6話 六
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あくる朝、友の強ゐて留むるをさま/″\に言ひ解きて程に上る。旅の衣を着け、草鞋を穿ち、藺席を被ればまた依然として昨日の乞食書生なり。友と若き主人とは少し送らばやとて後より追ひ來りぬ。美しく晴れたる日にて、路傍の草の露の繁き、思はず人をして秋の氣の胸に沁するごとくなるを覺えしむ。一二町にして友に別離を告げんことを望む。友諾せず。猶來ること數町、われより強ゆる更に數次なるに及び、さらばとて立留りしは、町を既に遠く離れて、路の少しく右に曲りたる、一株の松樹の面白く立てる處なりき。
友は微笑みてわが旅の姿を見送れり。われは胸に限りなき旅の淋しさを覺えたれど、しかもそを強ゐて押へつゝ一歩々々次第に其處を遠ざかり行きぬ。一町にして顧るに、友猶ほ其處に立てり。否、わが方を指點して頻りに何事をか語合へるものゝ如し。猶行くこと一町、顧るに友の姿は早既にあらず。
これより宮の越驛に至る、坦々砥の如き大路にして、木曾川は遠く開けたる左方の山の東麓を流れ、またその髣髴を得べからず。宮の越驛は木曾義仲の古蹟多きを以て世に聞えたるの地、その本城たりし山吹城の遺址は今猶其の東端にありて、田圃蕭條の中仔細にその地形を指點すべく、傍に祀れる八幡宮の小祠は義仲が初めて元服を加へたるところと傳ふ。
驛を過れば、山影再び帽廂に近く、木曾川の流も亦その美しき景を眼前に展開し來る。一危橋あり、翠嵐搖曳するの間に架し、刈草を滿載したる馬の徐ろに其間を過ぎ行く、また趣なしとせず。路は溪と共に左に折れ又右に折れ、遂に群山重疊せる間に沒却し去る。雲あり、輕羅のごとし。飄々として高く揚り、日光に照されてさながら金烏のごとき光を發し、更に無限の秋風に吹かれて、次第に旗のごとく帶のごとくその山巓を卷かんとす。かくて兩山相仄し、溪聲雷のごとき間を過ぐること一里餘、路は更に幾屈曲して、遂に萬山の窮るところ、蕭々たる數軒の人家の遙かに雲中に歴落たるを認む。
これ即ち籔原驛なり。
一時間の後、われは鳥居峠の絶巓、御嶽神社遙拜所の華表の前なる、一帶の草地に藺席を敷きて、峠を登り來りし勞を醫しながら、じつと眼下に展げられたる木曾の深谷の景を見やりぬ。
其景や甚だ大なるにあらず、其眺矚や甚だ廣濶なるにあらず、否、此處よりはその半腹を登り行く白衣の行者さへ見ゆと言ふなる御嶽の姿も、今日は麓の深谷より簇々と渦上する白雲の爲めに蔽はれて、その髣髴を辨ずる能はざれど、しかもわれはこの絶巓の眺望を限りなき激賞の念を以て見ざることを得ざりき。見よ、四面の連山のさながら波濤の起伏するがごとく遠く高く連れるを。天下何れの處にかこのおもしろき一矚とこの深奧なる無數の山谷とを見ることを得む。また、何れの處にかこの秋のさびしさとこの山の靜けさとを味うことを得む。况んや秋の日の光は美しく四山の白雲に掩映して、空の藍碧は透徹るばかりに黒く嶮しき山嶺を包み、中に無限の秋の姿を藏したるをや。
われは茫然として時の移るをも知らざりき。