註文帳

3話 註文帳(3)

6,877字 約14分 2009年6月10日 公開

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       十三

「はい、はい、はい、誰方(どなた)だい。」

 作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の()くさきも薄暗いが、さて見廻すと居廻(いまわり)はなおのことで、もう点灯頃(ひともしごろ)

 物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより(はや)洋燈(ランプ)をと思う処へ、大音寺前の方から(さかん)曳込(ひきこ)んで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟々(ごうごう)という音に、地鳴(じなり)(まじ)えて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気勢(けはい)があった。

 五助はわざと大声で、

「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるように(つぶや)いたが、

「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」

 耳を(すま)して、

「畜生、この間もあの()で驚かしゃあがった、尨犬(むくいぬ)め、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙然(だんまり)で、蒲団(ふとん)引被(ひっかぶ)るとトントンだ、誰方だね、(だんま)りか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸外(おもて)から廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆病(おくびょう)づらを下げて、(きまり)の悪い(おもい)をしたか知れやしねえ、畜生め、(ひと)が臆病だと思いやあがって、」と(ちゅう)(ぱら)でずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、(かめ)()(ばい)

 じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて(にじ)(あが)ると、(くだん)の障子を(そっ)と開けたが、早や次の間は真暗(まっくら)がり。足をずらしてつかつかと出ても、()れて畳の(やぶれ)にも(つっ)かからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を(のば)すとそのまま取れる柄杓(ひしゃく)だから、並々と一杯、突然(いきなり)天窓(あたま)から(ぶっ)かぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦人(おんな)、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、

「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。

 首を出して《みま》わすと、がさともせぬ裏の塵塚(ちりづか)、そこへ潜って()げたのでもない。彼方(あなた)は黒塀がひしひしと、(はるか)に一(ならび)、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、(しん)として三味線(さみせん)()もしない。ただ遥に(くう)()いて、雲のその()真黒(まっくろ)な中に、暗緑色の(ともしび)の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立(つった)ったようなのは、二上屋の常燈である。

 五助は半身水口から突出して立っていたが、(しきり)(うしろ)見らるるような気がして(たま)らず、柄杓をぴっしゃり。

「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを(すか)すと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外(おもて)の人どおり。

 やがて(もと)の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。

「おや、変だぜ。」

 五助は片膝立て、中腰になり、四ツに()いなどして掻探(かいさぐ)り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、

「はてな、先刻(さっき)ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」

 正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の(むすめ)お若の剃刀(かみそり)を、どこへか置忘れてしまったのであった。

懐中(ふところ)へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。

 しばらくして、

「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を(すそ)にして、扱帯(しごき)の上あたりで(つま)を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の(あざや)かな鼻筋の通った、真白(まっしろ)な頬に(びん)の毛の乱れたのまで、判然(はっきり)と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居(かもい)にも(つか)えそうなのが、じっと此方(こなた)を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。

「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、(しし)つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた(あお)ざめた(てのひら)に、毒蛇の(うろこ)の輝くような一(ちょう)の剃刀を挟んでいて、

「これでしょう、」

 五助はがッと耳が(なっ)た、頭に響く声も(かすか)に、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、

「不浄()けの別火だとさ、ほほほほほ、」

 わずかに解いた唇に、艶々(つやつや)鉄漿(かね)を含んでいる、幻はかえって目前(まのあたり)

「わッ」というと真俯向(まうつむき)、五助は人心地あることか。

「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに(くるわ)が見えるぜ。」

とこの際戸外(おもて)暢気(のんき)なもの。

「や! 雪だ、雪だ。」と(よば)わったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と(どッ)とばかりになだれて通る。

     雪の門

       十四

 宵に一旦(いったん)ちらちらと降ったのは、垣の結目(ゆいめ)、板戸の端、(ひさし)往来(ゆきき)の人の頬、(びん)の毛、帽子の(つば)などに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の(こずえ)も、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙草(たばこ)屋の店の(ともしび)、おでんの行燈(あんどう)、車夫の提灯(かんばん)、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが(むらが)って、真白(まっしろ)灯取虫(ひとりむし)がばたばた羽をあてる風情であった。

 やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄駒下駄(こまげた)(あと)も、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに(くぼみ)を残すのみ、車の(わだち)遥々(はるばる)と長き一条の名残(なごり)となった。

 おうおうと遠近(おちこち)呼交(よびかわ)す人声も早や聞えず、辻に(たたず)んで半身に雪を(かぶ)りながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く(あらわ)れた巡査の姿、研屋(とぎや)の店から八九間さきなる軒下に引込(ひっこ)んで、三島神社の(あたり)から大音寺前の(とおり)、田町にかけてただ一白。

 折から(さっ)と渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上面(うわづら)()でてあたかも(ふるい)をかけたよう、一様に(たいら)にならして、人の歩行(ある)いた路ともなく、夜の色さえ(うず)み消したが、見る見る垣を(わた)り、軒を吹き、廂を(かす)め、梢を鳴らし、一陣たちまち虚蒼(あそぞら)に拡がって、ざっという音(はげ)しく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、静々(しずしず)と落ちて来た。

 紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪の(さま)も、(あさひ)とともに霜より果敢(はか)なく消えるのであろうけれど、丑満(うしみつ)頃おいは(みやこ)のしかも如月(きさらぎ)の末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々皚々(がいがい)の陣を敷くとあやまたるる。

 さればこそ、高く竜燈の(あらわ)れたよう二上屋の棟に(あお)き光の流るるあたり、よし原の電燈の(かすか)に映ずる空を()めて、きれぎれに()ゆる三絃の糸につれて、高笑(たかわらい)をする女の声の、(さかしま)に田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、(くう)()外道変化(げどうへんげ)(ささやき)かと物凄(ものすご)い。

 十二時()くに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。

 吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅の(かど)(しずか)音信(おとず)れた者がある。

 トン、トン、トン、トン。

「はい、今開けます、唯今(ただいま)、々々、」と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠け(まじ)りのやや周章(あわ)てた声して、上框(あがりがまち)から手を(のば)した様子で、掛金をがッちり。

 その時戸外(おもて)に立ったのが、

「お待ちなさい、貴方(あなた)はお(うち)の方なんですか。」と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、

「はい、あの、杉でございます。」と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき口吻(くちぶり)である。

 その()になお声をかけて、

「宜いんですか、開けても、夜がふけております。」

「へい、……、」ちと変った(いい)ぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。

 小留(おやみ)のない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけて(ふり)しきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。

       十五

「杉、(じい)やかい。」とこの時に奥の(かた)から、風こそ(すさ)べ、雪の()は天地を沈めて(しずか)に更け()く、畳にはらはらと(なま)めく跫音(あしおと)

 端近(はしぢか)になったがいと(わか)(すず)しき声で、

「辻が帰っておいでかい。」

「あれ、」と低声(こごえ)年増(としま)が制して、(かど)なる(かた)(はばか)気勢(けはい)

()かったら開けて下さい、こっちにお知己(ちかづき)の者じゃあないんです、」

「…………」

「この突当(つきあたり)(うち)で聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。」

「はい、あの誰方(どなた)様で、」

「いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。」

「お開けよ。」

「…………」

「こっちへさあ。()いわ、」

 ここにおいて、

「まあ、お入りなさいまし。」と半ば(おさ)えていた格子戸をがらりと開けた。(かまち)にさし置いた洋燈(ランプ)の光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。

 同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする外套(がいとう)()た人の姿を映して、(あまり)(あかり)は、左手(ゆんで)なる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝を(まじ)えた紅梅にうつッて、間近なるはその(くれない)(つぼみ)(てら)した。

 けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした本斑布(ほんばらふ)(くし)でもない。濃いお納戸地に柳立枠(やなぎたてわく)の、小紋縮緬(こもんちりめん)の羽織を着て、下着は知らず、黒繻子(くろじゅす)の襟をかけた(しま)縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる襦袢(じゅばん)と、指に輝く指環(ゆびわ)とであった。

 部屋(ばたらき)のお杉は円髷(まるまげ)(かしら)を下げ、

「どうぞ、貴下(あなた)、」

「それでは、」と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込む(いきおい)中折(なかおれ)の帽子を目深(まぶか)に、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、研出(とぎだ)したような沓脱石(くつぬぎいし)も、一面に雪紛々。

「大変でございますこと、」とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、(ほっ)とする呼吸(いき)をついて、

「ああ、乱暴だ。失礼。」と身震(みぶるい)して、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりを(ぬぐ)ったが、年紀(とし)のころ二十三四、眉の(あざや)かな目附に品のある美少年。殊にものいいの判然(はっきり)として(なまり)のないのは(あきらか)にその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の御左(おんひだり)矜羯羅童子(こんがらどうじ)を夢枕に見るような心になり、

「さぞまあ、ねえ、どうもまあ、」とばかり見惚(みと)れていたのが、(あわただ)しく心付いて、庭下駄を(ひっ)かけると客の背後(うしろ)入交(いれかわ)って、吹雪込む(かど)の戸を二重(ふたえ)ながら手早くさした。

「直ぐにお(いとま)を。」

「それでも吹込みまして大変でございますもの。」

 と見るとお若が、手を障子にかけて先刻(さっき)から立ったままぼんやり身動(みうごき)もしないでいる。

「お若さん、御挨拶をなさいましなね、」

 お若は莞爾(にっこり)して何にも言わず、突然(いきなり)手を(つか)えて、ばッたり(しお)れ伏すがごとく坐ったが、透通るような耳許(みみもと)(さっ)(くれない)

 髷の根がゆらゆらと、身を()むばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。

 客は手持無沙汰(てもちぶさた)、お杉も()(すべ)を心得ず。とばかりありて、次の()襖越(ふすまごし)に、勿体らしい(すま)したものいい。

「杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。」

       十六

「いいえ、貴下(あなた)失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、仕立(したて)ましたばかりでございます。」と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、結城(ゆうき)棒縞(ぼうじま)(ねん)()半纏(ばんてん)()せられるのを、

「何、そんな、」とかえって剪賊(おいはぎ)に出逢ったように、肩を(ねじ)るほどなおすべりの()い花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷々(いたいた)しい、(うしろ)から苦もなくすらりと(かぶ)せたので、洋服の上にこの広袖(どてら)で、長火鉢の前に胡坐(あぐら)したが、大黒屋惣六(そうろく)()()なるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。

「どうしてこんな晩に、遊女(おいらん)がお帰しなすったんですねえ、(ひど)いッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも(とん)でもない、火をお吹きなすっちゃあ不可(いけ)ません、飛でもない。」

 と什麼(そもさん)こうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の(くちばし)にでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を(ひそ)めて、(すま)して、雪のような頬を火鉢のふちに(おし)つけながら、

「消炭を取っておいで、」

唯今(ただいま)何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐(ねえ)さんのお部屋でついお心易立(こころやすだて)にお炬燵(こた)を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」

「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は莞爾(にっこり)する。

「それでも今夜のように、ふらふら睡気(ねむけ)のさすったらないのでございますもの。」

「お(きまり)だわ。」

可哀相(かわいそう)に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、(うつつ)でございましたの。」

「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が()うございますわ。構やしません、そんな遊女(おいらん)は一晩の内に凍砂糖(こおりざとう)になってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を(くるわ)なる母屋の客と思込んだものであろう。

「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」

「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」

「別に隠しなんぞするものか。

 しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が(とが)めたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや(わたり)に舟なんで、どうも凍えそうで(たま)らなかった。」

 と語るに、ものもいいにくそうな初心な風采(ふうさい)、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を(みまも)りながら、

「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお(かん)をつけましょうか。」

(めし)あがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。

「どうして、酒と聞くと身震(みぶるい)がするんだ、どうも、」

 と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼方(かなた)に目の覚めるようなお若の姿とを(きっ)と見ながら、(あかる)洋燈(ランプ)と、今青い()を上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、

「私を変だと思うでしょう。」

       十七

「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう()いんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」

「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに打微笑(うちほほえ)む。

「ええと、ここを出て突当りに(うち)がありますね、そこを通って左へ()くと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから(じき)に大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。

「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、

「確か(くるわ)へ入ろうという土手の手前に、こっちから()くと坂が一ツ。」

 打頷(うちうなず)けば頷いて、

「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕車(くるま)(つか)えたのでやっと目が覚めたんだ。」

 この日脇屋欽之助(わさやきんのすけ)独逸行(ドイツゆき)を送る宴会があった。

「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目的(めあて)にされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。

 もっとも待たしておく(はず)の腕車はあったんだけれども、一体内は()()の方、あれから下谷(したや)へ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発奮(はずみ)に、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」

「まあ、お危うございます、」

「ちっと擦剥(すりむ)いた位、怪我(けが)も何もしないけれども。

 それだもんだから、辻車に飛乗(とびのり)をして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。

 お話のその土手へ(あが)ろうという坂だ。しっくり(つか)えたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか四辺(あたり)真白(まっしろ)だし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を(くぎ)って電燈が映ってるし、今度()こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。

 それで、御本人はまさしく日本の腕車(くるま)に乗ってさ、笑っちゃあ不可(いけな)い車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥除(どろよけ)をおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御串戯(ごじょうだん)もんだ、と言うんです。

 四ツ谷へ帰るんだッてね、少し()れ込むと、まあ()うがすッさ、お聞きよ。

 馬鹿にしちゃ()かん、と言って、間違(まちがい)原因(もと)を尋ねたら、何も朋友(ともだち)引張(ひっぱ)って来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ()ってくれ、といって乗ったそうだ。

 遣ってくれと言うから、(なか)()いて来たのに不思議はありますまいと(すま)したもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから(うち)まで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。

 頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を(あが)って四ツ谷くんだりまでこの雪に()かれるもんじゃあない。

 箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河岸(かし)の方とかで泊り(こみ)という寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突然(いきなり)靴だから飛び下りたさ。」

     二人使者

       十八

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