14話 一四
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二度の葬式といふ古來の慣行は、今日は却つて火葬に於て其遺風を認める。火葬が決して土葬に對立した別方式で無い證據には、何人も是のみを以て葬儀の完結とは見て居らぬ。火葬が終れば次には骨揚げがあり、その骨を處理し保存するが爲に又第二の手續きがある。九州の一地方には沖繩と同樣に、洗骨をする風があると折口君は言はれたが、我々はまだそれがどの位弘く行はれて居るかを究めて居らぬ。が兎に角に遺骨の移動は現在も尚屡企てられ、人が改葬を手輕く考へて居ることは事實であり、又高野山の骨堂の如く、之を追福の目的に行ふ例もあるから、地方によつて改葬を正規と認めて居るものも、調べて見たらまだ相應にあるのかも知れぬ。
九州南部の各地に於て、自分の目撃した墓地の中には、やはり大島の如く二段に分れて、下を葬地とし上を祭地として居るものがあつたと記憶するが、それが果して二度の葬式の慣習に伴ふものであつたか、但しは偶然に一方には碑石を立て得ない家の墓ばかりがあつたのか、當時注意がまだ及ばなかつたから、是非改めて尋ねて見たいと思つて居る。併し少なくとも他の一方から見て、碑石が常に埋葬地の上にばかり樹てられたものでなかつたことだけは、特に引證せずとも多くの人が認めるであらう。村の墓地などに入つて見るとすぐ眼に着くが、石塔には夫婦親子、時としては四人六人の戒名を連ねたものが多く、家によつては今尚一個の先祖代々の墓を以て各員の年忌を祭つて居るものがある。さうして新墓の訪はれるのは僅かの期間で、其以後は攪亂に因つて遺跡を知る能はず、又知る必要も無いものと考へられて居たのであるが、茲でも亦南方の三十六島と同じやうに、近代に入つてから追々にこの二通りの墓場が、一處に連接する傾向を示し、從つて又其意義に關して若干の混亂誤解を見るやうになつたのである。
是は單に民俗學、若くは社會人類學などと呼ばるゝ一つの新しい學問の、耕すべき曠野が尚殘つて居るといふことを意味するに止らず、其中でも自分等が兼て唱導して居る一つの方法が、殊に日本に於て其能率を發揮し易いことを、立證し得る機會であると思ふ。都市の葬法が必要あつて改訂せられた以外に、個々の地方に於てもこれが世間竝、即ち日本一般の風なりと認めて居るものが、實は殆と縣毎に、又時としては村を隣して相異なつて居ると共に、一方には多くの山河を隔てゝ、相似たる特色を具ふる者もある。別に大業なる分析や推理を勞する迄も無く、たゞ其要點を有りのまゝに記述して互ひに比べて見ることが、興味ある疑問ともなれば又明瞭なる解釋とさへもなるのである。條件は單に或數量の事例を、一つの尺度の前に集合して見ることにあつた。それを自分たちが實驗に富みたる我が東京人類學會の會員に、期待しようといふのは無理難題でも無いと信ずる。
周到なる調査項目を設けるとなると、まだ此外にもマクラメシとかゼンノツナとかの、奧行深き問題が幾つもあるが、差當りの必要は單に墓場が村々の何れの部分に在り、俗に何と呼ばれ、又如何に使せられるかを見たゞけでも滿足させられる。それから家々の之に對する考へ方を知る爲に、盆の魂迎へ魂送りがどの地に向つて營まれるかを知つて置くだけでも非常に有效である。所謂亂塔場には祖先の屍が横たはつて居ることは事實であるが、其聖靈は多くの村に於て、石塔の立てゝある第二の墓所から、或は又海川の滸に向つて送られて居た。
別の語でいふと、我々は古埃及人の如く、亡靈の平安の爲に其形骸の保存を必要と認める民族では無かつた。寧ろ身が痛み損じて活用に適しなくなると、少しでも早くその内に在るものを引離して、自由を得させようとして居たのであつた。魂の實在と力が少しづゝ信じ難くなつて、孝子の亡骸に取縋り又奧都城の前に悲泣する者を生じたのかと思ふ。兎に角に今日の土葬が久しい間發達せず、たま/\人目を包み外敵を防ぐ爲に、石を積み土を蔽ふに過ぎなかつたことは、決して死者に對する敬意の、今は篤く昔は淡かつた證據にはならぬのである。記念の保存といふことが若し墓といふものゝ主たる目的であるならば、第二次の葬處こそ本當の我々の墓であつた。最初の共同墓地は昔も今も一貫して、常に或る短き期間の使用にのみ供せられて居たからである。
そんなら古墳と名づけられる大きな人工の塚山、内に完形を以て古人の姿を保存して居るものも、第二次の葬處だといふかと質問する人があるであらうが、私は多分さうだらうと答へる積りである。少なくとも之を以て或る系統好きの學者のやうに、出雲天孫乃至は異種文化の對立を示すものとは考へて居ない。至つて少數の優れた人たちが常民普通の葬法よりも遙かに手重い取扱ひを受けて居たことは意外で無い。此點に付いても沖繩などの墓制は一つの參考であるが、彼地から遺骨を改葬するに當つて、特に一つの棚一つの土の壺を用意すべきものと、多數を同じ容器に集合して置かるものと、明らかなる差別が立てられてある。大體からいふと家の開祖、系圖に三つ屋を附けられる人のみが、其特別待遇を受けることになつて居たらしいが、後には中興の祖などと謂つて範圍が追々に弘くなり、終にはすべての主人夫婦の爲に、能ふ限り別の地位を供するやうになつて來たらしい。それから祝女祭女の神に近かつた人の骨も別にした。奄美大島でもノロクメの清き遺體のみは、常人と混ずるときは祟があると謂つて、別の石塚を設けて居る例を見た。しかも世と共に其數が加はつて來れば、是も追々類を以て併合して行くと見えて、ナバ石即ち珊瑚岩の組合せの隙間から、小さな幾つかの骨壺の光つて居るのが目についた。しかも此法則は結局は破れなければならぬものである。新人は生の間にも古人より有力であつたのみならず、死靈としての威壓も亦古い靈よりは強かつた。おれもあの通りにして祭れといはれると、其遺命には隨はなければならなかつた。それが段々に彼等の愛する者にも及んで、新たなる家門のどし/\と起る頃から、内地でも墓石の數は多くなる一方で、末には極貧の者でも無い限り、一人殘らずに何々院の戒名ある石塔の主に、ならなければ承知しなくなつてしまつたのである。
併し一方には其爲に遺骨の保管が更に困難となり、改葬の儀式は省略せられることになつて、後世骨に依つて人類學を推進させようとする者に、少なからざる活動區域の狹隘を感ぜしめることになつたのも事實である。負惜みの如くに聽えるかも知らぬが、山作りの風が衰へて前代墳墓の地の次第に幽かになつたことも亦一つの大切なる消極的史料であつた。即ち我々は必ずしも此方法に由らずとも、尚恭敬を以て祖靈に奉仕するの途を有つて居た故に、火葬又は土葬といふが如き新たなる慣習に、移つて行くことが困難でなかつたのである。土佐國群書類從に採録せられた御子神の記事などを讀んで見ると、死して六年とかの後には人を神に祀ることが出來ると謂つて、其方式が載せてある。是が或は全國に亙つて、第二次の葬儀を必要とした元の動機であり、又家廟として石塔を立てることになつた根原では無いかと思ふ。即ち後々は祭祀の力を以て、亡魂の來つて石に憑ることを、信じ得るやうになつたけれども、最初は現實に骨を移し且つ之を管理しなければ、子孫は祖先と交通することが出來ず、從つて家の名を繼承する資格が無いものと考へて居たのではあるまいか。姓をカバネと謂ひ、カバネが骨といふ語と關係があるらしいから、私は假にさう想像する。但し此假定が今後集まつて來る新資料に照して、尚幾度と無く鑑査せらるべきは勿論である。