先ずリッフェルアルプから見たマッタアホーンの写真、タイトルページ、それに続いて全一頁のまん中に小さく