40話 四十
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と見れば白髪を振乱し、頤細って痩せさらぼい、年紀六十に余るのが、肉の落窪んだ胸に骨のあらわれたのを掻いはだけて、細帯ばかり、跣足でしかも眼が血走り、薪雑木を引掴んで、飛出したと思うと突然、
「火事だ、」と叫んで、軍鶏を打とうとしたが、打外した。
蔵人は咄嗟に躱して、横なぐれに退ったが、脚を揃えて、背中を持上げるとはたと婆に突かけた。
「火事だ、」
また喚いて件の薪雑棒を振廻す、形相あたかも狂者のごとく、いや、ごとくでない、正に本物である。蓋し小金も溜って、家だけは我物にしたというから、人一倍、むしろ十倍、宵啼に神経を悩まして、六日七日得も寝られず、取り詰めた果が逆上をしたに違いはないので。
白髪は飛んで、翼は乱れた。あれよと見る間に、婆と軍鶏と、とんと当り、颯と分れて、月下にただぐるりぐるりと廻った。
「汝、業畜生、」と激昂の余り三度目の声は皺嗄れて、滅多打に振被った、小手の下へ、恐気もなく玉の顔、夜風に乱るる洗髪の島田を衝と入れて、敵と身体の擦合うばかり、中を割って引懸けにぐいと結んだ帯の背後へ、軍鶏を庇ったのはお夏である。
「お婆さん何をなさるんです。」
ちょいと横顔で振返って、
「叱!」
軍鶏も窘むようであった。婆は恐しい目をしながら、胸に波を打たせて肩で呼吸だ、歯を喰緊めて口が利けず。
かかる処へ殺気を籠めて、どかどかと寄せて来た、お夏と蔵人とを中に、婆の右左へかけて取巻いたのは土蔵の前に居た連中。
「何だ、火事だ。」
「火事だ?」と口々に尋ねたが、これは事件の緒口を引出そうとするに過ぎない、皆々は云うまでもなく、その間の消息を解していた。
「こ、こ、こいつじゃ、火事はこいつじゃ。」
人数が襲い来ったので思わずおさえていた袂が弛んだ、お夏の手を振放して、婆は蔵人に躍りかかった。
「何をするんですよ。」
遮ろうとするお夏の帯を、ぐいと留めた者がある。同時に婆を突退けて、
「まあ、待ちなさい、」と一名。
発奮をくらい、婆は尻餅をついて、熟柿のごとくぐしゃりとなったが、むっくと起き、向をかえると人形町通の方へ一文字に駆け出した、且つ走り、且つ声を絞って、
「火事じゃ、火事じゃ。」
「あれ。」
嬰児を懐にしっかと圧え、片手を上げて追懸けたのは、嘉吉の家の女房である、亭主その晩は留守さ。
「さてお夏さん、思切っておくんなさい、二三日前から薄々様子は知っていなさろうがね、町内じゃあ大抵気にするッたらないんだから、一番ね、思切って私等に鶏をおくんなさい。何も宵啼をすりゃこうと、政府からお触が出たわけじゃないけれども、可うがすかい、心持だ。悪いことは謂いませんや、お前さんのお為にその方が可かろうと思うからね。」
お夏は黙って囲の中に居るのである。