葬制の沿革について

11話 一一

1,486字 約3分 2025年5月17日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 ところが國頭郡の田舍をあるいて見ると、例へば羽地村の仲尾次の對岸の孤島の如く、天然の洞穴に些少の人工を加へて、葬地としたものも少なくは無い。それが木製の戸や格子を立てゝあるのを見ると、ごく近い頃まで使用して居たことは明らかであるが、果して洗骨後の安置所としてのみ用ゐられたか、但しは第一次の葬送に際して、柩をも此中に入れる風があつたのかは疑問である。土地の故老に尋ねたら容易に判明することゝ思ふが、自分は恐らくは穴が小さければたゞ遺骨を藏する處とし、内が廣ければ其一部を共同の葬處にも利用したのであらうと思つて居る。さうして實際は多くの天然の穴は小さかつたから、大抵の場合には其近傍の林叢などを、第一次の野邊送りに宛てゝ居たのが、後に自由に墓穴を設計工作するやうになつて、總べて柩を内部に入れて置くことになつて來たものと想像する。運天の港の後の山に在る有名なる百按司の穴なども一つの例であつた。是は相應に大きな洞ではあるが、内に藏する遺骨の量も莫大なもので、到底其間に柩を置くべき餘地は無い。そこで多數の戰死者を合葬したなどといふ傳説も生じたのであらうが、戰死にせよ病死にせよ、どこかに最初の屍を横たへた場處はあつたわけで、その遺跡は今日では悉く不明になつて居るのである。

 伊波君は風葬といふ語を用ゐて居られるが、私は寧ろ空葬と呼ぶのが當つて居るかと思ふ。兎に角に近い頃まで、島によつては今日まで引續いて、土葬以外の方法がこの墓穴の外で行はれて居たのである。國頭の或山村には木柱を樹てゝ其上に小屋を構へ、中に亡骸を置いて洗骨の日を待つ風があつた。東海岸の一二の小島に於ては、島の背面の最も人げ無き一地を劃して、そこに柩を送つて置く風がある。八重山の諸島に於ても、單に荒野の一區域に假に遺骸を置く場處があつたと謂つて、其見取圖なども掲げられてあるが、自分の目撃したものなどは多くの珊瑚礁の石を積重ねて、おまけに泥を以て其隙間を目塗りしてあつた。此等はいづれも次の改葬を豫期するが爲に、本式の土葬を行はなかつたもので、斯ういふ薄葬が一躍して現在の壯大なる墓地となつたことを、伊波氏などは不思議にも感じて居られるやうだが、私の見る所ではそれは單に第一次の葬地を、外から遠望し得ぬやうに改造したといふだけの差であつたと思ふ。

 しかも何等かの方法があれば、成るべく見えぬやうにしようといふ試みは古くから既にあつた。初期には用の無い人は避けて其あたりには近づかなかつた。又努めて往來の稀なる土地に葬處を指定した。山野の使用が繁くなつて、岩窟や樹林の外觀を覆ふべきものが少なくなると、久志の山中に在つたといふ例のやうに、小屋を以て之を隱し兼て又雨露を防がうとしたのである。久高の島などの濱邊に送る柩が、蓋を屋根形に作つて居るのも同じ趣旨であらうと思ふ。沖之永良部などでは其小屋をモヤと名づけ、明治に入つて後諭告を以て、死者の親族が屡其モヤに去來することを制止したといふ話が、伊波氏の論文中にも引用せられて居る。モヤは疑も無く古史に見ゆる喪屋であつて、後年は期間が短くはなつたが、喪屋に籠るの風は内地にも殘つて居る。常民はたゞ通夜と稱して、家の内に集まるだけになつたが、元はその喪屋を構へた場處が、即ち第一次の葬地であつたことゝ思ふ。貴人の御喪に當つて鳥邊野の傍にタマ屋といふものを造つたといふことは、榮華物語の中にも見えて居て、是が近世の御靈屋と同じもので無いといふことは、本居先生も既に注意して居られる。私はこのモヤをタマヤとも謂つたといふことに、可なり大きな暗示を見出すのである。

目次に戻る

目次