10話 一〇
読み方を変える
さうして其痕跡かと思ふ口碑の類は相應にある。即ち出雲風土記と同じく、特に深淺を知らずと傳へて居る岩屋は極めて多數であり、或は又富士の人穴の如く、強ひて入つて奇瑞を見たといふものもある。それから實驗をした者は一人も有り得ないのに、非常な遠方の靈地と下に通うて居ると説く例もある。注意すべき一つの傳説には、狗を入れて見たら還つて來なかつた。若くは白い狗のみが幾日かを經て還つて來たといふ類のものがある。是が何等か昔の葬式と關係があつたやうに思はれるので、私は他日其比較を試みたいと念じて居る。それから第二段には遺跡學の側からでも、今ならばまだ岩窟葬送の痕を見出し得るのでは無いかと思ふ。横穴の人骨は入口を完全に塞がぬ限は、勿論非常に早く朽ちてしまふだらうが、雨水に流されぬ限は成分は土に留まつて居る筈であり、さうで無くとも何等かの名殘は認められたわけである。埼玉縣吉見の百穴なども、我學會の久しい論題であつたが、持主があゝきれいに掃除をしてしまつてからでは、もう證據といふものがどちらの爲にも得られない。併し口の開いた塚穴や天然の洞で、毀たれもせず又省みられもせぬといふものは、今でも尚國々に大分の數が殘つて居る。
第三段の方法としては、我々は更に現在の慣習調査の力を借ることも出來る。近世數百年の永きに亙つて、社會を分立して居た南方の島々が、偶然に保留し又は別樣に成育させて居た一種の昔風なども、若し幸ひにして兩方の學徒が、偏見無く之を考察し比較し得たならば、假に直接の教訓とは行かぬ迄も、少なくとも有力なる暗示は得られる。而うして葬法の方面に於ては、殊に此頃になつて意外と謂つてもよい色々の事實が判つて來た。沖繩の諸島に於ては、横穴の使用と閑地送葬とは、土地の事情に應じて交互に行はれて居た樣で、現在住民が土葬を以て目して居る慣習の中にも、中部日本に比べると幾分か多量に、前代葬法の痕跡を遺して居るかと認められる。此地方には火葬は全く採用せられず、水葬も亦確かなる證跡は無いかと思ふが、免に角に從來我々が外國の學説に依り、所謂五大五種の葬法をそれ/″\別系統のものゝ如く見ようとしたのは誤で、實は此間には甲乙自然の推移を許すだけの、聯絡があり又基礎があつたといふことが、始めて稍明らかになつたのは近年の南島研究の收穫であつた。
此問題に關しては、伊波普猷氏の「南島古代の葬儀」(民族二卷五號)が既に其要領を盡して居る故に、再び之を詳説することは無用である。自分はたゞ外部からの觀測者の爲に、一二末端の補足を試みるに過ぎないが、沖繩の墓制は首里那覇の中心地に於てすらも、之を外形に由つて支那式の採用と、速斷することは出來ぬといふことが其一條である。何よりも根本的なる二者の相異は、一方が個人の墓であるに反して、此方は家の墓であること、即ち沖繩ではかの宏壯なる土窖を、單なる墓の集合といふよりも、寧ろ閉鎖せられたる墓地と見て居ることである。一族門黨の間に限られては居るが、穴の内の平場はいつ迄も共同の葬處として使用せられ、從うて頻々たる窖穴の出入があり、又必ず改葬の式があつた。さうして其第二の墓場も亦、同じく此横穴の一隅に設けられて居るのである。邑里が繁榮すると共に、何等かの制限が死者の用地に向つて加へられなければならぬとすれば、是などは最も整頓したる一方法であつて、或は後の時代の賢こい發明に出でたとも想像し得られぬことは無いが、實際は此の如く二段の葬地を一窖の中に併置するの風も古かつたと見えて、島の王家の初期以來の墓制も内面は略同じであつて、單に近代のものが、其外部の構造に著しく支那の工作法を學んだといふのみであつた。