4話 註文帳(4)
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欽之助は茶一碗、霊水のごとくぐっと干して、
「お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、掏られたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、酔覚じゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷児になったんだから、こりゃ自分の身体はどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐くなったんです。
ただ車夫に間違えられたばかりなら、雪だっても今帷子を着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
気になるのは、昼間腕車が壊れていましょう、それに、伊予紋で座が定って、杯の遣取が二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
灯がついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の歩を越して玄関へ出て見ると、叔母の宅に世話になって、従妹の書物なんか教えている婦人が来て立っていました。
先刻奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが昨日出来上って参りましたものですから、それを貴下にお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あの児のことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お朋達におつき合で、他ならば可いが、芳原へでも行くと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。
何でも広徳寺前辺に居る、名人の研屋が研ぎましたそうでございますからッてね、紫の袱紗包から、錦の袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。」と少年は一呼吸ついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。
「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの廓で道楽をして、命にも障る処を、そのお庇で人らしくなったッてね。
私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで生命がなくなるとばかり信じてるんだ。
その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、少い豪傑が手放で揃ってる、しかも艶なのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。
そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は人魂を押つけられたように気が滅入った。
しかもお使番が女教師の、おまけに大の基督教信者と来ては助からんねえ。」
打微笑み、
「相済まんがどうぞ宅の方へお届けを、といって平にあやまると、使の婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、貴君を心から思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、と謂った。こりゃ誰だって、全くそう。」
十九
「しかし土手下で雪に道を遮られて帰る途さえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡を持して寄越すってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、腕車の破れたのも、車夫に間違えられたのも、来よう筈のない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、悚としたんだね。
もっとも、その時だって、天窓からけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、」
我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、
「こんな扮装だから困ったろうじゃありませんか。
叔母には受取ったということに繕って、密と貴女から四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、少い夜会結のその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。
あとは大飲。
何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。
それからね。
何でも来た方へさえ引返せば芳原へ入るだけの憂慮は無いと思って、とぼとぼ遣って来ると向い風で。
右手に大溝があって、雪を被いで小家が並んで、そして三階造の大建物の裏と見えて、ぼんやり明のついてるのが見えてね、刎橋が幾つも幾つも、まるで卯の花縅の鎧の袖を、こう、」
借着の半纏の袂を引いて。
「裏返したように溝を前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。」
それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、傍見がてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、鉄漿溝が折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く裁切って刎橋の架ったままのがあった。
「そこの処に婦人が一人立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、
近づく人に白鷺の驚き立つよう。
前途へすたすたと歩行き出したので、何だか気がさしてこっちでも立停ると、劇しく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引返して来て、またするすると向うへ走る。
続いて歩行き出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、婦人は刎橋の処で。
私は歩行き越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。
そうするとその婦人がこう彳んだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとして哀さったらなかったから。
私は二足ばかり引返した。
何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見て遁げないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。
実は何、こっちだって味方が欲い。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。
お前さんどうしたんですッて。」
「まあ、御深切に、」と、話に聞惚れたお若は、不意に口へ出した、心の声。
「傍へ寄って見ると、案の定、跣足で居る、実に乱次ない風で、長襦袢に扱帯をしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判然見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤人だ。
脊の高いね、恐しいほど品の好い遊女だったッけ。」
二十
「その婦人に頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともに屹と女に向けた。
お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大呼吸をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
「誰?」
「へい。」と、ただまじまじする。
「姉さんに、その遊女が今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同一御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋友にも知れてはならず、新造などにさとられては大変なので、昼から間を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
ちょうど今夜は、内証に大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐込んだのを機にぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠退いた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば直に知れますが、あれ、あんなに犬が吠えて、どうすることもならないから、生命を助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ廓のこと、一大事ででもあるようだから、直にことづかった品物があるんです。
ただ渡せば可いか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰路もそこだというもの。そのまま別れて遣って来ると、先刻尋ねました、路地の突当りになる通の内に、一軒灯の見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦人がまだ立っていて、こっちへ指をしたように見えたけれども、朧気でよくは分らないから、一番、その灯を幸。
路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、爺の声で教えてくれた。
何、一々委しいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この明い灯を見ると、何だか雪路のことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦人ばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作に肱を張って、左の胸に高く取った衣兜の中へ手を入れた。――
固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦めながら、少し仰向いて、考えるらしく銀のような目を細め、
「何だろうねえ、杉や。」
「さようでございます、」とばかり一大事の、生命がけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の言を疑う色は無かったのである。
「待って下さい、」とこの時、また右の方の衣兜を探って、小首を傾け、
「はてな、じゃあ外套の方だった、」と片膝立てたので。
杉、
「私が。」
「確か左の衣兜へ、」
と差俯いた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを厭わず、大切に抱くようにして持って来た。
敷居の上へ斜に拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、慄としたよう。
二十一
「可うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」
探しあぐんで、外套を押遣って、ちと慌てたように広袖を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて悄れてじっと考えた時、お若は鷹揚に些も意に介する処のないような、しかも情の籠った調子で、かえって慰めるように謂った。
お杉は心も心ならず、憂慮しげに少年の状を瞻りながら、さすがにこの際喙を容れかねていたのであった。
此方はますます当惑の色面に顕れ、
「可いじゃアありません、可かあない、可かあない、」
と自ら我身を詈るごとく、
「落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は生命にもかかわる。」と、早口にいってまた四辺を《みまわ》した。
「一体どんなものでございます。」とお杉は少年に引添うて、渠を庇うようにして言う。
「私も更めちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。」
お若はちょいと頷いて、
「杉、」
「ええ、」
「瀬川さんの……ね、あれさ、」と呑込ませる。
「ええ、成程、貴下、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった遊女は、脊の高い、品の可い、そして淋しい顔色の、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!」
と勢よくそれにした。
「今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、少姐さんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。」
「何です、それは、」とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば金子らしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、手尖に触るるは袂落。修学のためにやがて独逸に赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将松島主税の令夫人を持って、ここに擲って差支えのない金員あり。もって、余りに頼効なき虚気の罪を、この佳人の前に購い得て余りあるものとしたのである。
問われてお杉は引取って、
「ちっとばかりお金子です。」
欽之助は嬉しそうに、
「じゃあ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いなら遣って可いのを持っているから。」と思込んで言った。
「飛んでもない、貴下、」と杉。
お若は知らぬ顔をして莞爾している。
此方は熱心に、
「お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だか極が悪いんだ、夜々中見ず知らずが入込んで、どうも変だ。」
「あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお小遣が沢山あるわ、銀のだの、貴下、紙幣のだの、」といいながら、窮屈そうに坐って畏まっていた勝色うらの褄を崩して、膝を横、投げ出したように玉の腕を火鉢にかけて、斜に欽之助の面を見た。姿も容も、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかも蟠のない言葉はあるまい。
左の衣兜
二十二
意外な言葉に、少年は呆れたような目をしながら、今更顔が瞻られた、時に言うべからざる綺麗な思が此方の胸にも通じたので。
しかも遠慮のない調子で、
「いずれお詫をする、更めてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ一番、腕車の世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお馴染があるでしょう、御近所ならば私が一所に跟いて行くから、お前さん。」
杉は女の方をちょいと見たが、
「あなた何時だとお思いなさいます。私どもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。
あれあの通、まだ戸外はあんなでございますよ。」
少年は降りしきる雪の気勢を身に感じて、途中を思い出したかまた悚とした様子。座に言が途絶えると漂渺たる雪の広野を隔てて、里ある方に鳴くように、胸には描かれて、遥に鶏の声が聞えるのである。
「お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。
私どもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
御自分じゃちゃんとしてお在遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確じゃないようにお見受申します。
お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は破れたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お託り下さいましたものも失せますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷下だりまで、そりゃ十年お傭つけのような確な若いものを二人でも三人でもお跟け申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、皆が御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴下のお身体に恙のないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった験のございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
そしてお若さんもお炬燵へ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお暖なもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」
「実はどういうんだか、今夜の雪は一片でも身体へ当るたびに、毒虫に螫れるような気がするんです。」
と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に纏われて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん宜うございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」
お杉大明神様と震えつく相談と思の外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍惚して眠そうである。
はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆気に取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けると直お帰んなさるんなら厭!」
「そうすりゃ、」と杉は勢込み、突然上着の衣兜の口を、しっかりとつかまえて、
「こうして、お引留めなさいましな。」
二十三