葬制の沿革について

9話 九

1,041字 約2分 2025年5月17日 公開

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 海邊にして塞の川原といふのは持つて來た名のやうだが、カハラは又磧の字を宛てゝ、實は小石原のことである。元はゴウラといふ語から分れたもので、流れの岸を意味するカハラとは別であつた。即ち若しこゝが葬地であつたとしたら、絶對に土葬は出來ぬ場處であつた。佐渡の海府の塞の磧には、餘り大きくない一つの岩窟があつて、今の通路は其片端を潜るやうになつて居る。浪打際からは稍高くして海に面し、其奧には新舊の石佛が幾つと無く竝べてある。或は斯ういふ場處が特に以前の葬送の地に、適して居たのでは無いかと思ふ。

 それに就いて思ひ合せるのは、玉勝間卷十に載せられた出雲國黄泉の穴の記事である。場所は簸川郡奧岡村(西田村大字奧宇賀)ゾウガ谷、鰐淵山東側の山腹に在つて、海に面した天然の洞窟である。鰐淵寺の縁起には智證大師入定の穴とあるさうだが、土地の故老は之を冥途の穴と呼び、毒氣上り來つて之に中れば死すと謂つて居た。今は草に埋もれて里人も若き者は所在を知らずとあるのが、既に寛政六年三月の事であつた。是は本居先生が特に齋藤秀滿といふ人を遣つてわざ/\調査させられた記事で、先生は之を以て出雲風土記に録する所の黄泉之穴に比定せんとせられるのであるが、出雲風土記考證の著者後藤藏四郎氏は其説に同意せず、別に海近くの猪目濱といふ地に在る天然の洞窟がそれだと謂ひ、右のゾウが谷の穴は天然のもので無いからちがふと論じて居る。それは何れでもよいと言ふよりも、此論が正しいとすれば實例が二つになるわけで、實際亦さういふ例は幾つもあつてよいと私は考へて居る。此序に出雲風土記の文を拔出して見ると、それには次の如く書いてある。

出雲郡宇賀郷、腦磯……………

自磯西方有窟戸。高廣各六尺許。窟内有穴、人不得入。不知淺深也。夢至此磯窟之邊者、必死。故俗人自古至今、號黄泉之阪、黄泉之穴也。

 私は訓詁の學に疎いから、此點から特に何の論斷をも導かうとはしないが、是と神代卷の泉津平阪の物語と、名を同じうして處を異にし、又其解説をも別にして居ることは、即ち山の側面を以てあの世に降つて行く路とし、乃至は窟戸を以て顯幽二境の關門とする考へ方の、必ずしも一地一時代に限られたもので無かつたことを意味するものと思つて居る。從うて假に此地方のみは一千年も前から、最早現存の慣行を以て黄泉之穴の地名を釋くことは出來なくなつて居ようとも、他には又ずつと後代まで、斯ういふ思想に基づいて、岩屋を葬處に宛てゝ居た例が、尚幾らもあつたかも知れぬのである。

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