3話 註文帳(3)
読み方を変える
十三
「はい、はい、はい、誰方だい。」
作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の行くさきも薄暗いが、さて見廻すと居廻はなおのことで、もう点灯頃。
物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより疾く洋燈をと思う処へ、大音寺前の方から盛に曳込んで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟々という音に、地鳴を交えて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気勢があった。
五助はわざと大声で、
「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるように呟いたが、
「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」
耳を澄して、
「畜生、この間もあの術で驚かしゃあがった、尨犬め、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙然で、蒲団を引被るとトントンだ、誰方だね、黙りか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸外から廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆病づらを下げて、極の悪い思をしたか知れやしねえ、畜生め、己が臆病だと思いやあがって、」と中ッ腹でずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、亀の子這。
じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて躙り上ると、件の障子を密と開けたが、早や次の間は真暗がり。足をずらしてつかつかと出ても、馴れて畳の破にも突かからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を伸すとそのまま取れる柄杓だから、並々と一杯、突然天窓から打かぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦人、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、
「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。
首を出して《みま》わすと、がさともせぬ裏の塵塚、そこへ潜って遁げたのでもない。彼方は黒塀がひしひしと、遥に一並、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、森として三味線の音もしない。ただ遥に空を衝いて、雲のその夜は真黒な中に、暗緑色の燈の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立ったようなのは、二上屋の常燈である。
五助は半身水口から突出して立っていたが、頻に後見らるるような気がして堪らず、柄杓をぴっしゃり。
「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを透すと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外の人どおり。
やがて旧の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
「おや、変だぜ。」
五助は片膝立て、中腰になり、四ツに這いなどして掻探り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
「はてな、先刻ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」
正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女お若の剃刀を、どこへか置忘れてしまったのであった。
「懐中へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
しばらくして、
「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を裾にして、扱帯の上あたりで褄を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の鮮かな鼻筋の通った、真白な頬に鬢の毛の乱れたのまで、判然と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居にも支えそうなのが、じっと此方を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、肉つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた蒼ざめた掌に、毒蛇の鱗の輝くような一挺の剃刀を挟んでいて、
「これでしょう、」
五助はがッと耳が鳴た、頭に響く声も幽に、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、
「不浄除けの別火だとさ、ほほほほほ、」
わずかに解いた唇に、艶々と鉄漿を含んでいる、幻はかえって目前。
「わッ」というと真俯向、五助は人心地あることか。
「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに廓が見えるぜ。」
とこの際戸外を暢気なもの。
「や! 雪だ、雪だ。」と呼わったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と哄とばかりになだれて通る。
雪の門
十四
宵に一旦ちらちらと降ったのは、垣の結目、板戸の端、廂、往来の人の頬、鬢の毛、帽子の鍔などに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の梢も、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙草屋の店の灯、おでんの行燈、車夫の提灯、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが群って、真白な灯取虫がばたばた羽をあてる風情であった。
やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄駒下駄の痕も、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに凹を残すのみ、車の轍も遥々と長き一条の名残となった。
おうおうと遠近に呼交す人声も早や聞えず、辻に彳んで半身に雪を被りながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く顕れた巡査の姿、研屋の店から八九間さきなる軒下に引込んで、三島神社の辺から大音寺前の通、田町にかけてただ一白。
折から颯と渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上面を撫でてあたかも篩をかけたよう、一様に平にならして、人の歩行いた路ともなく、夜の色さえ埋み消したが、見る見る垣を亙り、軒を吹き、廂を掠め、梢を鳴らし、一陣たちまち虚蒼に拡がって、ざっという音烈しく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、静々と落ちて来た。
紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪の状も、旭とともに霜より果敢なく消えるのであろうけれど、丑満頃おいは都のしかも如月の末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々皚々の陣を敷くとあやまたるる。
さればこそ、高く竜燈の露れたよう二上屋の棟に蒼き光の流るるあたり、よし原の電燈の幽に映ずる空を籠めて、きれぎれに冴ゆる三絃の糸につれて、高笑をする女の声の、倒に田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、空を行く外道変化の囁かと物凄い。
十二時疾くに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。
吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅の門を静に音信れた者がある。
トン、トン、トン、トン。
「はい、今開けます、唯今、々々、」と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠け交りのやや周章てた声して、上框から手を伸した様子で、掛金をがッちり。
その時戸外に立ったのが、
「お待ちなさい、貴方はお宅の方なんですか。」と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、
「はい、あの、杉でございます。」と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき口吻である。
その間になお声をかけて、
「宜いんですか、開けても、夜がふけております。」
「へい、……、」ちと変った言ぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。
小留のない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけて降しきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。
十五
「杉、爺やかい。」とこの時に奥の方から、風こそ荒べ、雪の夜は天地を沈めて静に更け行く、畳にはらはらと媚めく跫音。
端近になったがいと少く清しき声で、
「辻が帰っておいでかい。」
「あれ、」と低声に年増が制して、門なる方を憚る気勢。
「可かったら開けて下さい、こっちにお知己の者じゃあないんです、」
「…………」
「この突当の家で聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。」
「はい、あの誰方様で、」
「いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。」
「お開けよ。」
「…………」
「こっちへさあ。可いわ、」
ここにおいて、
「まあ、お入りなさいまし。」と半ば圧えていた格子戸をがらりと開けた。框にさし置いた洋燈の光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。
同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする外套を被た人の姿を映して、余の明は、左手なる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝を交えた紅梅にうつッて、間近なるはその紅の莟を照した。
けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした本斑布の櫛でもない。濃いお納戸地に柳立枠の、小紋縮緬の羽織を着て、下着は知らず、黒繻子の襟をかけた縞縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる襦袢と、指に輝く指環とであった。
部屋働のお杉は円髷の頭を下げ、
「どうぞ、貴下、」
「それでは、」と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込む勢。中折の帽子を目深に、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、研出したような沓脱石も、一面に雪紛々。
「大変でございますこと、」とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、吻とする呼吸をついて、
「ああ、乱暴だ。失礼。」と身震して、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりを拭ったが、年紀のころ二十三四、眉の鮮かな目附に品のある美少年。殊にものいいの判然として訛のないのは明にその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の御左、矜羯羅童子を夢枕に見るような心になり、
「さぞまあ、ねえ、どうもまあ、」とばかり見惚れていたのが、慌しく心付いて、庭下駄を引かけると客の背後へ入交って、吹雪込む門の戸を二重ながら手早くさした。
「直ぐにお暇を。」
「それでも吹込みまして大変でございますもの。」
と見るとお若が、手を障子にかけて先刻から立ったままぼんやり身動もしないでいる。
「お若さん、御挨拶をなさいましなね、」
お若は莞爾して何にも言わず、突然手を支えて、ばッたり悄れ伏すがごとく坐ったが、透通るような耳許に颯と紅。
髷の根がゆらゆらと、身を揉むばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。
客は手持無沙汰、お杉も為ん術を心得ず。とばかりありて、次の室の襖越に、勿体らしい澄したものいい。
「杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。」
十六
「いいえ、貴下失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、仕立ましたばかりでございます。」と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、結城の棒縞の寝ね子半纏。被せられるのを、
「何、そんな、」とかえって剪賊に出逢ったように、肩を捻るほどなおすべりの可い花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷々しい、背から苦もなくすらりと被せたので、洋服の上にこの広袖で、長火鉢の前に胡坐したが、大黒屋惣六に肖て否なるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。
「どうしてこんな晩に、遊女がお帰しなすったんですねえ、酷いッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも飛でもない、火をお吹きなすっちゃあ不可ません、飛でもない。」
と什麼こうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の嘴にでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を顰めて、澄して、雪のような頬を火鉢のふちに押つけながら、
「消炭を取っておいで、」
「唯今何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐さんのお部屋でついお心易立にお炬燵を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」
「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は莞爾する。
「それでも今夜のように、ふらふら睡気のさすったらないのでございますもの。」
「お極だわ。」
「可哀相に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、現でございましたの。」
「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が可うございますわ。構やしません、そんな遊女は一晩の内に凍砂糖になってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を廓なる母屋の客と思込んだものであろう。
「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」
「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」
「別に隠しなんぞするものか。
しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が咎めたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや渡に舟なんで、どうも凍えそうで堪らなかった。」
と語るに、ものもいいにくそうな初心な風采、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を瞻りながら、
「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお澗をつけましょうか。」
「召あがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。
「どうして、酒と聞くと身震がするんだ、どうも、」
と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼方に目の覚めるようなお若の姿とを屹と見ながら、明い洋燈と、今青い炎を上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、
「私を変だと思うでしょう。」
十七
「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう可いんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」
「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに打微笑む。
「ええと、ここを出て突当りに家がありますね、そこを通って左へ行くと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから直に大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。
「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、
「確か廓へ入ろうという土手の手前に、こっちから行くと坂が一ツ。」
打頷けば頷いて、
「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕車が支えたのでやっと目が覚めたんだ。」
この日脇屋欽之助が独逸行を送る宴会があった。
「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目的にされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。
もっとも待たしておく筈の腕車はあったんだけれども、一体内は四ツ谷の方、あれから下谷へ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発奮に、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」
「まあ、お危うございます、」
「ちっと擦剥いた位、怪我も何もしないけれども。
それだもんだから、辻車に飛乗をして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。
お話のその土手へ上ろうという坂だ。しっくり支えたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか四辺は真白だし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を劃って電燈が映ってるし、今度行こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。
それで、御本人はまさしく日本の腕車に乗ってさ、笑っちゃあ不可い車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥除をおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御串戯もんだ、と言うんです。
四ツ谷へ帰るんだッてね、少し焦れ込むと、まあ宜うがすッさ、お聞きよ。
馬鹿にしちゃ可かん、と言って、間違の原因を尋ねたら、何も朋友が引張って来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ遣ってくれ、といって乗ったそうだ。
遣ってくれと言うから、廓へ曳いて来たのに不思議はありますまいと澄したもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから宅まで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。
頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を上って四ツ谷くんだりまでこの雪に行かれるもんじゃあない。
箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河岸の方とかで泊り込という寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突然靴だから飛び下りたさ。」
二人使者
十八